お品書き 五 『上生菓子』神様からの贈り物【5】
* * *
優しい微睡みの中から、現実に向かっていく感覚。
重い瞼を開ければ、子どもの頃から慣れ親しんだ古い天井が視界に入ってきた。
まだ意識は覚醒し切っていない感じがあるけれど、寝起き特有の気怠さはちっともない。
起き上がってグッと伸びをすると、体がやけに軽いような気がした。
「うーん、よく寝た」
窓を開けて空を見上げれば、どんよりとした曇り空が広がっている。
きっと、今日も雨だろう。
そんなことを考えながら再び天井に向かって手を伸ばした時、スマホが鳴り出した。
着信を知らせるそれを手に取ると、ディスプレイに表示されているのは【お父さん】という文字で、珍しく思いながら電話に出た。
「もしもし?」
『ああ、ひかり?』
「うん」
『おはよう。金沢は、どうだった?』
「え?」
『ん? 今日、家に戻るんだろう?』
(え? そうだっけ?)
お父さんの言葉でスマホを耳から離し、急いでスケジュールアプリを起動させると、帰る日だということに気づいた。
『なんだ、寝惚けてるのか?』
無言でいる私を怪訝に思ったようで、お父さんは電話の向こうで『大丈夫か?』と心配そうにしている。
「あ、ごめん。まだ起きたばっかりで」
『そうか。新幹線は午後だったか? 忘れ物するなよ。あと、戸締りはちゃんと確認してくれよ』
「うん、わかってる」
『そういえば、今日までなにをしてたんだ?』
「え?」
『なにかあったら連絡してくるだろうと思ってはいたが、結局なにも言ってこなかったから……』
お父さんが心配してくれていたんだとわかったけれど、質問の答えはすぐに出てこなかった。
そういえば、金沢に来てからなにをしていたんだろう。
考えても、不可解なくらい思い出せない。
『おいおい、大丈夫か? まさか、ずっとおばあちゃん家に引きこもってたのか?』
「ううん、違うよ」
不思議とすぐに否定の言葉が出きたけれど、やっぱりこの二週間のことはあまり記憶にない。
だけど、なぜか不安も恐怖も芽生えなくて、あまつさえ答えがわからなくてもいいように思えて、むしろすっきりとしている心なんて安堵感と幸福感に包まれている。
「とりあえず、すごく楽しかった気がする」
なんだか長い夢を見ていたような感覚と、雨上がりの晴れた空のように清々しい気持ち。
心はここに来た時とは比べものにならないほどに軽く、あんなにも枯れないような気がしていた涙は出てくる気配すらない。
「ここに来てよかったよ」
心の底から漏れていた、本音。
それを口にすると、お父さんが『そうか』としみじみと零した。
『夏休みに余裕があれば、こっちにも帰ってこい。母さんも、兄ちゃんたちもひかりを心配してた』
「うん、わかった」
素直に頷けたのは、なんだかたくさん話がしたくなったから。
実家にいる時は息苦しく思うこともあったのに、今はその時の記憶が曖昧になっていく感覚さえある。
電話を終えたあと、荷造りをしようとしたけれど、荷物はすべて綺麗に片付いていた。
そういえば、昨日荷物を纏めたような気がしなくもない。
「やっぱり、寝惚けてるのかな」
自嘲混じりに笑って、着替えて顔を洗い、軽くメイクを施してから帰り支度を済ませた。
お父さんに言われた通りにすべての部屋の戸締りを確認し、さっき脱いだばかりの部屋着もキャリーケースに詰める。
荷物を持って玄関に向かう途中、軋む廊下の床板を何度か踏んだ。
静かな廊下に、ギシギシと音が響く。
お父さんたちはこの家を手放す方向で話し合いを進めていたから、これができるのは今日が最後になると思うと、自然と懐かしさとともに寂しさも抱いたけれど……。不思議と、ちっともつらくはなかった。
玄関から見る家の中の風景には、さすがに名残惜しさを感じさせられたけれど、深呼吸をひとつしてから口角をキュッと上げた。
少し悩んで、おもむろに口を開く。
「ばいばい、おばあちゃん」
いつも笑顔で見送ってくれたおばあちゃんは、もういない。
金沢に来たばかりの頃はそれがつらくてたまらなかったのに、今はその頃とは違う気持ちでここに立っている私がいた。
外に出て玄関の鍵を掛け、振り返って足を踏み出そうとした時、地面に落ちている白い花が視界に入ってきた。
「スズラン?」
思わずしゃがんで手に取ったけれど、スズランの季節は確か春から初夏だったはず。
おばあちゃんから聞いた知識を思い出して不思議に思いながら辺りを見れば、五メートルほど先の右側に同じような花が落ちていた。
それも手に取ると、さらに先にもう一本。
誰かのいたずらかと思う反面、なにかの道しるべにも思えて、どうしても無視はできなかった。
