お品書き 三 『栗羊羹』神様たちと過ごす日々【3】

「おかえり」


「ただいま帰りました!」


「ひかりも、おかえり」


「えっと……ただいま」


「コン、材料は台所へ。猪俣様はお元気だったか?」


「ええ、相変わらずでございました」



 お屋敷に着くと、雨天様が優しい笑みで出迎えてくれ、台所に向かいながらコンくんの話を楽しそうに聞いていた。

 その様子を見て、ますます不思議な気持ちになってしまう。



 コンくんいわく、実は雨天様と猪俣さんは会ったことはないのだとか。

 理由は、雨天様はお屋敷の敷地内から出られないし、猪俣さんはお屋敷の場所を知らないから……らしい。

 ここにはコンくんの声に呼ばれれば来ることができるとはいえ、簡単に足を踏み入れられる場所じゃないとは聞いている。

 そして、必ずしもコンくんの声が聞こえるわけじゃない、とも。



 ただ、猪俣さんに関して言えば、代々このお屋敷との縁があるのだし、なによりもコンくんの姿が見えるのだから、お屋敷に来られそうなものなのに。

 コンくんに尋ねてみたところ、それとここに入れるというのはまた別の問題らしい。

 なんだか納得できるようなできないような、なんとも言えない気持ちだったけれど……。用意されていたおいしい昼食を食べている間も、雨天様がコンくんに色々と訊いているところを見ると、そういうものなんだと納得するしかなかった。



「さて、ひかり。片付けが済んだら、今度は私が庭を案内しよう」


「え? いいの? 仕込みとかあるんじゃないの?」


「猪俣様への手土産の栗羊羹が、今宵の甘味なのだ。あとは冷やしておくだけだし、私もひかりと少し話がしたい」



 ニッコリと微笑まれて、その綺麗な瞳に吸い込まれそうになった。

 初めてお屋敷に来てから今日までの三日間は、怒涛の日々だったからあまり意識する余裕がなかったけれど、雨天様には人間離れした美しさがある。

 銀糸のような髪、涼しげなのに力強い切れ長の瞳、高い鼻。

 よく見れば右の瞳の下には小さな泣きぼくろがあって、それがまた雨天様の秀麗さを際立たせているような気がした。



「私では不服か?」


「ううん、全然! えっと……よろしくお願いします」


「ああ」



 私が頭を小さく下げると、雨天様が瞳をそっと緩めた。切れ長の双眸が柔らかな優しさを灯し、やっぱり吸い込まれてしまいそうな気持ちになる。



「でしたら、片付けは我々がいたしますので、おふたりはお庭へ」



 そんな私を余所にギンくんが笑顔で提案してくれ、私は片付けもさせてもらえないまま、雨天様に促されて……。雨天様を追って、玄関へと向かうことになった。



「ああ、ひかり。傘はいらないよ」


「でも、外は雨が……」


「だから、私の傘に入りなさい」



 雨天様は、玄関で自分の折り畳み傘を手にした私を制すると、立てかけてあった赤い和傘を持った。

 珍しいものを間近で見せられた私は、ついそれに見入ってしまう。



「蛇の目傘だ。柄は木棒で、こうして藤が巻いてある」


「触ってみてもいい?」


「ああ、持ってみるか? 少し重いが」


「うん、持ちたい」



 そっと渡された蛇の目傘を、どこか慎重な気持ちで受け取る。ずっしりとした重みがあるけれど、鮮やかな色に目を奪われた。

 蛇の目傘の赤い和紙には白い輪が施され、そこに沿うように梅の花が描かれている。内側に張られた糸は〝飾り糸〟というらしく、和傘の美しさに感嘆のため息が漏れてしまった。



「そんなに気に入ったのなら、それはひかりにあげよう」


「え? ううん、いいよ!」


「遠慮することはない。傘などまた手に入る」


「ううん。そうじゃなくてね、私の傘はおばあちゃんと選んだものだから、それを使いたいんだ」 



 私の答えに、雨天様は「そうか」とだけ言った。



 庭に出ると、見渡す限り新緑に覆われていた。あちこちにある木には、季節ごとに果実がたくさん実るのだとか。



「梅に桃、柿や栗の木もあるぞ」


「すごいね。ここにあるのって、全部果物の木なの?」


「いや、松や杉もある。庭はとても広く、人の足だと一日で回り切れる土地ではなくてな。その分、色々な木があるが、私も仕込みで忙しい時などは奥の方の手入れはコンに任せることも多い」


「へぇ。全部見てみたいな」


「……そうなる前に、ひかりはここが見えなくなる」



 控えめに落とされた雨天様の言葉に、一瞬だけ心臓が跳ね上がった。

 お屋敷にずっといられないということを忘れたわけじゃないけれど、気づけば居心地の良さを感じてしまっていたせいか、いつかここが見えなくなる時が来ることから目を背けそうになっていたのかもしれない。



