お品書き 五 『上生菓子』神様からの贈り物【4】

「ああっ、ひかり様! お掃除なんてしていただかなくても! 今日はゆっくりお過ごしください!」



 お屋敷に戻ったあと、雨天様はすぐに台所に行ったから、私は荷物を纏めてから借りていた部屋の掃除をしていると、コンくんが慌てたように止めに来た。

 心遣いは嬉しいけれど、首を横に振る。



「たぶん今日で最後になるから、ちゃんと綺麗にしていきたいの。雨天様にもコンくんにもギンくんにもたくさんお世話になったのに、私にできるのはこれくらいしかないんだもん」


「ひかり様……」



 笑顔で返した私に、コンくんはグッと言葉に詰まったような顔をして、寂しさを浮かばせた。

 私までつられてしまうから、そんな顔をしないでほしい。



「でしたら、コンもお手伝いいたします! いつものようにふたりでいたしましょう!」



 そんな私の気持ちが伝わったのか、コンくんは潤んだ瞳を手の甲でゴシゴシを拭って明るく笑った。

 私も涙をこらえて頷き、好意に甘えることにした。



「……ギンくんはどうしてるの?」


「お台所で甘味を作っております。今宵はひかり様のためにとびきりおいしいものをご用意したいと、張り切っておりましたよ」


「そっか……」



 もうギンくんのことが見えない私に、ギンくんもコンくんと同じように優しくしてくれるなんて……。嬉しいけれど、同じくらい申し訳ないと思う。



「ひかり様」



 ほうきをギュッと握りしめていると、コンくんがいつものように私の名前を呼んだ。

 顔を上げた私に、目の前までやって来たコンくんが破顔する。



「ひかり様がギンの姿が見えなくなっても、ギンにはひかり様の姿が見えておりますし、変わらず声も届いております。ですから、あとでぜひ話しかけてやってください」


「うん……」


「恐らく、ひかり様がここを去るまでに私の姿も見えなくなるとは思いますが……」


「え?」



 ギンくんだけじゃなく、コンくんのことまで見えなくなるなんて……。

 せめて最後まで、みんなのことを見ていたかったのに。



「当たり前のことですが、神様と比べると神使の力はとても弱いのでございます。ギンのことが先に見えなくなったのは、恐らく私よりもギンの方が少しだけ力が弱いせいなのですが、それでもさほど差異はございません」



 大丈夫だと思っていても、やっぱり寂しさが強くなる。

 日常になりつつあった今朝までの時間には、もう決して戻れない。

 おばあちゃんが亡くなった時も、今も。

 この世にはなにひとつ当たり前のことなんてないのかもしれない、と感じさせられた。



「コンくん、今日までありがとう。コンくんたちと出会えて、本当によかった……。つらい気持ちで金沢に来たけど、コンくんたちのおかげでちゃんと笑顔で帰れるよ」



 あとでまた伝えようとは思っているけれど、ギンくんのように見えなくなってからじゃなくて、目を見て話せるうちに伝えたい。

 そんな気持ちで言えば、コンくんは可愛らしい瞳いっぱいに涙を浮かべた。



「……っ! コンも、ひかり様と出会えてよかったと、心底思っております! 毎日がとても楽しゅうございました! お掃除やお遣いがあんなにも楽しかったのは、初めてでございました!」