全部で五本のスズランを見つけたあとで顔を上げると、庭の物置きの前まで来ていた。
私の背丈ほどしかないその扉が、なぜか少しだけ開いている。
きちんと閉じようとしたのに、中でなにかが引っかかっているようで上手く動かせなくて、仕方なく一度扉を開けた。
直後、中から棒のようなものが落ちてきて、私の足元でその身を横たわらせた。
「あれ? この傘って……」
今の私には明らかに小さいけれど、間違いなく見覚えがあった。
自分のものだと確信するまでに、三秒も必要なかったと思う。
青空のような色に、ちりばめられたスズランの花。
広げた小さなキャンバスを空に翳すようにすれば、まるで青空からスズランの花が降ってくるようだった。
「ここにあったんだ」
失くしたと思っていたのに、おばあちゃんが持っていたみたい。
それならそれで言ってくれればよかったのに、もしかしたらおばあちゃんも忘れていたんだろうか。
どちらにしても、帰る前に大切にしていた傘を見つけることができたのは嬉しい。
予想外の出来事に笑みを零し、ひとつ増えた荷物を大事に持ったままバス停に向かった。
新幹線の時間まではまだ余裕があるから、友達にお土産でも買おうかと思った時、目の前に停まったのは橋場町の方面に向かうバスだった。
それに構わずに横断歩道を渡って反対側のバス停に行くつもりだったのに、なんとなく足が向いてしまい、その城下町周遊バスに乗っていた。
どうせなら、おばあちゃんとよく行ったひがし茶屋街の景色を見てから帰るのも悪くない。
女子受けのいいお土産なら、あそこには色々とある。
水に浸したティッシュとバス停の手前でもらったチラシでスズランの花を包み、流れていく景色を見ながらおばあちゃんとの思い出を振り返っていた――。
ひがし茶屋街は、相変わらずたくさんの人で賑わっていた。
ちょうど夏休みシーズンだから、観光客らしき人たちがいつも以上に多い。
残念ながらゆっくり回れそうになくて、お土産もここで見るのは難しそうだとすぐに悟る。
仕方なく、金沢駅の構内にあるお土産屋さんで調達することにした。
何度も見た景色だけれど、今日は一段と懐かしさを感じる。これからしばらくは、ここを訪れる機会はないからなのかもしれない。
けれど、就活が上手くいけば大学を卒業する頃にはまた来よう。
将来のことを考えた途端に不安も芽生えたものの、悩むくらいならなんでもいいから行動に移そうと思えた。
(私って、こんなに前向きだったっけ?)
ネガティブとまでは言わなくても、こんなにポジティブ思考でもなかったはず。
それなのに今は、なんでもいいから新しいことに挑戦してみたいという気持ちが強かった。
習い事や新しいバイトを始めてみるのもいいかもしれないし、英会話や留学なら高校生の時から興味があった。
バイトなら、和菓子屋さんで働いてみたい。
(あれ? どうして和菓子屋さんなんだろう?)
特に興味があったわけじゃないものが自然と浮かんだことに小首を傾げた時、頬にぽつりと冷たいものが当たった。
冷たい雫は、雨粒だと気づく。
傘を差し始めた周囲の人たちと同じように折り畳み傘を出そうとした瞬間、手に持っていた小さな傘と自分で作ったばかりのスズランの花束が視界に入ってきた。
一瞬だけ悩んだけれど、お気に入りの折り畳み傘と同じくらい大切な青い傘を広げてみた。
ひがし茶屋街からバス停までは、そう遠くはない。
子ども用の傘だけれど、道行く人たちは加賀百万石の美しい城下町に夢中で、私の傘なんてたいして眼中にないはず。
「まぁいっか」
微かな笑い声と誰にも聞こえないくらいのひとり言を零し、懐かしさを纏った小さな傘を差すことにした。
曇り空と雨を隠すように頭上で広げた傘は、まるで青空からスズランの花を降らせているみたい。
『ひかりちゃん、金沢を含む北陸地方の一部には〝弁当忘れても傘忘れるな〟って言い伝えがあるくらいなのよ。だから、とびきり可愛い傘を持っておく方がいいと思わない?』
この傘を買う時、私よりも真剣に選んでいたおばあちゃんは、確かそんなことを言っていた。
それを思い出して空を仰げば、おばあちゃんが嬉しそうにしているような気がして、自然と笑みが零れ落ちていた。
『ひかり、幸せであれ』
誰かがそう囁いたことも、この雨が神様からの贈り物だということも、私は気づいていなかったけれど……。おばあちゃんが大好きだった雨に優しく見送られるように、たくさんの温かい思い出が詰まったひがし茶屋街を後にした――。
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