第6話 昼休み

 今朝は南条の自転車のおかげで、ホームルームに間に合い、遅刻することはなかった。

 ただ、南条が何故電車に乗らなかったのかはずっと引っ掛かる。本人は乗り遅れたと言っているけど、訊いた時の反応から、嘘だということは分かり切っていた。


 そして、南条はちゃんとその電車に乗っていれば、こうして昼休みに職員室へ呼び出されることはなかったと思う。


 昼食を食べ終え、おれと南条は揃って職員室へ向かっていた。


「二人乗り、見られたのかな?」

「見られたんじゃないかな」

「誰かがチクったのかも」

「誰がチクるんだよ」


 学校の前で、自転車の後ろに乗っていた南条は降りた。先生に見つかったら絶対に怒られる。そう思って慎重を期したつもりだった。


 でも、あの時、先生に見られていたのなら、その場で怒られるはずだ。


 今になって、稲瀬先生が昼休みにおれと南条を呼び出すのは何だがおかしい気もする。四限目くらいで誰かが二人乗りのことを先生にチクったのなら別だけど。


「どこ行くの南条さん」


 校舎一階まで降り、廊下を右折しかけた南条さんを呼び止めた。


「職員室は左だよ」

「……そうだっけ」


 高校入学から一週間ほど。

 教室の場所が曖昧でも、不思議な話ではない。おれだって物理室とか、化学室とか、生物室とかの、違いも場所もよく分かっていない。


 ———でも、職員室くらいは普通分かるでしょ。


 しかし、その普通が当てはまらないのが、南条という人間なのだ。キョロキョロと視線を彷徨わせる南条は職員室を探しているみたいだ。


 おれが場所を知っているので、そんな躍起に探す必要はないのだけれど、本人が真剣そうなので声は掛けないてでおいた。


「学年と組と名前だって」


 到着した職員室の扉には生徒が入る際のルール的なものが貼られていた。生徒が職員室に行く時は、大抵呼び出されたか、先生に用があるかのどっちかだ。入る際に学年と組、名前を言えば分かりやすくはあるな。


 職員室の扉をノックしてから開ける。


「失礼します。一年三組の遠坂です」

「南条です」


 ———稲瀬先生は……いないな。


 職員室には見知らぬ先生しかいなかった。

 そもそも、出入口付近から見える範囲に先生が四人しかいない。見えていない場所に稲瀬先生がいるとしても学年と名前を言っている。稲瀬先生の反応がないとなれば、単純に職員室にいないのだろう。


 見知らぬ先生方の一人が、こちらへ近づいて来る。


「稲瀬先生のところよね?」

「はい。昼休みに来るよう言われてまして」

「稲瀬先生なら、さっきちょうど出て行ったけど……あなた達、中で待ってる?」


 ―——中でか……あまり気は進まないな。


 見知らぬ女性教員の提案には一考の余地がある。


 おれ的には全くもって職員室の中で待って居たいとは思わない。第一、好き好んで職員室に居たいと思う人はいないだろ。しかも知らない先生しかいない職員室なんて、気まずい以外の何ものでもない。


 しかし、そうは思うものの南条がどうなのか。おれ一人で決めるわけにはいかないため、南条にも意見を仰ごうとして「待ちます」という彼女の言葉に遮られた。そして職員室へ入って行く南条の背を、声を掛けてくれた女性教員と共に見つめる。


「あ、あなたは?」

「……おれも待ちます」


 女性教員の声音に若干の戸惑いを感じる。

 こんなにも堂々と職員室へ入って行く生徒は南条くらいだろう。


 女性教員に連れられ、通されたのは個室のよう場所だった。職員室にも生徒指導室のような場所があるんだと思う反面、ここでないと話せない内容なのかと邪推してしまう。


 冷静に考えれば、待合室的な感じで通されただけだろうが。


「稲瀬先生もすぐ戻って来ると思うから、ここで待っててね」


 名も知らぬ女性教員が部屋を出ると、この部屋にはおれと南条の二人だけになった。隣に座る南条のことが妙に気になるのは下心あってのことじゃない。ここに通されてからと言うもの、南条は視線はとある一点に集中させている。


「ど、どこ行くの、南条さん」

「チャレンジしてみる」


 見ているだけに留まらず、ついに南条が行動に移った。小型のエスプレッソマシンへ近付いていく。


「いや、絶対ダメだから。怒られるよ」

「ちょっとだけ。先っぽだけ」


 ———先っぽとは?


