第29話 キスしてみる?

「ねえ、一ノ瀬くん。本当に図書館デートなんかでいいの?」


 心配そうに尋ねてきた雪代さんに頷き返す。

 数日前、デートの行き先を話し合ったときのこと。

 俺がどこか行きたい場所はあるか問いかけると、雪代さんは「一ノ瀬くんの行きたいところがいい」と返してきた。


 そのときふと閃いた。

 普段雪代さんが休日によく行く場所はどうだろう?

 せっかくこうやって仲良くさせてもらう機会を得られたのだ。


 できることなら、雪代さんの日常とか、好きなものとかに触れて、少しでも雪代さんという人を知りたい。


 ――そんなわけで、俺たちはターミナル駅まで移動し、そこから歩いて十分ほどのところにある市立図書館へとやってきたのだった。


 土曜日の館内は、子連れの利用者や、調べものに訪れた人々の姿が多く見られた。


「雪代さん、館内って私語厳禁?」

「ううん。実習室はそうだけど、図書室は小声で話すのなら大丈夫だよ。ほら見て」


 雪代さんが指さしたほうを見ると、利用者案内のボードがあった。

 たしかにそこには、『他の利用者の迷惑にならないよう、小声でお話ください』と書かれている。

 周囲を見回せば、美術学生らしい二人組が、画集の本を広げて、小さな声で意見を交わし合っているし、少し歩いていくと絵本のコーナーで、若い母親が幼い娘に読み聞かせをしている姿もあった。


「雪代さんはよく来るの? 図書館」

「うん。用事のない休日は必ずかな。みんな静かに息を潜めて、本の海の中をのんびり泳いでいるでしょう? その感じが落ち着くんだ」

「たしかに背の高い本棚の間をこうやって歩いてると深海魚になったみたいだ」


 小声でそう返事をしたら、雪代さんがふふっと笑って「そのたとえ好きだな」と囁いた。

 雪代さんがしみじみとした口調で言うから、思わずドキッとなる。

 俺は気まずさをごまかしたくて、少し強引に話題を変えた。


「雪代さんってどんな本が好きなの?」

「今は海外SFにハマってるの。読んだことある?」


 首を横に振る。

 読書家の雪代さんの前で、自分に本を読む習慣がないことを打ち明けるのは恥ずかしかった。

 とはいえ、見栄を張ってもしょうがない。


「SFどころか、小説自体あんまり読んでこなかったんだ。あ、でも、今後は読書もしてみるよ」


 花火の奴隷役を卒業し、自由時間なら山ほどできたし。


「素敵。一ノ瀬くんはまだ巡り合っていない素晴らしい本だらけの世界にいるんだね」


 雪代さんは、俺の読書不足を馬鹿になんてしなかった。

 それどころか、読書に興味が湧くような言葉をくれた。

 みっともないからとかそんな理由じゃなく、もっと自然な気持ちから『本を読んでみたい』『世界を広げてみたい』と思えてくる。


 雪代さんのおかげだ。

 一緒に過ごす相手によって、自分の考えも変化するものなのだと改めて気づかされた。


 俺は花火といたときの自分が嫌いだ。

 雪代さんといるときの自分は――、結構好きかもしれない。


「雪代さん。一番好きな本教えてくれる? 読んでみたい」


 そう言ったら、雪代さんは目を見開いた。


「おすすめの本じゃなくていいの?」

「うん。だってなんか『おすすめを教えて』って、『俺が楽しめるものを用意しろ』みたいな感じしない……?」

「ふふっ! たしかにそうかも!」


 雪代さんは声を潜めて笑った。


「実は、時々おすすめ教えてって言われるんだけど、ほんとはずっとモヤモヤしてたんだ」

「そうだったんだ」

「今の一ノ瀬くんの話を聞いて、ようやく腑に落ちたよ。それに比べて、『好きな本教えて』って言われるのはすごくうれしいな。そんなこと言ってくれたの一ノ瀬くんが初めてだよ。――やっぱり一ノ瀬くん、好きだなあ」


 不意打ちのようなタイミングで言われ、顔がカアッと熱くなる。

 雪代さんは照れ隠しのように笑うと、俺の手を引いた。


「来て、一ノ瀬くん」


 彼女に導かれ、図書館の奥のほうへと進んでいく。

 海外SFの書棚は、入口カウンターからずっと遠くの窓際にあった。

 このジャンルを読む人は少ないのか、周囲には俺たち以外人の姿がない。


「私はこれがとても好き」


 少し背伸びをした雪代さんが、一冊の本を棚から取り出した。

 差し出された文庫本を受け取る。

 今日の雪代さんのように白いワンピースを着た裸足の少女が、たんぽぽ色の髪を揺らしながら宙に浮いている。

 ポップで不思議な雰囲気の表紙だ。

 あらすじを確認し、目次のページを開いてみる。

 どうやら短編集らしい。


「とくにお気に入りなのが――、そうこの話」


 一緒に本を覗き込んできた雪代さんが、指先でタイトル文字に触れる。


「どんな話?」


 問いかけながら顔を上げると、思いのほか至近距離で目が合ってしまった。


「あ、ごめん」


 謝って身を引こうとしたとき、文庫本を持っていた俺の手に雪代さんがそっと触れてきた。

 彼女の行動に驚いて、もう一度顔を上げる。


「……キスしてみる?」


 頬をピンク色に染めた雪代さんは、吐息交じりの声で問いかけてきた。

 驚きすぎて言葉が出てこない。


「……花火ちゃんとはしたことある?」


 尋ねながら、少しずつ雪代さんが近づいてくる。

 もう彼女の唇の動きしか視界に入らない。


 花火とは――。


 そう答えようとしたとき、突然、背後の窓ガラスを殴る音が聞こえてきた。

 振り返れば、髪を振り乱しながら両手で窓ガラスを叩いている花火の姿があった。


 いや、ホラー映画じゃないんだから。

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