お品書き 四 『おはぎ』別れるその日まで【2】
「別に、謝ることはない。ひかりは、ただ知らなかっただけなのだから」
「でも……」
優しくされてしまうと、自分の情けなさが浮き彫りになっていくようで、いたたまれないような気さえしてくる。
「誰だって知らないことも、知らないことで感じる不安もある。だが、知ったあとにどうするかによっては、私は必ずしも謝罪が必要だとは思わない」
「どういうこと?」
「〝知らないことは罪ではない〟ということだ。反省して次に活かせるのなら、なおのことな」
小首を傾げていた私は、少し回りくどいような言い方にますます首を捻ってしまう。
つまり、怒っていないし謝る必要もない、ということなのかもしれないけれど、普通は謝罪が必要な場面だと思うから。
「仮に、ひかりが今の疑問を本人……つまり、お客様たちの前で口にしていたら私は叱ったし、お客様への謝罪を求めただろう」
それは、わかる。
だからこそ、私は数日前にお客様がいる時に感じた疑問を、今日まで口にすることを悩んでいた。
「だが、ひかりはこうして私だけに尋ね、その答えを聞いてすぐに自身の言動を詫びた。そうして真っ先に反省しているとわかる者に、私はわざわざ謝罪が必要だとは思わないのだ」
雨天様の言葉は、相変わらずとても優しくて、湿った空気すらも柔らかなものに変える力がある。
「自身の非を認め、すぐに素直に謝罪ができた者は、同じことを繰り返さない努力ができるものなのだ」
きっぱりと断言し、穏やかな笑みを浮かべる。
その瞳は、優しさで満ちていた。
「ひかりは今日、これまでに知らなかったことを知り、反省している。だから、私から学んだことを次に活かしてくれればよいのだ」
間違いを叱ることなく教え、そっと導いてくれる。
ここに来る人たちは、雨天様のこういう優しさにも救われているに違いない。
最初に紡いだ疑問は、あくまで本題への布石のつもりだったけれど……。雨天様はやっぱり神様なんだと、改めて感じた。
「私の言っていることがわかるか?」
「うん」
「それなら、ひかりはもう同じ間違い繰り返すことはないだろう」
ふわりと破顔されて、ふとおばあちゃんの笑顔が脳裏に過った。
前にも、確かこんなことがあったような気がすると感じ、記憶の糸を辿る。
「あ、そっか……。あの時だ」
「どうかしたのか?」
思わず零れたひとり言に、雨天様が首を傾げている。
私は、そろそろ雨粒を落とし切りそうな空を見上げ、ニッコリと笑った。
「あのね、おばあちゃんが雨の日が好きだった理由を聞いた時のことを思い出したの」
「その話は私も聞いてみたい。詳しく教えてくれないか?」
少し悩んだけれど、きっとおばあちゃんなら雨天様には話してもいいと思うような気がする。根拠はないのに、不思議とそう感じた。
「おばあちゃんは若い頃、お見合いをするためにひいおじいちゃんたちに金沢まで連れて来られたんだけど、その時に雨が降ってたんだって。それでね、おばあちゃんはお見合いに向かう途中でやっぱり嫌になって逃げ出したんだけど、必死に走ったせいで着物がビショビショに濡れて、泥だらけになって……」
帰ることもできず、かと言ってお見合いをする料亭にも行けない。
途方に暮れながらも歩いて辿り着いたのは、ひがし茶屋街だった。
今のような観光地じゃなかった当時、おばあちゃんはとても心細かったと言っていた。
そんなおばあちゃんを見兼ねるようにたまたま声を掛けたのが、おじいちゃんだった。
あまり口数の多くないおじいちゃんは、『これを』とだけ言って持っていた手拭いを差し出した。おばあちゃんは戸惑ったけれど、優しく傘に入れてくれたおじいちゃんに言われるがまま着物を拭いた。
それから、おじいちゃんに促されてゆっくりと歩き出し、お茶屋街を抜けた頃。
沈黙が続くことに耐えられなくなったおばあちゃんが、ぽつりぽつりとお見合いから逃げてきたことを話すと、偶然にもおじいちゃんも知らない女性とのお見合いが嫌で逃げてきたと言った。
『自分は口下手なので、きっと相手の女性を幸せにはしてやれない』
『私にこんなに優しくしてくださったのに、そんなことありません! あなたはとてもお優しい方です!』