「コンくん……」


「ひかり様がコンのことを見えなくなっても、最後まできちんとお守りし、お送りいたします! それがコンのお役目でございますから!」



 小さな手が私の手を握り、必死に想いを伝えてくれる。

 コンくんの方が年上だとわかってはいるけれど、涙混じりの顔を見ていると、やっぱり可愛い子どもにしか見えない。

 それでも、とても頼もしくて優しい神使だ。

 私はゆっくりと頷いて、精一杯の笑みで口を開いた。



「あと少しだけど、最後までよろしくね」


「もちろんでございます。微力ながら、雨天様とギンとともにひかり様の幸せを祈っております」


「ありがとう」



 私は潤んだ瞳で、コンくんは泣き顔で、少しの間微笑み合っていた――。




 コンくんの姿が見えなくなったのは、部屋の掃除が終わる頃だった。



「コンくん、終わったよ!」



 雑巾で窓を拭き終わって振り返ると、コンくんの姿が見当たらなかった。

 部屋から出ていったとは思わなかったのは、コンくんは黙ってそんなことはしないから。



「コンくん……?」



 確かめるように読んでみても、声が聞こえない。

 返事をしてくれたはずのコンくんの姿を想像して、意図せずに涙が込み上げてきそうになった時、開けていた襖の向こうに雨天様が現れた。



「ひかり、客間においで」


「雨天様……」



 私の表情を見てすべてを悟ったような顔をして視線を下げた雨天様の傍には、きっとコンくんがいるんだろう。

 雨天様は、コンくんの背丈の辺りで頭を撫でるような仕草をすると、私に笑みを向けた。



「コンならここにいる。だから、なにもそんな顔をすることはない」


「うん……」


「ほら、客間に行こう。ギンが待っておる」



 唇を噛みしめて頷くと、雨天様が優しく私の手を引いた。

 その手は、さっき私の手を握ってくれたコンくんの体温と同じように、とても温かかった。




 今日はどうして居間じゃないのか、という疑問の答えはすぐにわかった。

 今夜のお客様は私だから――だ。



「ひかりは、そこに座りなさい」


「うん」



 指差されたのは、一度だけ座ったことがある場所。

 お客様がいつも座っている席には、私が初めてここに来た夜にお客様として迎え入れてもらった日以来、座ることはなかった。



 正座をすると、膝から下に畳の感触が触れる。

 真正面には、雨天様が腰を下ろした。

 テーブルの上には四人分の甘味とお茶が用意されているけれど、私の目にはもう雨天様の姿しか見えない。

 いつもの場所に座っているはずのコンくんとギンくんの姿を想像すると、胸が詰まるような思いがした。



「ようこそ、我がお茶屋敷へ。今宵の甘味は、上生菓子でございます」



 そんな私を見つめた雨天様が、笑顔でそう切り出した。

 下ろした視線の先には、淡い緑の上生菓子が漆塗りのような艶やかな黒いお皿の上に載っている。



「そちらは、スズランに見立てたものでございます」


「え?」



 よく見ると、淡い緑の上生菓子には、小さな白い花が縦に三つ並んでいる。

 少しだけ斜めに並べられているのは、スズランの花が咲いている姿を思い起こさせた。



「それから、私のものは雨を、そちらの神使のものはどちらも青空に見立てたものでございます」



 コンくんとギンくんのお皿には、深い青と乳白色のような白が混じっている。

 雨天様のものは、少しくすんだような白をベースに淡い青が練り込まれ、波紋のようなデザインになっていた。



「これらの四つをすべて合わせると、ひとつの物語が完成いたします」



 スズラン、雨、青空。そして、大切な思い出。



「お客様の大切な思い出でもあり、私たちを結びつけてくれた宝物を、今宵の甘味にいたしました」



 それは、子どもの頃におばあちゃんに買ってもらったお気に入りの傘。

 四つの上生菓子を合わせると、〝雨の日に青空にスズランの花畑が広がっている〟というひとつの物語になる。



「……っ」



 今日はもうずっと笑顔でいたかったのに、こんなに粋な演出をされてしまったら、我慢できなくなる。

 泣かせないでよ……と思うのに、涙と笑顔が同時に零れた私の心は温かな幸せに包まれていた。



「雨天様、コンくん、ギンくん」



 顔を上げて、三人を見渡す。コンくんとギンくんの姿は見えないままだけれど、ふたりとも雨天様と同じように笑顔でいるような気がした。



「今日まで本当にありがとうございました」



 深々と頭を下げ、はっきりとした声音で言葉を紡ぐ。

 それから、いつもギンくんが座っている方を見た。



「ギンくん、毎日おいしいご飯やおやつを作ってくれて、本当にありがとうございました。私、ギンくんがお料理してる姿を見るのが楽しみだったんだ。これからも、お客様たちのために頑張ってね」



 笑顔に感謝を込め、ギンくんの姿を想像すれば、いつものように笑ってくれているような気がした。

 コンくんほど話す機会はなかったけれど、努力家のギンくんには感謝と励ましの言葉を伝えておきたかった。



「コンくん、毎日たくさん話せて本当に楽しかったよ。掃除も洗濯もお遣いも、コンくんと一緒にできてよかった。色々教えてくれて本当にありがとうございました。これからも、傷ついたお客様をここに導いてあげてね」



