第4話
馬車の中は沈黙で包まれていた。
膝が突き合わせるように向かいに座った公爵様の話からすると、その考古学者はあちこちの国を放浪しているらしい。数ヶ月滞在しては次の国へと住処を移すような人物とのことだった。
その国を訪れたのは先月初め。今もいるかはわからないがと公爵様は付け加えた。
あの文字を知っている人物がいる。
そのことが会いに行くにはじゅうぶんな理由だった。
だからできるならひとりで向かいたかったのにどうしてふたりで向かわなければならないのだろう。
この人、皇太子の右腕でしょ。
私用で出かけていいの?
訊ねれば「ああ、以前から休暇を勧められていたからこの機に利用した」と返ってきた。
「夫婦水入らずでって特別給金ももらった」と言ってくる始末だ。
いやいやいやいや、そこは断ろうよ。離婚する時困るでしょう。私が。ねえ。私離婚したいんですよ。
こうして夫婦水入らずなんて描写はなかったしあなたは今頃皇宮で仕事をしてるはずでそれなのにあなたはどうしてこうしてここにいるんですか。お互いに干渉しない関係を見越していたはずなのにどうしてこうなったのか。それとも公爵様の時間潰しに使われてるだけか。
「君はため息を吐いてばかりだな」公爵様が漏らした声が耳に届いた。
「カサミラーニュは、良い国だ。観光地から外れ資源が豊かで生活にもゆとりがあるからか穏やかな国だ。君も少しは休めるだろう」
隣国とはいえ辿り着くには数日程かかる。
馬車に揺られて船に乗り換え航路を西に向けて進んで列車で大陸を横断すると考古学者が滞在しているといわれるカサミラーニュに辿り着く。長い長い日程だが国から出たことがない私にとってはすべてが鮮明に映るため結構楽しみでもある。
それを悟られないようにしていたが向かいに座る公爵様は表情ひとつ変えずいつの間にか眠ってしまっていたので遠慮することなく景色に目を向けることにした。
窓からは海が見えた。
空の色が映った色をしていて光に反射して水面が光ってキラキラしている。
なんて綺麗なんだろう。
僅かに塩味を帯びた風が馬車内に運ばれて無意識に鼻が追いかける。
内陸育ちの私にとっては海というものに縁がなかったため海や船というものを見るのも初めてだった。
水に浮かび船底に取り付けられたスクリューで進むという。
よく鉄の塊が沈まないなと感心する。
やがて馬車は港へと辿り着き御者が停留地に止めて扉を開けた。
公爵様の後に付いて降りると船着場には燃料のにおいと大勢の乗り降りする人々の人混みでごった返していた。
建物の向こうには煙突が突き出ていておそらく船だと思われるものが見えた。
公爵様と御者が言葉を交わして荷物を持って行った。
振り返った公爵様の後に着いていく。
長身の彼の歩幅は広く少しでも足運びを緩めれば公爵様との間に距離ができて人の波にのまれてしまうが彼は人よりも背が高いため突き出た黒い頭髪を目印にその長身が目に止まって見失うことはなかった。
ひとりの船の従業員とおもしき男性が公爵様の顔を見ると慌てたように近くの扉裏へと消えていった。
不思議に思いつつもそれを見送っていくと巨大な黒塗りの壁が現れた。
感嘆の声があがる。
なんて大きいのだろう。
大きいという言葉さえ当てはまらないような規格外の高さと長さを併せ持っていた。
船体の上部からは太い煙突が3つ程刺さり燃料を燃やした煙をもくもくと吐き出してあたりには特有の刺激臭が揺らめいていた。
視線を下げると船の下には等間隔に間口が設けられて内部へと乗客を飲み込んでいく。船は、私が想像していた何倍にも大きな乗り物で、髪を撫でる風には先ほどよりも強くしょっぱさを感じた。
我にかえり辺りを見渡すと公爵様はだいぶ前の方に進んでいた。
逸れる前に追いつかないと。
船入り口へと架けられた板を歩く。
軋んで弛んだ音に目を向ければ水面が波を防波堤に打ち付けて波が飛沫を上げているのが見えた。それはこの世界が球体で月と太陽とその他の惑星の引力によっておこる自然現象によるものらしい。本で読んだ情報ながらそれを目の前にして高低差に足が竦んだ。身体に数百本の針が差し込まれたような感覚に陥って足がそれ以上進まなくなったていた。
途端に怖くなって、手が宙を掴む。
こわい。と思った。
それは今まで感じたことのない感情だった。
後ろにいた女性が鼻息荒く眉を顰めて追い抜いていく。革靴やヒールや時折子供靴が通り過ぎていく中でそれでも自身の足は動こうとしない。
「ベラ」
人の雑踏の中で大きくはないはずなのによく通る綺麗な声が名前を呼んだ。つられるように顔をあげれば公爵様が片手を私に向けて差し出していた。人波に逆らう形で立ち止まる公爵様を近くの乗客が疎ましげに眉を顰めていたが気にすることなく公爵様はただこちらを見て掌を差し出している。
「下は見るな。私を見てろ。落ちることはない」
端的な言葉が聴覚を包んで気がつけば手を取っていた。重ねた公爵様の手は一見綺麗だがごつごつとしていることに気がついた。皇太子の右腕として時には盾となる。それが彼の役目だった。だからこれは鍛錬を重ねた手なのだろう。
簡単に握り込まれてしまって自身とのちがいを感じた。今はそのちがいが、公爵様の大きな掌が、心強かった。
いつもなら握らないその手からは不思議と恐怖が吸収されたように足が動いて人波に沿って歩く。
少しだけ、歩幅がゆっくりになっているような気がした。
船内には一等から七等までが階数ごとに区分けがされて登るごとに船内の装飾が豪華になっている。慣れた様子で案内を受ける公爵様に従って歩いていると、少し地面が揺れていることに気づく。ゆっくりゆっくりと傾いては立て直し傾いては立て直しを繰り返している。バランスを崩さないように足に力を入れる。
船内には昇降機があった。
階段からそれに乗り換えると内臓が浮くような上昇感と左右からなる揺れに若干の眩暈を覚えつつも公爵様に握られた手が心強かった。
やがて辿り着いたのは最上階だった。
部屋の中にはふたりにはじゅうぶんすぎる程の広さの中、壁際にあるベットが一際存在感を放っていた。
「なんですか、これは」
「ベットだが?」
「ベットがひとつしかないのですが」
「ああ、当たり前だろう。私たちは夫婦なのだから。君も納得したはずだが」
首をもたげてから荷物を指定の場所へと持っていった。
結婚しても部屋は別々だった。
初夜も形式的なものだった。
憶えてないけど周りへの印象づけとしては成功したのだと思う。
でも同じ部屋同じベットで過ごすのは躊躇われる。
「今更恥ずかしがることでもないだろう?」飄々と口にした公爵様に「それもそうですね」と同じ調子で答える。答えるが内心嫌だった。でも長い旅路だ。波風を立てて話をややこしくしたくはない。ため息は仕舞っておいた。
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