お品書き 五 『上生菓子』神様からの贈り物【1】

〝その日〟は、程なくして訪れた。



「あれ? ギンくんは? まだ台所にいるの?」



 おやつの時間を迎え、いつものようにコンくんとともに居間に行くと、雨天様の姿しか見当たらなかった。

 今日のおやつは、よもぎの生地であんこを包んだお饅頭で、朝に聞いていた通りの甘味は四人分並べられているのに、ここには私を入れて三人しかいない。



「え?」



 直後に小さく声を漏らしたのは、コンくんだった。

 驚いたような顔で私を見るコンくんに、なにかまずいことでも言ってしまったのかと一瞬だけ悩んだけれど……。


「ひかり。ギンなら、いつもの場所に座っておる」


 雨天様は、すぐに私を見ながら微笑み、ごく普通に答えた。



「え? だって……」



 そんなはずはない。

 いつもギンくんが座っている場所に、ギンくんはいないのだから。



「あの――」


「ひかり、ギンのことが見えないのだな?」



 だけど、そのあとすぐに現実を突きつけられた。

 確かめるような声音の中には確信が込められていて、その質問が念のための確認であるのだと気づく。

 現実をまだ言葉にできなくて、戸惑いを見せつつもなんとか小さく頷いた。



「ひかり様……」


「コン、これでよいのだ」


「……わかっております」



 泣きそうな顔で私を呼んだコンくんに、雨天様が優しく諭すように微笑み、コンくんはか細い声で零した。

 そのやり取りを見て、すべてを悟ってしまう。



「私……もうすぐ、みんなのことが見えなくなっちゃうんだね……」


「ああ、そうだ。だが、これが正しいのだ」


「……うん、わかってる」



 必死に笑って頷いて強がって見せたけれど、喉と目の奥が熱を帯びていく。

 いつか別れが来ることはわかっていたのに、こんなに突然なんだと思うと、心が追いつかない。



「恐らく、今夜にはもう見えなくなるだろうな」


「そっか……」


「なにも心配することはない。ギンの姿が見えなくとも、ギンの力は届く。コンとギンがきちんと送り届け、最後までひかりを守ってくれるから」



 油断すれば、涙が溢れてしまいそうだった。

 勝手にまだもう少し時間があると思っていて、もし時間がなかったとしても、いきなりあと数時間で別れの時が来るなんて思っていなかったから……。



 寂しさと悲しみ、そしてほんの少しの安堵感。

 ちゃんと自身のあるべき場所に戻れそうなことに確かに安心感は持っているのに、雨天様たちが見えなくなってしまうことへの不安の方がずっとずっと大きかった。



「今宵の甘味は、ひかりのために作ろう」


「それまで、ここにいられるのかな……」


「もしいられなかったとしても、ひかりの心が癒えたのならそれでよいのだよ」



 雨天様が紡いだ答えに、思わず眉を下げてしまった。

 私の心は、本当に癒えたのだろうか……。

 確かに、ここで過ごした日々は驚きと戸惑いの連続で、それでいて毎日がとても楽しくて、悲しみに暮れている暇なんてなかった。

 お客様たちがそれぞれに抱えていた心の傷に触れて、色々と考えることができたとも思う。



 そのおかげで、おばあちゃんのことを思い出す時には、寂しさを抱いても悲しみを強く感じることは減っていったけれど……。心の傷が本当に癒えたのかと自身に問えば、しっかりと頷くことはできないような気がした。



