お品書き 四 『おはぎ』別れるその日まで【4】


* * *



 お盆真っ只中の、ある日。

 日が暮れてからやって来たお客様は、三十代くらいの男性だった。

 一瞬、人間のお客様かと思ったけれど、どうやらそうじゃないということにすぐに気づいた。



「私は三年ほど前に病気で亡くなりましたが、今日までずっと恋人の傍にいました」



 しばらくの間はひと言も話さず、出されたおはぎにただ視線を落とすだけだった。

 全身に悲しみを纏っているようなそのお客様は、お茶をひと口飲んだあとで、ようやくそう切り出した。



「生前、恋人には、私がいなくなったあとに新しい恋をするように伝えていました。私の病気を知っても離れずにいてくれた恋人に私がしてあげられるのは、きっとそんなことを言うことくらいしかありませんでしたから」



 悲しみの色が強い瞳が、いっそう苦しそうになる。

 その姿を見ているのは、とてもつらかったけれど……。



「恋人には、誰よりも幸せになってほしかったんです。だから、私の代わりに彼女を守ってくれる人が現れてくれることを願っていたはずでした……」



 この場にいる以上はしっかりとおもてなしをしないといけない、と自分自身に言い聞かせていた。



「でも……ずっと泣いてばかりいた彼女が次第に笑顔を取り戻し、ようやく新しい恋をして、また幸せそうに笑うようになった姿を見て……僕は涙が止まりませんでした」



 だけど、お客様とともに私の瞳にも涙が込み上げてくる。



「彼女の幸せを願わなかった日は一日だってないはずなのに、自分以外の男性の隣で幸せそうに笑う彼女を見て、僕は傷ついてしまったのかもしれません……」



 俯いたお客様の口から、絞り出すような声音で「なんて身勝手な奴なんでしょうね」と落とされた。



「今日がふたりの結婚式なんです……。彼女はもう覚えてないんでしょうが、皮肉にも今日は僕らが出会った日なんですよ……」



 お客様は、「しかも、このひがし茶屋街で出会ったんです」と付け足した。

 お互いにひとり旅をしていて、たまたま入ったお茶屋さんのカウンター席で隣同士に座ったのだとか。



「一目惚れでした。お互いに東京から来ていて、意気投合して……。翌日も一緒に観光地を回って、連絡先を交換したんです。たまたま住んでいる場所も近くて、東京に戻ってから勇気を出して告白して付き合えるようになった時は、天にも昇るような気持ちでした」



 涙混じりの声で、幸せだった日々のことが語られていく。

 幸福に満ちた思い出のはずなのに、私は涙が止まらなかった。



「それなのに、僕はもう彼女の傍にいることができない……」


「その女性の夫となる方は、どんな人なのですか?」



 悲痛な面持ちのお客様に、雨天様がそんなことを尋ねた。

 さすがに傷口をえぐる行為なんじゃないかとギョッとしたけれど、雨天様の表情はとても優しくて、すぐにハッとした。

 だって、雨天様はそういうことをしないから。



「僕の親友です……。とってもいい奴で、かっこよくて……。自慢の幼馴染です……」



 誇らしさと悲しみが混じったような表情が、涙とともに雨天様を見た。

 すると、雨天様がそっと微笑んだ。



「でしたら、その女性は今日があなたとの思い出の日であることを覚えているのではないですか?」


「え……?」


「相手の男性があなたの幼馴染なら、その男性もあなたの恋人も同じように大切な人を失くし、同じ傷を負ったはずです。だからこそ、もう大丈夫だとあなたに伝えたくて、今日を晴れの日の舞台に選んだのではないかと」


「まさか……そんな……」


「ええ。すべては私の憶測です」



 戸惑いを浮かべるお客様に、雨天様が素直に頷く。

 あっけらかんと肯定されたことに、お客様はますます困惑していたようだけれど……。


「ですが、どうせ真実がわからないのなら、幸せな解釈をした方がよいと思うのです。それに、私がもしあなたの幼馴染や恋人だったとしたら、どちらの立場になったとしてもきっとこう思うでしょう」


