第5話

 船は波に逆らって進むため必然的に船内は揺れることになる。三半規管をぐるぐると回される感覚に若干の気持ち悪さを覚える。唾を飲み込んで押し留めるもあまり効果は得なかったが横になれば少しばかり楽になった。それも一瞬のことで、あまり意味を持たない。公爵様の声が酷く頭に響く。視界の端で彼が部屋を出て行った姿とドアを閉める音が聞こえた。

 身体を起こしてなんとか部屋を出る。

 ちょうど近くを通りかかった船員に船医室はないかと尋ねて案内をしてもらった先で診てくれたのは「おそらく船酔いをしたんだろ」割と高齢の男性の医師だった。

「船酔い、ですか」

 あまり乗り物酔いをしたことがないからわからなかったがそう言われてみればそうかもしれない。

「船に乗るのは初めてかい?」

「はい」現世では。

「それはきついだろう。慣れるのにだいぶかかるからね。しばらくは部屋で寝ているといい。酔い止めを出しておこう」

「わかりました」

 真っ白な船医室の中は消毒液の鼻をつくにおいがした。船医と助手の女性がいくらか言葉を交わしていたが思い出したようにこちらに視線を戻した。

「ああそうだ、君、妊娠はしている?」

「は?」思わぬ言葉を言われて言葉が出てこなかった。

「君結婚してるでしょ。君が摂取したものは胎児にも行き届くから聞いておきたいんだけど」

「あ、いや、えっと」どう答えたらいいのかわからなかった。

「すまない、不躾だったね。念のため影響のないものを処方しておこう」

「⋯⋯はい」

 妊娠。そう訊かれて唐突に現実味を帯びて心臓をぎゅっと縮まらせた。その可能性はある。一回とはいえ、妊娠しているかもしれない。自身のお腹の中に新しい命が宿っているかもしれない。どうしたらいいのかわからなかった。月のものはまだ先だ。時期からみて妊娠した可能性は高い。でも私は初夜のことはまったく憶えていない。彼が避妊したかもわからない。だからどう答えたらいいのかわからなかった。

 本人にもどう訊いたらいいかわからずあの夜なにがあったのか私はわかっていないままだ。

 そのことが怖いと思った。

 自分自身の身体に起きていることさえわからないでいる。

「ベラ」

 名前を呼ばれて意識を目の前の人物に持っていく。

「食べないのか?」

 ふたりの間には蝋燭が灯されて遠くでは緩やかに弦楽器が音色を奏でている。

 船医室で少し休んで部屋でも休んでだいぶ回復はした。

 けれど妊娠しているかもしれない。ということが頭を掠めて、赤ちゃんに良くない食べ物なのではないか、悪影響がでるのではないか。とぐるぐるするうちに料理はまともに喉を通らなかった。

 促される形で食事を取ろうとしてみるもアルコールのにおいが嫌に鼻を刺激した。

 体調が悪いと公爵様に断りを入れて部屋に戻ることにしたが共に部屋に戻ると言ってくれた公爵様の手に支えられる形で船内を戻る。

「顔色が悪い。大丈夫、なわけないか。いま、なにか持ってこよう」

 ベッドに横たわる意識の遠くの方で公爵様の言葉が耳に心地良く届いた。

 赤ちゃんができたかもしれない。と言ったらどんな反応をするだろう。彼にとってこれは政略的な結婚で望んだものではない。たとえふたりの子供として育てたとして彼の愛情は子供に注がれるだろうか。

『私が望めば君はその体を差し出せ』

 あの時の言葉からして彼は子供を望んでいないように感じた。

 彼は公爵という立場で結婚さえ煩わしいと言っていた。

 それに彼はヒロインと結ばれる。

 それが原作の、この物語の結末だ。

 彼も、私もそう望んでいる。

 だから、

「ベラ。水だ。飲めるか」

 このことは公爵様には言わないでおこう。

 私があなたを愛すわ。

 私は死んでもいい。

 でもあなたは死なせない。

 なにがあってもあなたを守る。

「……ベラ?」

「そこの、酔い止めの薬を取ってくれる?」

 処方された薬は白い紙袋に包まれていたのは白い顆粒状の薬だった。舌に乗せた薬が瞬時に苦味を広げていくのを水で押し流す。

「この薬はどうしたんだ?」

「さっき、船医に診てもらったから、それで」

 口内には苦さが残りもうひと口水を含み苦味飲み込んでいく。

「そうか」

 手に持っていたカップをわきに避けて彼は寝るように指示を出した。

 いつになく優しく見えて、少しだけ、その優しさに泣いてしまいそうになってシーツに顔を埋めた。

「寝ていれば治るって」

「そうか、では私がいない方がいいだろう」と背を向けた公爵様の手を「待って、行かないで」とっさに掴んでいた。

 どうしてそうしたのかはわからなかった。

 ほとんど脊髄反射だったように思う。

 彼の、彼の手に握られていると安心する。

 ひとりは心細い。

 だからそばにいてほしいと思った。

 目は合わせられなかった。

「わかった」と了承してベット近くに腰を下ろした。

 必然的に彼と目が合う。

 私からお願いしたとは言え、気まずくて目を瞑った。

 ただ、繋いだ手はあたたかかった。

 この手を、今は離したくないと思った。

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