自嘲気味に言ったおじいちゃんに、おばあちゃんは本心からそう返した。
だけど、ふたりの別れはあっという間にやって来る。
おばあちゃんは両親に見つかり、おじいちゃんにロクにお礼も言えないまま強引に連れ戻されてしまった。
悲しいけれど、これが自身に与えられた運命で、受け入れるしかない。
そんな風に諦めるしかないと悟った時、おじいちゃんと再会した。
さっき別れてから、一時間もしないうちに。
「おばあちゃんのお見合い相手は、おじいちゃんだったの」
運命だと思った、と、おばあちゃんはこの時のことを話すたびに幸せそうに零していた。
おじいちゃんはもちろん、どうにかして断ろうと画策していたお見合いを受けた。
「おじいちゃんの気持ちは一度も聞いたことがなかったけど、おばあちゃんと同じようにあの時に出会えて幸せだと思ってたのかな」
今となってはもう答えを知る術はないけれど、私の記憶の中のおばあちゃんの姿を思い出せば、答えなんて訊かなくても構わないと思えた。
だって、この話を運命だと言えず、あのふたりが幸せじゃなかったのなら、『この世のどこにも運命や幸せなんてない』と言っても過言じゃないと感じたから。
第二次世界大戦の空爆を受けなかったことによって、古い街並みが残るひがし茶屋街。
ここを訪れるたび、おばあちゃんはいつも懐かしそうに『変わったけど変わってないわ』と微笑んでいた。
「だから、おばあちゃんは雨が好きなんだって」
おじいちゃんと出会った日は、恵みの雨だったのかもしれない。
それを降らせていたのは、雨天様に決まっている。
そんな確信を持って雨天様を見ると、柔和な笑みを向けられていた。
「この力を持っていることを、心から嬉しいと思う日が来るとはな」
「え?」
喜びを噛みしめるように意味深に紡がれた言葉に目を見開く私に、雨天様はどこか申し訳なさそうに、そして自嘲も混じらせた笑みを浮かべた。
「雨を降らせる力が嫌というわけではないが、自分自身が嬉しいかと言えば今までは心底そうとも言えなかったような気がするのだ。だが、今日はとても幸福感を感じている」
意外に思えたけれど、一般的に雨を嫌う人は多い。
大抵の人は梅雨を疎ましがるし、その時期のワイドショーからは『洗濯物が乾かない』だの『ジメジメする』だの、ネガティブな声ばかり聞こえてくる。
そういうことを考えれば、いくらお客様の傷が癒えた証拠とはいっても、雨を降らせることを心底嬉しいと思わないことが普通なのかもしれない。
ただ、私はおばちゃんのおかげで、この件に関しては一般的じゃない。
「私はずっと、雨が好きだよ」
笑顔で零した言葉に、雨天様が顔を綻ばせた。
まるで、雨上がりの空に掛かる虹のように綺麗な表情は、幸せだと言っているようだった。
おばあちゃんとおじいちゃんの馴れ初めを始めて聞いた時、私は『雨なんか大嫌い!』と駄々をこねていた。
そうなった理由はもう思い出せないけれど、泣く私におばあちゃんは自分の大切な思い出を語り、それを聞いた私は笑顔になった。
そのあとで、おばあちゃんが好きなものに対して大嫌いなんて言ってしまったことへの罪悪感が幼心に芽生え、すぐに『ごめんなさい』と謝った。
すると、おばあちゃんは嬉しそうに笑った。
『ひかりちゃんは、おばあちゃんの好きなものを知らなかっただけだもの。それなのに、こうして謝ってくれるなんて、ひかりちゃんはとても優しいのね』
そんな風に言ってくれたおばあちゃんのことを、もっと好きになった。
そして、その時から私も雨が好きになった。
雨が大嫌いだったことは、雨天様には言わないでおこうと思う。
もしかしたら心を読まれているかもしれないけれど、だとしても言葉にする必要はないと思うから。
「ひかりはまるで、雨上がりに陽を浴びる雫のようだな。私は、あの輝きが好きなのだ」
不意に微笑みとともに与えられた言葉をどう受け取ればいいのかわからなくて、結局はなにも言えなかった。
だけど、心は確かに喜びを感じ、雨が上がった空を仰ぎながら素直な笑みが零れ落ちていた――。
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