「ひかり、心配することはない」


「でも……」


「私たちの姿が見えなくなるということは、そういうことなのだ」


「雨天様……」



 不安を溶かすように、雨天様が優しく微笑んでいる。

 その笑顔はとても好きだし、雨天様の言葉を信じることはできるのに、寂しさを上手く拭えない。



「少し庭に出ようか」



 雨天様は柔和な笑みを浮かべたまま、私を促した。




「今日はよい天気だな」


「そうだね」



 庭に出て五分ほど歩いたところで足を止めた雨天様は、穏やかな顔つきで空を仰いだ。

 高い空には、絵に描いたような青色に、真っ白な入道雲。

 どうして今日に限って、こんなにいい天気なんだろう。

 雨さえ降っていれば傘を差す口実ができて、現実に追いつかない心と表情を隠せたかもしれないのに……。



 眩しそうに細められた瞳は、今なにを考えているのかわからないけれど、私がこんな風になってもいつもと同じように見える。

 寂しいのも不安なのも私だけなんだ、と気づかされてしまった。



 雨天様たちにとっては、私はお客様のうちのひとり。

 他のお客様たちよりも長く過ごしたからといって、別れを特別惜しむような気持ちになったりはしないのかもしれない。

 それが普通で、これでいいはず。

 自分自身に言い聞かせている言葉とは裏腹に、心はちっともそんな風に思えなかった。



「ひかりは、ここを去るのが不安か?」



 不意に、雨天様が私を見つめた。

 素直に答えるべきなのかわからなくて、グッと詰まる。

 真っ直ぐな双眸は、きっと私の本心なんてお見通しなんだろうけれど……。正直な気持ちを口にしてしまったら、今よりももっと心が置いてきぼりになるような気がしたから。



「……そうか」



 たぶん、雨天様は心を読んだわけじゃないと思う。

 なんとなくだけれどそう感じていると、少しして困り顔で微笑まれた。



「私たちと長く一緒にいた分、ひかりにとっては後ろ髪引かれるような気持ちもあるだろう」



〝ひかりにとっては〟と強調されたような気がして、笑みを繕おうとした口元が歪みそうになった。

 私だけなんだ、という現実がますます寂しさを増幅させる。



「布団やちょうどよい湯加減の風呂は、気持ちがよいと思うだろう?」


「え?」


(突然なんの話?)



 私がそう訊く前に、雨天様が再びゆっくりと歩き出した。



「自分自身にとって心地好いものというのは、心と体を慰め、癒やしてくれる。それは、とても大切なことだ」



 話の意図が見えないなりに控えめに頷くと、その曖昧な気持ちを見透かしたように苦笑されてしまった。

 なんとなくいたたまれなくなった私に、雨天様は足を止めずにさらに奥に向かっていく。



「だがな、どんなに心地好くても、そこにずっといるわけにはいかないのだ」



 そのあとを追いながら、雨天様がなにを言おうとしているのかを悟る。

 同時に、胸の奥がキュッと締めつけられた。



「朝が来たら布団から出て、学校や仕事に行ったり、家事をしたり……。そうして一日が始まってゆく。時には朝寝坊をして、一日中布団の中で過ごす日もあるだろうが、それをずっと続けるわけにはいかない」


「そうだね……」


「ずっと布団の中にいてはなにもできないし、気持ちがよい湯舟に浸かり続けていてもいつかはのぼせてしまう。そこがいくら心地好くて、快適であったとしてもな」



 苦笑気味の表情は、私の背中を優しく押そうとしてくれている。

 それに応える自信はないけれど、せめて視線を逸らさないでいようと思った。



「ひかりがここで過ごした日々は、ひかりの記憶の中からは消えてしまう。だが、心の中のずっとずっと奥では、きっとここでの日々で得たものが残っているはずだ」



 忘れてしまうのに、残っているなんて……。随分とご都合主義なドラマみたいだけれど、不思議とそうなのかもしれないと感じた。



「思い出すことはなくとも、ひかりはここでの日々で心を癒やし、少しだけ成長できたはずだ」



 雨天様の言葉なら信頼できるような気がするのは、雨天様はこういう時に嘘をつかないから。

 それに、気休めで安易なことを言ったりもしない。



「だから、なにも心配することはない。ここを去ってあるべき場所に帰ったら、また今までと同じように頑張ればよい」



 優しい言葉に、私はどう返せばいいんだろう。

 すぐにはわからなかったから、少しだけ自嘲混じりに笑った。



「頑張る、か……。まぁ、来年には就活を始めなきゃいけないしね」


「ん? ……ああ、就職活動というやつか」


「うん、そう。就活は憂鬱だけど、社会人になるのは嫌じゃないし、頑張らなきゃとは思ってるんだけど……」



 そこで言葉とともに足を止めると、隣を歩いていた雨天様も立ち止まった。

 少し待ってもなにも言わない私に、「どうした?」と優しい声が届く。



「私、夢とか目標がないんだ……」



 兄と姉はとても優秀で、難関中学を受験して一流大学に入り、それぞれ誰もが知っている外資系の有名企業に就職した。

 反して私は、中学受験に失敗し、高校もごく普通の県立に通い、大学だってそこそこの偏差値のところに入学するのが精一杯だった。



「友達の中には私と同じように『目標がない』って言ってる子もいるんだけど、うちはお兄ちゃんとお姉ちゃんが優秀でね。私だけ出来が悪かったの……」



 両親の期待を寄せられていた兄たちとは違い、私は勉強に関しては早々に見切りをつけられていたことは知っている。

 期待に満ちた瞳を向けられなくなった時には、子ども心にそれなりに傷ついた。



「高校も大学も普通よりもいいところには行けたけど、第一志望には届かなくて……。両親のことは、今までに何度もがっかりさせたと思う」



 だからと言って、両親から特別ひどい扱いをされたり、罵られたりしたことはないけれど……。大学進学を機に家を出るまではずっと、両親と顔を合わせるたびに自身の不甲斐なさを申し訳なく思い、息が詰まってしまいそうだった。



「兄弟の出来はよくて、ふたりとも超一流企業に勤めてて、両親はいつも自慢してた。でも、私だけ外で褒められることはほとんどなかったんだ」



 家の中では『頑張ったね』と言ってくれるけれど、外では褒められた記憶はない。

 親戚からは兄や姉と比較されることも多くて、いつも息が苦しかった。


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