お品書き 四 『おはぎ』別れるその日まで【1】

 雨天様のお屋敷でお世話になり始めてから、十日が過ぎた。

 ここでの生活は規則正しく、毎日が驚きと戸惑いと笑顔の連続で慌ただしいけれど、まるで自分の家にいる時のように居心地はとても良かった。



 おばあちゃんの家を手放す前にあそこで過ごしたいと思って、金沢を訪れたはずだったのに……。その気持ちは変わっていないものの、このままここにいたいという気持ちも拭えない。

 もちろん、そんなことは叶わないとわかっているからこそ、いつ来るのかわからない別れの時までの日々を楽しもうと決めた。

 だって、記憶を失くすと知っていても、みんなと笑顔で過ごしたいから。




「雨天様、もち米が炊き上がりました」


「小豆もそろそろできるぞ」



 縁側でお茶をして以来、私は時間が許す限り台所で過ごすようになった。

 最初は小豆の作り方を見せてもらうだけだったのに、雨天様やギンくんの仕事を見ていると楽しくて、甘い香りに包まれるこの場所につい足が向くようになっていた。



「ああ、よい香りですねぇ。コンは、お腹と背中がくっつきそうです」


「なにを言っているのですか、コン。ついさきほど、お昼をいただいたばかりでしょう」


「バカですね、ギン。この世には、別腹というものがあるのですよ」



 私と同じように台所に遊びに来ていたコンくんに、ギンくんは呆れたような視線を送っている。ふたりのやり取りが微笑ましくて、もうすぐ炊き上がるであろう小豆を横目にクスクスと笑った。



 台所で過ごすために掃除を急いで終わらせるようになったのは、実は私だけじゃない。

 いつの間にか、コンくんまでここに入り浸るようになった。

 雨天様は、最初の三日間こそ注意をしていたけれど……。今までと同じように完璧に家事をこなした上でここに来るコンくんを、叱ったりすることはなかった。



「今日はおはぎだ」


「コンは、おはぎが大好きです!」



 雨天様の言葉に、コンくんが歓喜の声を上げた。

 ピョンと跳ねた姿に微笑んだけれど、そもそもコンくんが好き嫌いしているところなんて見たことがなくて、毎回同じようなセリフを聞いていることに気づいた。



「コンくんって、嫌いなものはないの?」


「雨天様がお作りになられるものは、どれも大好物にございます!」



 得意げな声に、思わず小さく噴き出した。

 そんな私たちを見る雨天様の瞳は、とても優しい。



「ひかり、お皿を取ってくれ。大皿と、小皿が何枚か欲しい」


「はーい」


「ああ、小皿は九谷焼がよいな」



 台所に入り浸っている私は、よく使う食器や調味料の場所は覚えてしまった。

 毎食後の片付けを、ギンくんと一緒にするようになったおかげだと思う。



 充実した日々の中、私も何人かのお客様に会う機会があった。

 老衰で亡くなった雑種の中型犬のお客様は、ひとりで暮らす飼い主を案じ、飼い主の最期の時まで傍にいられなかったことに深い自責の念を感じて、心に傷を負っていた。

 ひがし茶屋街は、散歩コースだったらしい。



 ある家の一室に座敷童として住み着いていた女の子は、家主が老人ホームに入ることで老朽化した家を取り壊すことになり、居場所を失くして泣きながらここに来た。

 この街の外れが、その子がいた家だったのだとか。



 他にも、何度も生まれ変わって百年以上も生きたと自称するまん丸の三毛猫や、妖となり森の奥に棲んでいたつがいのカラスたち、百歳の誕生日を迎えたばかりで天寿を全うしたという男性の幽霊も訪れた。

 みんな、それぞれに心に深い傷を負い、そして揃って心を癒やされてあるべき場所に帰っていった。



 最初のお客様が狛犬の神使だったから、誰が来ても驚かないかもしれない。

 そんな風に思っていたこともあったけれど、客間に足を踏み入れるお客様の姿を見るたびに、毎回なにかしらに驚かされることになった。

 それでも、こぞって笑顔であるべき場所に帰っていくお客様たちを見ていると、私も温かい気持ちになってしまう。



 今のところ、ひとりも生きている人間のお客様が来たことはないから、どうやら人間のお客様の存在が珍しいということもコンくんから聞いていた通りなんだとわかった。

 こんな日々を今ではすっかり受け入れてしまっている自分自身に不思議な気持ちにはなったけれど、いつの間にか私はこのお屋敷が大好きになっていた――。




「ねぇ、雨天様は神様なんだよね」


「なにを今さら……。最初から何度もそう言っておるだろう」


「そうなんだけど。でもね、妖とか幽霊とか……普通におもてなししてるけど、神様と妖って仲良くしてもいいものなの?」



 訝しげな顔つきをした雨天様は、私の言葉で最初の質問の意味を理解したみたい。

 一瞬目を見開いたあとで、眉を下げて微笑んだ。



「では訊くが、ひかりはあのお客様たちになにか悪いことをされたり、嫌な思いを感じさせられたりするようなことはあったのか?」


「……ううん」



 少し考えて、しっかりと否定をした。

 私は、そんな風に感じたことなんてないことに気づき、自身の質問が恥ずべきものだったのではないか、とすぐに思い至る。



「そういうことだ」



 雨天様は優しく言うと、傘をほんの少しだけ後ろに倒して、私の方を真っ直ぐ見つめた。



「妖や幽霊が悪いという認識は、偏見から来る憶測に似たものだ」


「うん……」



 きっぱりと言い切られて、雨天様の顔をまともに見ることができなくなってしまった。

 雨天様は怒っていないけれど、数十秒前の自身の言動に気まずさを感じずにはいられなかったから。



「妖にも幽霊にも、いい者も悪い者もいる。だが、悪い者が根っからの悪かと言えば、私はそうではないと思っている」



 まるで叱られた子どものような気持ちでいる私に耳には、雨天様の優しい声が雨音とともにしっかりと届く。

 決して叱られているわけじゃないけれど、自然と反省の念を抱いていた。



「善か悪か、根っからの悪か。人間にも色々な者がいるように、妖や幽霊も同じなのだ。ついでに言えば、神様もな」



 そう言っておどけたように笑った雨天様に、思わず視線を上げていた。

 雨天様は、場の空気を和ませようとしてくれたのかもしれないけれど、悪い神様なんているのだろうか。

 その真意が気になったけれど、今はその疑問を解消するよりも、言わなければいけないことがある。

 少し緊張していることを隠すように息を小さく吐き、視線を逸らさないように努めて、おもむろに開いた唇で謝罪を紡いだ。



「ごめんなさい……」


「なぜ謝る?」


「だって……」



 そのあとに続くセリフを、上手く声にすることができなかった。

 なにが悪かったのかも、自身の浅慮さもわかっているのに、どれからどんな風に説明すればいいのか思考が働いてくれなかったから。

 それなのに、程なくしてフッと小さく笑った雨天様は、私の頭をポンポンと撫でた。


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