口を挟んだりすることはなく、雨天様の話にじっと耳を傾けていた。



「私たちはあなたを忘れたりはしません。そして、ふたりで必ず幸せになります。だから、心配しないでください……と」



 そして、雨天様が真っ直ぐにお客様を見つめたままそう言った直後、お客様の瞳からは大粒の涙が零れ落ちた。



「あぁっ……!」



 嗚咽混じりに泣き出したお客様は、天井を仰ぎながら声を押し殺すようにしていた。

 抱え切れないほどの悲しみが涙になるのを見ているだけで、私の瞳からも同じように大粒の雫が零れていく。



「……っ! どうして気づかなかったんだろう……」



 しばらく経ってから、お客様は掠れた声を絞り出すようにごちた。

 そっと雨天様に向き直ったお客様が、涙で濡れた表情を和らげていった。



「あいつも、彼女も……そういう優しい人でした……」



 微かに笑みを浮かべたお客様に、雨天様もそっと笑みを零したあと、ゆっくりと頷いた。



「ありがとうございます。あなたが教えてくださらなかったら、私は大切なことを忘れたままだったかもしれません……」


「いいえ。私はなにもしておりません」



 なんでもないと言うように返した雨天様に、お客様が小さく笑う。

 それから、おはぎの存在を思い出したかのように視線を落とし、おずおずと開口した。



「……これ、いただいてもいいですか?」


「もちろんでございます。お客様のためにご用意させていただいたものですから」



 お客様は「いただきます」と言ってから、おはぎを口に運んだ。



「おいしい……」



 色々な感情を噛みしめるように、静かな客間に小さな声が響く。



「ああ……。でも……できることなら、私が彼女を幸せにしたかったなぁ……」



 そして、消えた言葉を追うように、切ない想いが溶けていった。

 悲しみも寂しさも、恋人への愛も幸せだった日々の思い出も、そこにはすべてが込められているような気がした。



「お客様、ご縁というのは不思議なもので、来世でもまた巡り合う愛もあるものです。ですから、どうかそんなお顔をなさらないでください」



 まるで、心に寄り添うように紡がれた言葉。

 私は来世なんてわからないけれど、その言葉通りになることを願わずにはいられない。



「じゃあ、また彼女と……それから、あいつとも会えたらいいなぁ」



 お客様がそっと瞳を細めた時、全身が光り始めた。

 もう何度も見た光景だけれど、こうして見るといつもホッとする。

 このお客様もあるべき場所に帰ることができるんだ、と。



 そして同時に、自身のこれからのことを考えて、ひとり密かに不安になってしまう。

 そうこうしているうちに、「ありがとうございました」という言葉を残し、お客様は姿を消してしまった。



「来世もあなたに幸福の縁がありますように」



 決まって紡がれる、幸せを願う言葉。

 いつか私にも、雨天様は同じセリフをくれるのだろうか。



「ひかり、大丈夫か?」



 そんなことを思っていると、雨天様が私の顔を覗き込むようにしていた。

 慌てて涙塗れの顔を手の甲で拭い、なんとか笑って見せる。



「うん、平気」


「そうか。だが、今夜は少し疲れただろう。早く布団に入るとよい」



 頷いて「ありがとう」と言いながら、私はあとどのくらいここにいられるのだろうと考えた。

 明日か明後日か、もしかしたら今夜には帰ってしまうこともあるのかもしれない。

 この場所を、雨天様を。コンくんと、ギンくんを。



 忘れてしまう日が来るのはとても寂しいけれど、だからこそ今は一秒でもたくさん笑っていたい。

 だって、私の記憶が消えてしまっても、みんなは私のことを覚えていてくれるはずだから。

 一秒でもたくさん笑って、笑顔をたくさん残して、とびきりの感謝を込めて『ありがとう』という言葉を残したい。



 だから、いつか訪れる別離の時を思ってどんなに深い寂しさを抱いたとしても、できるだけ笑っていよう。

 優しい神様たちとの別れが来る、その日まで――。


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