お品書き 三 『栗羊羹』神様たちと過ごす日々【2】
荷物を準備して再びおばあちゃんの家を後にし、橋場町とは反対側に行くバスに乗った。
これから買い出しに行くようで、今度は私が同行することになった。
「さっきの話なんだけど」
「はい」
「神様とは長く話さない方がいい理由、訊いてもいいかな?」
「ああ、そうですよね。あんな言い方をすれば、ひかり様はご不安ですよね」
「申し訳ございません」と、コンくんがシュンとしたから慌てて首を横に振る。
ただ、周囲の人には聞こえないように、声をひそめることは意識した。
「不安とかじゃないよ! コンくんたちが守ってくれるって言ってくれたし、それは信じてるから。でも、ちょっと気になっちゃって……」
「ひかり様……」
感動したように私の荷物をギュッと抱きしめたコンくんの瞳は、子どもみたいに純粋で可愛らしい。
うんと年上なのはわかっているけれど、母性本能がくすぐられるような気がした。
「えっとですね、話すと言うよりも、関わると言う方が正しいのですが……。別に、必ずしも関わり過ぎてはいけない、ということではないのです。ただ、関わり過ぎることで依存してしまうことがありますので、我々にはそうならないようにする義務があるのです」
わかるような、わからないような……。そんな気持ちでいると、コンくんが微笑を零した。
「雨天様も私たちも、神頼みがいけないとは思っておりません。頼っていただければ嬉しいですし、私は神使としてできることをしたいとも思っております。ですが、欲とは際限がないもので、ふとした拍子に深くなっていくのです」
真面目な面持ちをしたコンくんは、不意に眉を下げた。
少しして、おもむろに「これは昔話なのですが」と口にし、悲しげな笑みを浮かべた。
「私が初めて人間のお客様をおもてなしした時、その者はすぐにあるべき場所に帰ることができませんでした」
ゆらゆら揺られる小さな体は、震えているようにも見える。
「妻を亡くした心根の優しい男性で、私は神使になってから人と接するのが初めてだったので、些細なことにも『ありがとう』と言っていただけるだけでとても嬉しくなって、雨天様の言いつけも守らずに四六時中その者と一緒に過ごすようになりました」
なにかをこらえるような横顔は、傷ついていることを隠しているみたいだった。
「最初は、お互いにとてもよい関係を築けていたと思います。けれど、その者は次第に要求を増やしていき、私の手に負えなくなってしまいました……」
「え……」
「お世話係になって浮かれていた私が、雨天様の言いつけを守らずにいたせいで、その者は我々の力で幸せになることを望むようになったのです」
過去に想いを馳せる瞳は、涙をこらえているようにしか見えない。
ただ、それを溢れさせまいと思っていることくらいはわかるから、私は少しだけコンくんから視線を逸らすことにした。
コンくんは、そんな私の気持ちを察するようにそっと微笑んだ。
「我々ができるのは、あくまで傷を癒やすお手伝いまでなのです。それなのに、私の判断が間違っていたために、その者の欲が深まって……。悲しいことに、自らの手で努力をすることを諦めてしまったのです」
膝で抱えている私の荷物をギュッと握り、瞳を伏せる。そんなコンくんの気持ちをすべて理解できるわけじゃないのに、私まで心が痛む。
「居心地が良過ぎるというのもいけないのだと、あの時に学びました……」
「そっか……」
「結局、屋敷に留まらせることはできず、傷を癒やせないまま忘却の術をかけることになったのです」
「……その人って、どうなったの?」
「屋敷でのことを忘れたおかげでしょう。自身の手で努力をして、妻の忘れ形見であるふたりの可愛い子どもを守り、天寿を全ういたしました」
ためらいながらも尋ねると、コンくんは予想に反して微笑んだ。
それは、表情も答えも悲しいものなんかじゃなかった。
「まぁ……悲しいことに、最後まで傷を抱えたままでしたが、雨天様は『これでよかったのだ』とおっしゃっていました。きっと、私を慰めてくださっただけなのだと思いますが……」
「そんなことないと思うよ」
「え?」
自嘲気味に付け足された最後の言葉を否定すれば、コンくんが不思議そうに小首を傾げた。
無言のコンくんが続きを待っているのは一目瞭然で、私は瞳を緩めて再び口を開いた。
「大切な人を亡くした痛みなら、私もわかるつもりだから、その人はきっと悲しみを忘れることはできなかったとは思う。でも、傷ついたからこそ、〝同じ大切な人〟を失った子どもたちを守り抜けたんじゃないかな」
「ひかり様……」
「……なんて言っても、私はまだ全然立ち直れそうにないし、私にはよくわからないんだけど……。でも、雨天様はきっと、慰めるためだけにそんなことは言わない気がするんだよね」
雨天様はとても優しいけれど、嘘で慰めるようなやり方はしないと思う。雨天様のことはまだあまり知らないのに、不思議と確信めいたものすらあった。
