第32話 フィニス村

 ウェストラは齢5つ程度の幼い少女の目線に、片膝を突いて屈み込み、周囲に目を配る。


「何があったんだ?お前の父母は何処に?」


「皆んな、みんなね、急に変な風になっちゃって……。いきなり走り出して、行っちゃったの」


 浅瀬でさえ底の見えぬ淀んだ溝のような声色が、野太く黒々と幾重にも重なっていた。


「痛い……」


 少女の悲痛な訴えに、ウェストラは人形を握りしめていた手をそっと掴み取り、俄かに周囲を覆い尽す淡い緑光を発した。


 だが、依然としてその体は獣のように硬く肥大化し、醜悪に黒々しく焼け焦げていた。


「……呪いの類か?」


 その緑光は流れるように絢爛なる金光に変色し、禍々しき肉体を立ち所に癒やすが、一刹那の間を空ける事なく、その身を元の姿に戻す。


「チッ、あの馬鹿を呼ぶか。……待っていろ。今、お前を治してくれる者を連れて来る、それまで…」


 少女に背中を向けて、薄らと燦々たる陽の下に、歩みを進めていかんと大きく踏み出した。


「パパは?ママは?他のみんなは?また、また…私だけ置いてきぼりにして、みんな行っちゃうの?」


 その悲歎な一言にピタッと歩みを止めて、緩やかに振り返る。光の途絶えた虚ろな眼には、もう何も映ってなどいない。


「体中ずっと痛いの。何も残ってないなら、もう……何も要らない。もう欲しくない」


「……」


 ウェストラは徐に天を仰ぐ。


「あぁ、分かった。今、楽にしてやる」


 そう言い、短剣を握りしめながら踵を返して、大地に臥した絵本を踏み締めていった。


 その一方で、一人の兵士が己が魂なる剣を振り回して、憤りを周囲に撒き散らしていた。


「貴様がやったのだろう!!」


 皺の際立った老婆のローブを鷲掴みにして、今正に其の頭上に振り下ろさんと、緩慢に刃を振り翳す。


「落ち着け」


 机上に置かれた清澄なる水晶が地に落ち、鋭い音を立てながら、玉の至る所に亀裂が走っていく。


「失せろっ!!お前には……!?あ、貴方は!」


「状況説明が先だ。喚くのは、その後にしろ」


「……はい」


 渋々、事のあらましを掻い摘んで説いた。


「其の如何様師が、村の住民を魔物のような姿に変えたのです!!此処は、この村は俺の故郷で……」


「少しは落ち着かんか、たわけ!こんな老い先短いババア何ぞに、そんな珍妙な技が扱えるものか!」


 自ら硬く握りしめた拳を腕を振り解いて、ローブにさえも皺を付けて椅子に腰を下ろす。


「あたしゃ、此処の占い師だよ。怪しい事は何もしとらん。ただ、たまーに銭を稼ぐ日もあるがな。それ以外は本当に何もしてない」


「此処らの住民が見当たらないのは何故だ?まさか、お前……」


 徐に兵士の握りしめた剣の先、真っ赤な鮮血に染まった刃に目を向ける。


「其奴が全ての者を始末してしまったよ」


「魔物だ!あれは絶対に魔物だ!!」


 そう自らを欺くように言い聞かせ、引き攣った歪で迫真の面差しを、勇者にぶつける。


「あれは魔物だったんです。あれは……」


「もういい。お前は身を休めておけ」


「もっと早く言ってやれば良かったんじゃが、気付いた時にはもう既に遅かった……」


「何故、御仁は無事だった?」


「この水晶のおかげじゃよ」


 割れた水晶を掴み上げて、机上に置く。


「突然、村を覆い尽くした謎の魔力の波が、人々を魔物の姿に変えていったが、この水晶が弾き返してな」


「……魔力の波って?」


「すまないが、お前たちは席を外してくれないか?」


 エルフと憔悴した兵士に嘆願する。


「……うん」


「承知致しました」


 二人とも、渋々その場を後にする。


「御仁。もう一度、説明を頼む」


「はぁ、全くこき使いおって……。面倒なんで要点だけ述べるぞ」


「あぁ」


「禍々しい魔力の波が、恐らく魔王城の方角から波打って、一瞬に人々を魔物に変えていった。だが、あたしは水晶の力のお陰で、運良く助かり、彼奴も運悪く出会してしまった。まぁ、そんな所だろう」


「……。いつ頃だ?」


「ついさっき。と言っても、数刻前だがな」


「魔王誕生は、まだの筈なんだがな……」


 勇者は口元に手を当て、ぶつくさと囁く。


「ん?その手……お主まさか」


「余計な詮索をすれば、その救われた命……再び、落とす羽目になるぞ?」


「それもそうじゃな。魔王関連に関わって、消息の断った者たちは数え切れんしのおぅ」


「では、またいつか」


 勇者は外套を翻して、歩みを進めていく。


「もう会いたくなどないわ。それに、それは叶わん話じゃろう?」


「それは……どうだろうな」



 そして、勇者はウェストラと合流する。


「何をしていた?」


「ただの仕事さ。塵みてえな汚れ仕事だよ」


「そうか」


 勇者はエルフを探し求めて、背を向ける。


「華々しく帰還した勇者だが、その親しき者たちは一様に告ぐ。あれは本物じゃないと…」


「あぁ、あれは本物じゃなかった」


 その言葉に、僅かに目を見開く。それは、思わぬ成果を手にしたような一驚を喫して。


「…………。何故、お前は勇者になった?」


「俺が、俺たちが勇者だからだ」


「そうか……」


 ウェストラは喉元まで出掛かった言葉を、胃に強引に押し込んで、口を固く閉ざした。


 怒りだけとは違う、数多の感情を噛み締めたかのような錯綜とした表情を浮かべて…。


「行くぞ」


「あぁ」


 二人は再び、魔王城への道を進んでいく。

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