お品書き 五 『上生菓子』神様からの贈り物【3】

 それからは、ひと言も交わさずにセミの鳴き声を浴びていた。

 本当は言いたいことがたくさんあったけれど、どれも言葉にする必要はないほど、もう不安はなかったから。



「そろそろ戻ろうか」


「うん……」



 雨天様から切り出されるのを予感して身構えていたのに、いざお屋敷に戻る時間になるとまた寂しさが強くなる。

 つい声は小さくなったけれど、なんとか笑顔で歩き出せた。



 随分と奥の方まで来てしまっていたから、お屋敷に戻るには少し時間が掛かる。

 ただ、それでもお互いに言葉は交わさなかった。

 刻一刻と、太陽が傾いていく。

 肩を並べて歩き、玄関が見えてきた頃、雨天様が「そういえば」と口にした。



「結局、なぜひかりがここに足を踏み入れることができたのか、わからずじまいだったな」


「あっ……」


「コンにも調べさせていたのだが、私もコンもその答えを見つけることができなかった」


「じゃあ、たまたまだった、とか?」


「ここに来るまでにいくつものきっかけが必要ではあるから、そういった意味では偶然が重なったとは言えるであろう。だが、その前提として、ここに深いゆかりが必要なのだ」



 会話を交わしながら、首をさらに捻ってしまった。



「まぁよい。時にはそのような縁があってもよい、と思うことにしよう」


「お屋敷を守る神様がそんな感じでいいの?」


「……今回は特別だ」


「じゃあ、雨天様たちに会えた私は、他のお客様よりもラッキーだったのかもしれないね」



 満面の笑みで言えば、雨天様が柔らかな面持ちで頷いた。

 そして、私の頭をポンと撫でた。



「その笑顔を忘れるでないぞ。ひかりは笑っている方が可愛いからな」



 なんだかキザな神様だ。

 神様じゃなければうっかり恋に堕ちていたかもしれないけれど、私は照れ隠しで「善処する」とだけ返した。



「……ああ、傘をしまい忘れていたな」



 私の気持ちを見透かすように笑った雨天様が、不意に視線を縁側に続く道へと遣った。

 そこには、複数の傘が並べられていた。



「なんだ、コンの奴。全部干しているのか」



 雨天様はひとり言のように言ってから、そちらに向かい、地面に置かれている傘を一本持った。

 広げてある傘を畳むのを見て、私も同じように傘を手に取る。

 微笑んだ雨天様に笑みを返し、ふたりで傘を片付けていった。



「まったく、なぜ今日に限って全部干したのだ」


「というか、どうしてこんなにあるの?」


「猪俣様は、和傘を作るのが趣味でな。よく手作りの傘を贈ってくれるのだ」



 猪俣さんの意外な趣味の話を聞いて、思わず手にした傘をまじまじと見つめてしまった。

 高級品にしか見えないそれは、趣味で作ったというのが信じられないくらいのクオリティーだった。



「使い切れないほどあるから、時々こうしてすべての傘を干しておくのだ」



 色とりどりの和柄は、目を楽しませてくれる。

 ザッと十本以上はあった和傘の最後の一本を閉じたあと、少し離れた場所にある傘が視界に入った。

 もしかしたら、風に押されてしまったのかもしれない。

 そんな風に考えた時、その一本だけ和傘じゃないことに気づいた。



「ん? ああ、あの傘まで出していたのか」



 淡い水色に、白いスズラン。

 どこかで見たような気がして、雨天様が手に取った傘から目が離せない。



「それって、子ども用の傘だよね?」


「ああ、そのようだな。わけあって、たまたま私が預かることになったのだ」



 ぶわりと、背筋が粟立つような感覚が全身に走る。

 それを感じながら、ゆっくりと唇を動かした。



「その傘、私の……」


「え?」



 雨天様が、ゆっくりと目を見張った。

 視線が落とされ、手元の傘と私を交互に見ている。

 特別珍しいデザインじゃないし、似たようなものならたくさんあるとも思う。

 まだ半信半疑だったけれど、雨天様に歩み寄りながら確信が強くなっていくのがわかった。



 雨天様の手から、傘を受け取る。

 裏側に付いている小さなタグを確認した直後、懐かしい字が視界に飛び込んできて胸が詰まり、思わず泣きそうになった。



「やっぱり……」



 丁寧な文字が記しているのは、【さくらばひかり】という名前。

 これを書いてくれたのがおばあちゃんだということは、十五年近く経った今でもちゃんと覚えていた。



「こんなところに名前が書いてあったなんて、今まで気づかなかった……」



 傘には、ネームタグが付いている。

 だけど、わざわざメーカー名が記されたタグの裏に書いてあるのは、おばあちゃんがうっかり間違ってしまったから。

 おばあちゃんは、子育てしていた頃、服やバッグの洗濯表示のタグに子どもたちの名前を書いていたらしい。

 その癖で、こんなところに書いてしまうという失敗をしたおばあちゃんに、私は膨れっ面で抗議をした。



「ひかりは、この傘をどうしたのか覚えているか?」


「うん……。ずっと忘れてたけど、今ちゃんと思い出した」



 この傘は、おばあちゃんに買ってもらったもの。