 やはり南条の考えていることも、言っていることも理解するのは難しい。新しいおもちゃを貰った子供のようにエスプレッソマシンへ引き寄せられる南条を止めに、おれもソファを立った。


「出てきた」

「ダメだって言ったのに……って、何かコップとか置いてっ!」


 エスプレッソマシンからコーヒーが少しずつ流れる中、それを受けるはずのコップがセットされていない。


 エスプレッソマシンの下部が、コーヒーで少しびちゃびちゃになってしまったものの被害は最小限に抑えられた。はずだ。


「ふぅ……」

「怒られたって、おれは知らないよ」


 びちゃびちゃになったエスプレッソマシンを拭き終わると、まるで一仕事終えたかのように淹れたコーヒーを口にする南条へ、非難の目を向けながら言う。


 職員室のコーヒーを飲むなんて絶対怒られる。小学校、中学校と、職員室にある教員用のコーヒーマシンで淹れたコーヒーを飲む生徒なんて見たことも聞いたこともない初事例ではあるが、絶対に怒られる。


 非難されていことに気付いてか、一仕事終えた顔をはっと切り替え、手に持った飲みかけのコーヒーカップを近付けてきた。


「……こ、これは一体?」

「わたし一人で飲んでたから。遠坂君にも飲ませてあげるから怒らないで」


 ———違う。根本から間違ってる。


 南条は職員室のエスプレッソマシンを勝手に使ったことではなく、淹れたコーヒーを自分が一人占めしていることに対して、おれが怒っていると思っている。


「違うよ……南条さん……」


 何だが説明するのも馬鹿らしくなり、怒るのはやめた。もう怒られたら怒られたで、一緒に怒られよう。


「いらないの?」

「えっ、あ、ううん……」


 ———コーヒーカップは一つ。既に南条さんが口にしているものを渡してきている。間接的なあれになるのでは?


 ———南条さんは余りそういうの気にしなさそうな感じがするけど、おれは違う。思ってしまったのもあるが、そのことがずっと頭の中で暴れ回っている。


 ———こう言う時は冷静になれ。断れば怒ってると思われるかもしれない。かと言って、南条さんが飲んだものを、おれが飲んでいいものなのか。間接的なあれとか、非常にデリケートな……そう思ってるのはおれだけなのか。


 ———今時の高校生は間接的なあれに男女は関係ないのか。分からない。分からな過ぎる自分がちょっと恥ずかしい。


 ———ここは飲むとしよう。カップに口をつける位置は流石に変えた方いいよな。でも、あからさまにカップを回して反対側から飲むのは意識し過ぎているみたいで恥ずかしい。


 そんな一瞬の長考の末(矛盾)、おれはコーヒーカップを受け取った。


 ———南条さんが口をつけたのはここだよな……


 間接的なあれを、あからさまに避けるのではなく自然に避ける。コーヒーの匂いを嗅ぐ素振りで微調整し、少しだけカップを回しつつ口をつけた。


 きっと間接的なあれにはなっていない。おれの計算が正しければ、そのはずだ。


「にが……」


 口に含んだコーヒーは今まで飲んだコーヒーの中で一番苦かった。これは間接的なあれはしてないな。していたら、こんな苦いわけないだろうし。


 ムププ……と見るからに笑いを堪えてそうな南条が「コーヒー、飲めないんだ」とこぼす。


 ———馬鹿にしてるのか?


「うん、ちょっと苦手だから南条さんが全部飲んでいいよ。残すのは勿体ないからね」


 おれは知っている。

 一仕事終えた感じでコーヒーを口にし、一息ついていた南条の表情が、苦味で歪んでいたことを。


 途端にプルプルと震え出す南条は本当に分かりやすい。それでも、おれからコーヒーカップを受け取って半分は飲み干した。


 無理して飲んでいるのはバレバレだが、本人はあくまで自分は飲めるといった風を装っている。


 しかし、本格的にヤバそうな顔をしてきた。


「もういいよ、南条さん。後はおれが飲むから」


 死人みたいな顔の南条だが、それでも可愛いのは何かと反則だろ。苦いコーヒーの飲み過ぎで禁断症状でも発症したのか、カップを持つ南条の指先が小刻みに震えている。


 身体が拒絶するほどの無理をしてまで、おれに強がる必要はなかっただろうに。


 やはり南条は変わっている。

 それと同時に無理に飲ませてしまったかもしれないなと、さっきの言葉に罪悪感を覚えてしまう。


 そんな罪悪感を払拭したくてか、残ったカップのコーヒーを一気に飲み干す。口全体、喉の奥まで苦味が広がる。何でもいいからチェイサーが欲しくなる。


 そもそも、おれも南条もブラックのコーヒーを飲むには、まだまだ子供過ぎた。


「おまたせー、二人とも待たせちゃって、ごめん……ね………?」


 コーヒーを飲み干し、苦味に襲われている中、突然の稲瀬先生の登場におれはうんともすんとも言えなかった。


 ただ、おれの手はコーヒーカップを持ったままの状態だったとだけは伝えておく。


 ———タイミング最悪過ぎるだろ………

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