お品書き 三 『栗羊羹』神様たちと過ごす日々【4】
「この雨は、お客様の傷なのだ」
「え? 傷……?」
「私は、ここにやって来たお客様の心の傷を受け取り、雨に変える。そして、こうして降らせるのだ」
「じゃあ、悲しい雨ってことなの?」
「私も先代からこの力の話を聞いた時に同じことを尋ねたが、先代は否定していた」
それまでどこか悲しみを孕んでいた瞳が、幸せそうに空を見遣る。
少しして、懐かしむような顔つきで答えが紡がれた。
「先代に言わせるのなら、これは〝癒やしの雨〟だそうだ」
「癒やしの雨?」
反復するように声にすると、雨天様が大きく頷いた。
「この雨はお客様の傷から生まれるが、ここを去っていくお客様はみな、傷が癒えた心で帰っていく。だから、この地に降る雨になる時にはもう、癒やしへと変わっている……と」
「……なんか、素敵だね」
「ああ。私は少しばかり乱暴な理論だと思わなくはないが、この考え方は好きなのだ。そして、先代は、この癒やしの雨が少しでも人々の心を癒やすように願っていたのだそうだ」
「お客様の心じゃなくて?」
疑問を感じた私に、雨天様は再び首を縦に振った。
「私も同じことを訊いたのだがな」と、笑いながら。
「ここに来るお客様だけが、なにも傷ついているわけではないだろう? みな、大なり小なり悩みや痛みを心に抱えながら生きている」
確かに、傷やつらさの度合いはともかく、きっとこの世に傷ついたことがない人なんていない。
先代は、そういう人たちも救ってあげたかったのだろうか。
「困った先代だと思ったよ。傷ついたものをみなみな癒やすなんて、いくら神様でも無理に等しい。けれど、先代はこの地に棲むすべての魂を守りたいと、心から思っていたようなのだ」
「すごいね……」
「私に言わせれば、ただのお人好しだ。まぁ人ではないが……。自身が力尽きることも厭わずに、自身以外のすべてを守りたいと願っていたのだからな」
雨天様は眉を下げていたけれど、その笑顔は悲しみや寂しさが混じっているようなものじゃなかったと思う。
だって、どこか誇らしそうに見えたから。
「ねぇ。雨天様もすべて救ってあげたいとか思ってるの?」
「私は、先代とは違う。先代に比べれば力も弱く、神としての経験も浅い。そもそも、もともと神使だったような者が、すべてを救おうなどという分不相応なことは考えるものではない。自分の力は、私自身がよくわかっている」
「うん、その方がいいと思う」
「だがな、ひかり……」
雨天様には無理をしてほしくなくて共感するように告げると、雨天様は私の気持ちを察するように頷き、笑みを浮かべたまま私の名前を呼んで空に手を翳した。
「だからこそ、せめてここに来た者はみな、救いたいと思っている」
そう、優しい声音で紡がれた時。
雲の隙間から柔らかな細い光が落ちてきて、雨雲がゆっくりと散っていった。
まるでスローモーションのように流れていく雲とともに雨が弱まっていき、そのうち大きな音を立てていた雨が止まった。
「これ……雨天様がやったの?」
「ああ。少しの間なら、やませることができる。まぁ、またすぐに降らせることになるがな」
肩を竦めた雨天様が、「足元の水たまりを見てごらん」と笑った。
傘を下ろしてから言われるがまま視線を落とすと、そこには見たことがある場所が映っていた。
「なにこれ……」
「ひがし茶屋街の風景だ」
「どうなってるの?」
「これも、私の力のひとつなのだ」
驚いて地面に釘付けになる私に、雨天様は笑っているみたいだったけれど……。それを確かめる余裕はなく、水たまりの中で行き交う人々の様子を見ながら目を見張った。
その中にいる人々は、古い街並みを笑顔で楽しみ、写真を撮ったり一服したりしていた。
それは、ひがし茶屋街で見る光景そのものでしかなかった。
「ここには、頻繁に新しいお客様がやって来る。賑やかなコンと、修業好きなギンがいる。雨が上がれば、こうして水たまりの中のひがし茶屋街を見ることができる」
ようやく顔を上げた私は、私を見つめていた雨天様と視線が交わった。
優しく弧を描く瞳が、なにを言いたいのかわかる。
「今はもう、寂しさを感じる余裕も、悲しみに暮れる時間もない。私は、賑やかな日々を送ることに幸福を感じ、先代の意志とこの屋敷を守っていくことに誇りを持っているのだ」
それでも、最後まで黙っていたくて、無言のまま雨天様を見つめていた。
