お品書き 三 『栗羊羹』神様たちと過ごす日々【5】


* * *



 翌日から、私はコンくんに教えてもらいながら、お屋敷内の家事を手伝うことになった。

 広いお屋敷のほとんどの家事をひとりで任されているコンくんは、ベテラン主婦さながらの働きで次々と家事をこなしていく。

 私がお風呂掃除を終える頃には、コンくんはトイレや客間を始め、各々の部屋の掃除まで済ませてしまっていた。

 せめて居間の掃除くらいは私がひとりでしようと思ったのに、結局はコンくんが手伝ってくれ、そのまま玄関や門の周辺の掃除もふたりですることになった。



「あんまり役に立てなくて、ごめんね」


「そんなことはございません。ひかり様のおかげで、コンはとても助かりました」


「でも、結局私がひとりでやったのって、お風呂掃除だけだよ」


「はい。でも、コンはとても嬉しかったのです」



 言葉以上に嬉しそうに見える顔が、私に向けられる。

 なにがそんなに喜んでもらえたのかわからずにいると、コンくんがほんの少しだけ眉を下げた。



「コンが猪俣様のところへ行ったりお掃除をしたりしている間、いつも雨天様とギンは仕込みをしております。コンは自分自身のお役目を果たすことに誇りを持っておりますが、雨天様と作業ができるギンとは違い、コンはいつもだいたいひとりだったので、今日はひかり様と一緒にお掃除ができてとても嬉しかったのです」



 少しだけ照れたような表情で語られた、可愛い本音。

 たいして役に立てなかった私のことをそんな風に思ってもらえて、意図せずにくすぐったいような気持ちが込み上げ、笑顔にならずにはいられなかった。



「そんな風に言ってもらえて、私もすごく嬉しいよ。でも、本当に全然役に立てなかったけどね」


「いいのです。こうしてお話ができるだけでも、コンは嬉しいですから」



 コンくんは、どこか照れ臭そうに石畳と石畳の間をピョンと飛んだ。

 私もコンくんの真似をするように、小さく飛ぶように跨いでみる。



「そういえば、今日は雨が降ってないね」


「ああ、まだお話していませんでしたね。雨が降っていないのは、昨夜はお客様がいらっしゃらなかったからです」


「え? そうなの?」


「ええ。お客様の心の傷が癒えると、それが翌日の雨になることは、雨天様からお聞きになられたのですよね?」


「うん。あ、そっか。じゃあ……」


「はい。お客様がいらっしゃらなかった翌日は、雨が降りません」



 理由を察した私に、コンくんがニッコリと微笑む。



「基本的には毎日お迎えできるように準備をしておりますが、傷ついた者が毎日ひがし茶屋街にやって来るとは限りませんし、この辺りに来ていたとしても深いゆかりがない場合もございます。それに、ゆかりがあっても私の声が届かない場合などもあるのです」


「そうなると、昨日みたいにお客様が来なくて、今日は雨が降らないってことなんだ」



 コンくんは頷き、手にしていたほうきやちりとりを納屋に片付けた。



「いくら雨が降りやすい土地とはいえ、さすがに毎日雨が降ると困る方が多いでしょう。私は、とびきりおいしい甘味が出る日におもてなしができない時は残念だと思うこともございますが、こうしてお日様が見える日も必要なのです」


「確かに、晴れてくれなきゃ困るもんね。おばあちゃんは雨が好きだったし、私もその影響で雨は嫌いじゃないけど、太陽が出てると気持ちがいいし」


「ひかり様のおばあ様は、雨がお好きだったのですか?」


「変わってるでしょ?」


「いいえ。雨天様がお聞きになれば喜ばれると思います」


「うん、喜んでたよ」



 私の言葉に、コンくんは優しい眼差しで「そうですか」と口にした。

 雨天様も、昨日この話をした時に似たような表情をしていたことを思い出す。



「コンくんは、雨が好き?」


「はい、もちろんでございます。ですが、お日様も大好きです。晴れた日には縁側で甘味を食べるのですが、それがまた格別においしいのです。きっと、今日もたくさん食べてしまいます」


「へぇ、そうなんだ。じゃあ、楽しみだね」


「はい。雨天様もお日様が好きですから、楽しみにされているはずです」



 雨天様という名前や、雨を降らせるという力のことを考えれば、太陽が好きというのは意外な感じもしたけれど……。雨天様も晴れている日が好きだと聞いて、なんだか嬉しくなった。