 今度はコンくんがいる方を向いて、気持ちを言葉に変えた。

 きっと、泣いているんだろうなと思って鼻の奥がツンと痛んだけれど、笑顔だけは崩さなかった。

 そして、再び雨天様を見つめ、もう一度頭を下げる。



「雨天様、私をここに置いてくれて、本当にありがとうございました。この二週間は、すごく目まぐるしくて、不思議で、信じられないこともたくさんあったけど……。たくさんのことを得られたと思う」



 雨天様は、私の言葉を真っ直ぐな双眸で受け止めてくれていた。



「寂しさも不安もまだちょっとだけ残ってるけど、私はもう大丈夫だから。雨天様たちのことが見えなくなっても、ここでのことを忘れてしまっても、ちゃんと頑張れると思う」



 大丈夫。

 思っていたよりもずっと、ちゃんと笑えているから。きっと、寂しさや不安に負けたりなんかしない。



「こんな風に思えるようになったのは、雨天様たちのおかげだよ。ここで過ごせて、本当によかった」



 そんな気持ちを持って告げた時、不思議と今までで一番明るい笑顔になれたような気がした。

 すると、雨天様が深く頷いた。



「私も、ひかりと過ごす日々がとても楽しかった。ひかりが忘れてしまっても、私たちはずっとここでひかりを見守っている」



 ありがとう、という言葉は声にできなかった。

 口を開けば熱を持った喉が、先に嗚咽を漏らしてしまいそうだったから。



「さぁ、召し上がれ」



 その代わりに笑みを崩さないように努めて背筋を伸ばすと、雨天様が穏やかな口調でそう言った。

 いよいよこの時が来たんだと思うと躊躇しそうになったけれど、芽生えたそれを振り払って両手を合わせる。



「いただきます」



 そして、いつものようにしっかりと挨拶をしてから、添えられた菓子楊枝を手に取った。

 スズランの花を崩さないように、そっと菓子楊枝を差して、少しだけ割ってみる。

 中には、綺麗なこしあんが入っていて、淡い緑やスズランの花と対照的な色を目に焼きつけるように見つめたあと、ゆっくりと口に運んだ。



 そっと舌に触れたのは、滑らかな感触。

 丁寧に漉されたことがわかるそれを時間を掛けて味わっていると、雨天様とギンくんが丹精込めて作っている姿が脳裏に浮かんだ。



 ここに初めて足を踏み入れた日。

 雨天様の正体を聞き、コンくんとギンくんの変身を目の当たりにした時。

 色々な話を聞いて、家事をして。

 ありふれた日常にも思えそうなほどの中、雨天様たちと一緒にお客様をお迎えしたこと。



 ひと口食べ進めるたびに、このお屋敷での記憶が蘇ってくる。

 できるだけ時間を掛けたいけれど、小さな上生菓子ではそれは叶いそうにない。



「すごくおいしかった」



「ごちそうさまでした」と言った声は、少しだけ小さくなってしまった。

 涙をこらえて顔を上げると、優しい眼差しで私を見つめている雨天様と目が合った。



「お別れだ、ひかり」



 その言葉でハッとして自分自身を見下ろせば、全身が光っていることに気づいた。

 これまでに何度も見てきたから、このあとどうなるのかはもうわかっている。



「あのね、雨天様……」



 震えそうな声で切り出した私に、雨天様は笑みを浮かべているだけだった。

 今になって言いたいことが溢れてくるような気がしたけれど、すべてを伝えられる時間なんて私にはもう残されていない。

 だから、溢れる想いの中からたったひとつだけを掬い取った。



「私、ここに来るまでよりもずっとずっと、雨が大好きになったよ」



 視界が歪んでいくのは、きっと込み上げてくる熱のせい。

 だけど、今だけは全身を包む光のせいにしよう。



「ひかり」



 ばやけていく瞳の中で、雨天様がとても嬉しそうに破顔した。

 それはまるで、雨上がりの空に架かる、美しく鮮やかな七色の虹のように。



「幸せであれ。ひかりの人生は、まだ始まったばかりだ」



 優しい声音で紡がれた、神様の想い。

 それが鼓膜をそっと揺さぶった直後、全身が柔らかな温もりに包まれて、私の意思に反して意識がゆっくりと遠退いていった。



『あなたの未来に幸福の縁がありますように』



 そのさなか、誰かが私の耳元で、そっと囁いたような気がした――。


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