「だから、私はここから出られないことを嫌だと感じたことは一度もない。きっと、これからもそうであろうな」
「うん……」
きっと、それが雨天様の本心。そう思った時、頬に雫が落ちてきた。
「ああ、そろそろまた降らせることになりそうだ」
ひとり言のように言った雨天様の言葉通り、空はいつの間にか再び雨雲を呼び戻していて、パラパラと雨粒が降ってきた。
「晴れ間をあまり見せてやれなくて、すまないな……」
傘を差そうとした時にそんなことを言われて、私は少し考えた末にニッコリと笑った。
「見て。この傘、スイートピーがデザインされてるの」
再び広げた傘を、雨天様にもよく見えるように高く上げた。
私たちの頭上では、まるでカラフルな花弁が躍っているみたいで、おばあちゃんの言葉通りになったことに自然と明るい笑みが零れていた。
「空は曇ってるけど、まるで空から花びらが降ってくるみたいじゃない? 雨の日の特権だよね」
晴雨兼用だけれど、そこはご愛敬。
それに、私は雨の日にしかこの傘を使っていないから、別に嘘はついていない。
「……ああ、確かにまるで花びらが舞うようだな」
じっと傘を見つめていた雨天様が、おもむろに私に顔を向けた。
強い意志を持つ真っ直ぐな瞳は、柔らかく緩められている。
「ひかりは、とても素敵な感覚を持っているのだな。豊かな感受性は、心を豊かにする。そういう感覚をずっと大切にするとよい」
「あ、えっと……」
「うん?」
「実は……さっきのあれは、おばあちゃんのセリフなの。だから、私の言葉はただの受け売り」
褒めてもらえたことに喜ぶよりも申し訳なくなって、自嘲混じりの声音で白状し、曖昧に笑う。
すると、雨天様はふわりと破顔した。
「別に、それでもよいではないか。ひかりは、その言葉に共感したからこそ、私に教えてくれたのだろう」
「もちろんそうだよ……。でも――」
「それなら、私にとっては〝ひかりがくれた言葉〟だ」
陽だまりのように穏やかな声で紡がれた、優しい言葉。その温もりを心で感じた直後、なぜか鼻の奥がツンと痛んだ。
「だから、私はひかりに感謝するよ」
さらにそんな風に言われて、油断すれば泣いてしまいそうになった。
雨天様はきっと、私が泣いても受け止めてくれるだろうけれど、今は泣いてしまうのが勿体なく思えて、必死に笑みを携える。
「私ね、雨は嫌いじゃないよ。これもおばあちゃんのおかげなんだけど、おばあちゃんは雨が好きだったから、雨の日には喜んでるんじゃないかと思うんだ」
「そうか。それなら、私が降らせる雨も捨てたものではないな」
空を仰いだ双眸が、ゆっくりと緩められていく。
再び降り出したばかりだった雨は、そろそろやむ気配を漂わせているような気がした。
「コンたちが心配するから、そろそろ屋敷へ戻った方がよいな。続きは、また明日にでも案内してやろう」
「うん」
その予想は当たっていて、雨天様と一緒にお屋敷の玄関に戻る途中で傘は必要なくなった。
まだ太陽は見えそうにないけれど、閉じた傘の分以上に視界が晴れた――。
この日食べた栗羊羹は、とてもおいしかった。
これまでにここで食べたものは、甘味に限らずすべておいしかったから、最初からとても期待していたのだけれど、やっぱり想像以上の味だった。
棒状の羊羹を切ると、断面には惜しげもないほどの栗がひしめき合っていて、その黄金色に目を見張った。ツヤツヤの羊羹は口に入れるとプルンと舌の上を滑り、小豆と栗の優しい甘さを感じさせながら溶けるように崩れた。
栗は、しっかりとした存在感を放ちながらも、決して羊羹の邪魔はしない。
ギンくんいわく、食感まで考え尽くされているらしく、思わず大切に噛みしめるように味わってしまった。
「このお茶と、また合うんだよねぇ」
「お茶はコンが淹れたのですよ!」
栗羊羹ばかり褒めていた私が湯呑みを置くと、すかさずコンくんが満面の笑みになった。
二百歳を過ぎていても、こういう可愛らしいところはやっぱり子どものように見える。
「あの……ここにいる間、私にもなにかさせてほしいんだけど」
「ふむ。まぁそれもよかろう。だが、おもてなしをさせるわけにはいかないから、家事程度のことしか任せられないが……」
「うん。じゃあ、私が家事をするよ」
「では、コンに色々と教えてもらうとよい。コン、よろしく頼むぞ」
「もちろんでございます!」
雨天様の言葉に、コンくんが大きく頷いた。
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