 コンくんの言う通り、今日のおやつは縁側に並んで座って食べることになった。

 夏の陽射しは少しばかり強いけれど、涼しげな風鈴の音がそよぐ風とともに暑さを和らげてくれる。

 しかも、今日の甘味は特製のシロップがかかったかき氷だった。



 茶色のシロップと練乳、そして炊き上がったばかりの小豆が添えられていて、氷はとてもきめ細かい。

 なんでも、氷は庭の最奥にある湧き水から作っているものらしい。どれだけ食べても頭がキーンとならなくて、いくらでも食べられそうだ。

 茶色のシロップはほうじ茶を煮出して作られていて、甘さが控えめの練乳との相性が抜群だった。そこに炊き立ての小豆も加われば、もう頬が落ちてしまうかと思ったくらい。



「ひかりは本当においしそうに食べるな」


「だって、本当においしいんだもん」


「それほど喜んでもらえると、作り甲斐があるものだな」


「ねぇ、この小豆の炊き方、教えてくれない?」


「なぜだ?」



 庭で遊び始めたコンくんとギンくんを横目に切り出してみると、雨天様が不思議そうな顔をした。

 理由を言おうとした唇が一度動きを止め、少し悩んだあとで素直に答えを紡いだ。



「なんとなくなんだけどね……。雨天様の小豆の味って、おばあちゃんが食べさせてくれたものと似てる気がするから」



 すると、雨天様が目を小さく見開いた。



「……そうか。この作り方に辿り着くまでに随分と苦労したのだが、ひかりのおばあ様は料理の腕がよかったのだな」


「えっと、うん……。確かに、おばあちゃんの料理はどれもおいしかったよ。でも、小豆の味は似てる気がするっていうだけで、雨天様が作った小豆の方がおいしいと思う」



 おばあちゃんは長生きしたけれど、雨天様と比べれば何百年どころじゃないほどの差がある。

 その間ずっと、甘味作りをしてきた雨天様にとって、『おばあちゃんが作ったものと似ている』と言われたら複雑な気持ちになるだろう。



「あの、本当だよ?」



 それが一瞬戸惑った理由だったのだけれど、結局口にしてしまった私は、慰めにもならない言葉を続けることしかできない。

 だけど、雨天様の小豆の方がおいしいと言ったのは、嘘なんかじゃなかった。



「別に気を遣わなくてもよい。ひかりが言いたいことは伝わっておる」


「心を読んだの?」


「読まなくてもわかる」



 苦笑した雨天様は、「本当だ」と付け足した。私はその言葉を信じると言う代わりに、小さく首を縦に振る。



「だが、作り方を教えても、ひかりには作れない」



 返ってきた答えに落ち込みかけたけれど、すぐにどこかで納得した私がいた。



「そりゃそうだよね。神様が作ってるんだから、超秘伝のレシピとかなんだろうし、ギンくんだって二百年くらい修業を続けてるんだもんね」



 アハハッと笑ったのは、心の中にある気持ちをごまかすため。

 納得はできていても、おばあちゃんの味に似ているような気がしたから、できればレシピを教えてもらいたかった。



「いや、そういうことではない。同じように作れるようになるにはそれ相応の修業が必要だが、もし仮にそれを経て作れたとしても、ひかりが帰る時には忘れてしまう」


「え?」


(あ、そっか……)



 首を傾げた直後にハッとすると、雨天様が困ったような面持ちを見せた。

 そこに、微かな笑みが乗せられる。



「ひかりは、いずれあるべき場所に帰らなくてはいけない。その時になればすべての記憶が消え、ここでの日々を思い出すことはない」



 困り顔で微笑む雨天様の声は、心に寄り添うように優しかった。

 それはまるで、私を傷つけないようにするために思えた。

 最初から聞かされていた決まり事を話すだけなのに、私を労わるような声音で紡いでくれた雨天様はとても優しくて……。だけど、たった数日でここにいることが当たり前になりつつあった私を、同じくらいの厳しさでそっとたしなめた。



「ひかり」


「あ、さっきのは忘れて! ちゃんとわかってるから」


「ああ。だが、明日は小豆を炊くところを見せてやろう」


「いいの?」


「作り方を教えてやることは叶えてやれないが、目の前で作るところでも見れば、少しは気が晴れるかもしれないだろう」


「うん。ありがとう」



 気が晴れるかはわからないけれど、雨天様の気持ちは嬉しかった。

 だけど、家事はきちんとこなしたかったし、コンくんに迷惑をかけたくもなかったから、明日は少しだけ早起きをして掃除をしておこう。



「よい心がけだな」


「また読んだの?」


「なにを言っておる。今のは声に出ておったぞ」


「え? 嘘……」


「嘘だ」


「……もうっ! 雨天様って、時々意地悪だよね」



 からかわれたことに気づいて唇を尖らせたけれど、雨天様はなぜか楽しそうにしている。

 クスクスと笑う姿は、普通の青年と変わらないような気がして、こうして話していると雨天様が神様だってことを忘れてしまいそうだった。



 だけど……雨天様たちは、人間じゃない。

 この地に棲む雨の神様と、双子の狐の神使。

 人間である私は、ずっとここにいることはできない。



(もし、雨天様たちのことが見えなくなったら、どんな風に感じるのかな……)



 ふと浮かんだ疑問の答えは、すぐに出た。

 だって、私はそのことに気づくことすらないのだ、とわかっていたから。



 記憶を消されてしまうのなら、雨天様たちのことが見えていたことすら忘れてしまう。

 そうなれば、見えなくなった時のことなんてわかるわけがない。

 見えなくなる時はきっと、とても寂しくなる。

 もしかしたら、傷ついてしまうかもしれない。

 それを忘れてしまうというのは、傷つかなくても済むということなのかもしれないけれど……。傷ついてもいいから忘れたくない、と確かに思ってしまった。



 その気持ちを振り払うように頭を振り、顔を上げる。

 晴れた空は気持ちよくて、雨よりも晴れている方が好きだったはずなのに、今はなんだか太陽よりも雨が見たい。



「ひかり。明日の小豆は、大福にしようか」


「うん。あんこはたっぷりにしてね」


「ああ」


「雨天様! コンは塩大福も食べたいです!」


「それなら、明日は特別に両方作ってやろう」



 他愛もない会話に、優しい笑顔。

 いつかこの時の思い出も忘れてしまうのなら、たとえどんなに些細な出来事であっても、今だけでも心にしっかりと刻んでおこうと思った。


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