「確かに、雨天様はとてもお優しいですが、とてもお厳しい方ですので、ひかり様のおっしゃる通りかもしれません」
「雨天様って、厳しいの?」
「ええ、とても。なんでも、雨天様ご自身も先代に厳しくされたようで、お客様のおもてなしと料理については特にお厳しいですよ」
「そうなんだ」
「今朝はギンがお味噌汁を作りましたが、雨天様があんな風にギンをお褒めになるところは滅多に見ることができません。特に、料理はおもてなし用の甘味にも繋がりますから。料理を担当するギンは、おもてなしの分野においては私以上に褒められることが少ないかもしれません。本当は、私よりもギンの方が優秀なのに……」
そこで言葉を止めたコンくんに続きを促したかったけれど、安易に踏み込んではいけないような気がする。
そして、それが正しいと言わんばかりに、雨の中を走るバスがちょうど目的の停留所に着いた。
バス停からどんどん路地に入って行き、十五分ほど歩いて着いたのは、古い日本家屋風の建物の前だった。
建物の前で丁寧に一礼をしたコンくんは、「ごめんくださいませ」と言ってから、古びた格子造りのドアを開けた。
「おや、コンじゃないか。いらっしゃい」
「こんにちは、
「今日はデートかい?」
「いえ、こちらの方はうちのお客様なのですが……」
「なんだ、成仏できなかった奴か」
「猪俣様、ひかり様は人間です。それに、何度も言っておりますが、成仏ではなく〝あるべき場所にお帰りになられる〟のです」
「冗談だよ、まったく。コンは、相変わらず冗談が通じないな」
真っ白の髪を撫でた男性は、七十歳を過ぎていそうだけれど、とても元気だし、笑い方も豪快だった。
ふたりのやり取りに呆気に取られそうになっていた私に、不意に皺塗れの手が差し出された。
「猪俣だ。コンは、うちのお得意さんでね。ひかりちゃんって言ったかい? よろしく」
「あ、はい。
その手を握って頭を下げると、「そんなに丁寧に挨拶してくれなくても構わないよ」と笑われてしまった。
程なくして、コンくんは猪俣さんに小豆と金箔を用意してもらい、それを受け取ったあとでずっと背負っていた風呂敷を下ろした。
「ご注文の栗羊羹です」
コンくんの言葉とともに風呂敷が開かれ、中からは笹の葉のようなものに包まれた棒状のものが出てきた。
「おお、これこれ。これが食いたかったんだ」
「今日のものは自信作だ、とのご伝言です」
「お前んとこのご主人様は、いつも自信作だって言うだろう」
ふたりのやり取りに違和感を覚えたのは、猪俣さんがコンくんだけじゃなく、雨天様のことまで知っているような口ぶりだったから。
むしろ、さっきの〝成仏〟のくだりを含め、事情を知っているとしか思えない。
「あの、猪俣さんって何者なんですか?」
「なんだ、コン。説明してないのか」
「ええ、まぁ。ひかり様が再訪されたのは昨日だったもので。それに、ここに来るまでは他のことを話していましたし」
「なるほどな」
猪俣さんは苦笑すると、私を見て優しく笑った。
「俺は、元神主なんだ。といっても、無名の小さな神社で、代々身内でひっそり守っているだけなんだが……。で、なんの因果か、うちの一族は代々視えやすい方らしくてね」
「……視えやすい?」
「いわゆる、幽霊や神様の類だよ。まぁなんでも視えるわけじゃないし、視えても関われるとも限らない。だが、コンのことは俺が子どもの頃から知っているんだ」
「コンが百三十歳くらいの頃、猪俣様がお生まれになりました」
コンくんが補足すると、猪俣さんがフッと口元を緩めた。
「なんでも、こいつのとこの先代がうちの遠いご先祖様と縁があったらしくてな。その縁で、今もこうして付き合いがあるんだ」
「猪俣家には代々、甘味をお持ちする代わりに、我々で手に入れにくい材料をご用意していただいているのです」
「神様が作った甘味なんて、なかなか洒落てるよなぁ。しかも、雨天様のお茶屋敷の甘味は抜群にうまい。縁を繋いでくれたうちのご先祖様には、感謝してるよ」
説明してくれる猪俣さんとコンくんを交互に見ていると、猪俣さんは「他人には食べさせてやれないのが残念だけどな」と眉を下げた。
意味がわからずにいると、コンくんが微笑んだ。
「雨天様の甘味は、本来は屋敷に訪れた者だけが口にできる特別なものなのです。先代と猪俣家の契約により、猪俣家は特別なのですが、〝猪俣家以外の者には食べさせない〟というのも契約のひとつなのです」
「じゃあ、お裾分けとかはできないってことなんだ」
「ええ。これはあくまで、猪俣家へのお礼であり、他の者のために作ったものではありませんから」
「まぁ、そういうことだな」
そこでこの話は終わってしまったけれど、雨天様の甘味を口にできる条件は厳しいみたい。
だとしたら、二度も食べることができた私は、自分が思っている以上に幸運だったのかもしれない、なんて考えていた――。
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