「そんな顔をするな。ひかりがここにいる間に、できる限り案内してやろう」



 雨天様はそんな私の気持ちを察したのか、優しく言ってくれたけれど……。同時に、帰る場所を忘れてはいけないよ、とたしなめられたような気がした。



 私の居場所は、ここじゃない。

 どんなに居心地が良くても、それだけは決して忘れちゃいけない。

 ただ、本当にもとの場所に戻れるのだろうかと考えると、不安が大きくなっていく。

 だって、もしもとの場所に帰ったとしても、きっとここが見える限りは足が向いてしまうと思うから。



「ひかり。なにも心配することはない」


「え?」


「ひかりがここをきちんと去る時は、もう私たちのことは見えなくなっている。もとの居所……ひかりのあるべき場所に、必ず帰ることができる」



 自然と眉を下げて不安をあらわにしていた私に、雨天様は「そういうものなのだ」と微笑んだ。安心させようとしてくれていることは嬉しいのに、とても寂しい。



「見えなくなるのは嫌だけど……。ずっとここにいるわけにはいかないもんね。欲が深くなったらダメだもん……」


「コンから聞いたのか?」


「うん……」


「そうか。だが、あの者は、結果として幸せになり、天寿を全うしたのだ。だから、ひかりも幸せを掴めるさ」



 蛇の目傘を差したまま空を仰ぐ雨天様は、柔らかな表情をしていた。

 もうずっと昔のことを思い出しているのか、曇り空を見つめる横顔は懐かしさを滲ませている。



「雨天様は、ずっとここにいるのは嫌じゃないの?」



 その横顔を見つめていると、心で考えていただけだったはずの言葉が声になってしまっていた。

 しまった、と感じた時には、雨天様が私の方に向き直っていた。

 傘の分だけ距離がある私たちの間に、さっきまでとは違った重い沈黙が広がっていった。



「先代のことは聞いたのか?」


「少しだけ……」


「そうか。それなら、少し昔話でもしようか」



 雨天様は視線で私を促し、再びどこかへ向かって歩き始めた。赤い蛇の目傘を追うように、その背中についていく。



「私は昔、神使だった」


「え?」


「私はもともと、ここの神ではなかったのだよ」



 ここの神様じゃなくて、神使だった。

 その事実に驚く反面、先代がいたということは〝そういうことなのかもしれない〟とも思った。



「先代は、ある日どこからかやって来た私に甘味を出し、今の私たちのようにもてなしてくれた。だが、私にはあるべき場所がなかったようで、帰ることはできなかった」



 雨天様は、それまでの記憶が曖昧な部分があり、自身が誰に仕えていたのか今も思い出せない、ということを話したあとで、寂しげに笑みを落とした。



「行く宛のない私に、先代は『ちょうど神使が欲しかった』と言い、自分に仕えないかと訊いてきた。先代は、この地域に雨を降らせる神様だったのだが、私は信頼できない者に仕える気はなかった」


「じゃあ、一度は出て行ったの?」



 私の問いかけに、雨天様は「いや」と苦笑した。



「先代は随分と人が好い……と言うと語弊があるのだが、まぁとにかく懐が広かった。神使になることを拒んだ私を、なんの見返りもなく置いてくれたのだ」



 その時から、先代と雨天様の生活が始まった。



「最初はあまり仲良くはなかったが……」と苦笑した雨天様は、次第に少しずつ会話をするようになり、気づけばこのお屋敷で仕事をするようになっていたことを、懐かしそうに語っていた。



「そうして、私がここへ来てから二百年余りが過ぎた頃、私はとうとう先代の神使になるという契約を交わしたのだが……」



 そこで言葉を詰まらせるように瞳を伏せられ、私は思わずその顔を覗き込んだ。

 だけど、さっきよりもずっと寂しそうな双眸に捕らえられ、なにも言えなかった。



「先代の力は、その頃には随分と弱くなっていたのだ……。長い間ここをひとりで守っていた先代は、自身の力が弱まっていくことも厭わずにやって来る者たちをもてなし続けていたせいで、もうここを守るだけの力は残っていなかった」


「そんな……」


「ある意味、優し過ぎたのだろうな。私がそのことに気づいた時には、先代はもう私にすべてを任せるつもりでいたようだ」


「雨天様は、それを受け入れたの?」


「……そうするほか、なかったのだよ」



 答えをわかっていたような気がする疑問に対し、予想通りの言葉が返ってきた。

 まるで、昨日負った傷を見せるかのような、とても悲しそうな面持ちとともに……。



「納得したわけではなかったが、そう時間がないこともわかっていた。なにより、ただの神使である私に先代が消えてしまうことを止める力がないのは重々わかっていたからこそ、せめて恩義のある先代の想いを自分自身で引き継ぎたいと思ったのだ」


「でも……神様のお役目を引き継ぐなんて、そんなに簡単なことじゃないよね?」


「ああ、その通りだ。ただ店を継ぐのとは、わけが違うからな。神様の代わりなど、本来なら神使に務まるわけがない。だが、先代はあろうことか私と出会ってすぐに、ここを私に託すことを決めていたらしい」


「え?」


「先代の甘味を作る技術を覚えていった私は、知らぬ間にここを守るための力も分け与えられていた。私がここに来てから先代が消えてしまうまでの、二百五十年という月日を掛けてな」



 長い長い年月を掛け、先代は雨天様にこのお屋敷を託した。

 雨天様には、決して気づかれないように。



「先代は、消える前にとても楽しそうに笑っていた。『ずっとひとりだったが、お前が来てから毎日がとても楽しくて幸せだった』と。そう言われても、先代が消えたことをそう簡単に受け入れられなかったが……こちらがどれだけ悲しみに暮れていても、お客様は待ってはくれないからな」



 雨天様は、おもむろに空を仰いだあとで私を見つめた。

 とても優しく穏やかな表情で、けれど同じくらい寂しそうに。



「私が雨を降らせる理由は聞いたか?」



 首を横に振ると、雨天様は手を伸ばし、手のひらで雨粒を受けた。それから、そっと微笑んだ。


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