 おばあちゃん家に泊まりに来た時にお気に入りの傘が壊れてしまい、おばあちゃんは泣いている私に傘を買いに行くことを提案してくれた。

 スイートピーの折り畳み傘を買った時のように、ふたりで随分と悩んで、いくつもの傘を広げた。

 そして、何本目かの傘を広げた時、おばあちゃんが満面の笑みになった。



『まぁ、ひかりちゃん! 見て! この傘、とっても素敵よ! まるで青空にお花畑が広がっているみたい。雨の日が楽しくなっちゃうわね!』



 青空のような水色に、可愛らしいスズラン。

 まるで空から白い花が降ってくるようなデザインとおばあちゃんの言葉で、私はすぐにこの傘が欲しくなってしまった。



『これがいい! ひかり、これにする!』


『あら、そう?』


『だって、雨の日でも楽しくなるんでしょ?』


『えぇ、そうね。じゃあ、これにしちゃいましょう』


『うん! ひかり、ずっと大切にするね!』



 嬉しくてたまらなかった私は、とびきりの笑顔でおばあちゃんにそう言った。

 おばあちゃんはとても嬉しそうにしていて、そのあとで変な場所に名前を書かれたことなんてすぐに気にならなくなるくらい、お気に入りになった。



「すごく嬉しくて、本当に大切にしてたんだ。でもね、その次の年の夏休みに失くしちゃったの……」


「失くしたのは、このひがし茶屋街だったのだろう」



 私の言葉に、雨天様は確信を持ったような口調を返してきた。

 コクリと首を縦に振り、傘をそっと撫でる。



 ひがし茶屋街で迷子になった時、心細さをごまかすようにこの傘をしっかりと握っていた。

 だけど、誰かに道を教えてもらったあと、きっと安心感から無意識のうちに傘の柄から手を放してしまったんだろう。

 そして、それを拾い、今日まで大切に預かってくれていた人がいた。

 今、私の目の前に……。



「あの時、私に道を教えてくれたのは雨天様だったんだね」


「どうやら、そのようだな」



 もう確認する必要を感じていなかった私に、雨天様がふわりと破顔した。

 懐かしそうな表情で、口が開かれる。



「あの時のことはずっと覚えていたが、まさかひかりだとは思いもしなかったよ」


「私も、ここに失くした傘があるなんて思いもしなかった」



 十五年もの時間を、ずっとここで待ってくれていた。

 神様と、可愛いふたりの神使のもとで。

 それはまるで、私たちの縁を結んでくれようとしていたかのように思えた。



「雨天様と一度会っていたから、私はここに来られたんだね」


「ああ、そのようだ」



 大きく頷いて肯定した雨天様は、私が手にしている傘に視線を遣ったあと、そのまま続けた。



「子どもの目に神様や神使の姿が見えるのはそれほど珍しいことではないが、声が聞こえる者はそれよりも遥かに少ない。だが、ひかりには私の声が聞こえた」


「うん。雨天様のおかげで、おばあちゃんに会えたよ。でも、どうしておばあちゃんの居場所までわかったの?」


「家族や縁がある者同士は、我々には結びついて見えるのだ。簡単に言えば、ひかりとおばあ様のそれぞれの魂が微かな光の糸のようなもので繋がっているように見え、それはお互いへの愛情が深ければ深いほど明確になる」



 微笑む雨天様が、「それでも、とても淡く微かなものだがな」と補足し、私を見つめた。



「だから、おばあ様の姿が見えなくても、近くにいる気配を感じたのだ。まさか、ひかりが傘を放り出していくとは思ってもみなかったが」


「きっと、おばあちゃんを探すことに必死だったから……。でも、そのおかげでおばあちゃんに会えたし、十五年も経ったけど雨天様にもまた会えたんだよね」


「そのようだな」



 共感の言葉とともに笑みが零され、綺麗な双眸が優しく細められる。

 私も相槌を打つように首を振り、懐かしさでいっぱいになりながら再び傘を見つめた。



「この傘には、ひかりとおばあ様の想いが詰まっているのだろう。だからこそ、ひかりにはコンの声が聞こえ、私の姿も見えた」


「うん……」


「もしかしたら、ひかりのことを心配したおばあ様の魂が、この傘とともにひかりを呼び寄せたのかもしれないな」



 もしそうだったとしたら、おばあちゃんは最期に最高のプレゼントを残してくれた。

 そう考える方が幸せだから、雨天様の言う通りだと思うことにしよう。



「私も永くここを守っているが、こんなことは初めてだ。だが、この縁を幸福に思うよ」



 仰いだ空は高く青く、雨模様とは程遠いけれど……。おばあちゃんは大好きな雨の日のように、嬉しそうに笑っているような気がした。



「この傘を買ってもらった時におばあちゃんから聞いたんだけど、スズランの花言葉は〝幸福が訪れる〟なんだって」


「それはまた、奇遇だな」


「うん。本当にその通りだったみたい」



 ここに訪れたのは私の方だったけれど、私には確かに幸福が訪れた。

 あんなにも悲しみに暮れて心細かった私を迎えてくれた雨天様たちのおかげで、今はもう金沢に足を踏み入れた時の気持ちとは全然違う。

 晴れ晴れとしている、とまでは言えなくても、心から笑顔になれたから。

 だから、きっともう、大丈夫なんだと思う――。


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