お品書き 三 『栗羊羹』神様たちと過ごす日々【1】
どこからともなく漂ってくる、出汁の匂い。
鼻先をくすぐるそれは、どこか温かくて懐かしく、おばあちゃんのお味噌汁を思い出した。
おばちゃんのお味噌汁はいつも、とても優しい味がした。
丁寧に出汁を取り、自家製の味噌で味付けされていて、たとえば具材がなくても何杯も飲みたくなるくらい好きだった。
(また、飲みたいな……)
そんなことをぼんやりと考えながら瞼を開けた先にあったのは、見知らぬ天井。自分がどこにいるのかわからなくて慌てて体を起こした直後、昨夜のことを思い出した。
(あ、そっか……。雨天様のお屋敷でお世話になることにしたんだった)
壁にかけられた古時計が差している時刻は、七時四十分。
朝食は八時だと聞いていたから、ひとまずコンくんが用意してくれた朝顔が描かれた浴衣を整え、髪を軽く手櫛で梳いてから部屋を出た。
廊下はしんとしていて、一瞬誰の気配もないような気がしたけれど……。すぐに出汁の匂いが強くなったことに気づき、どこか安堵感にも似たものを感じていた。
私が借りた二十畳ほどの部屋と客間の中間に台所があることは、昨夜コンくんから教えてもらった。
すりガラスの扉が閉まっていたから台所の中までは確認できなかったものの、いい香りのもとを辿るように足を進めていく。
「……おはようございます」
「ああ、ひかり。おはよう」
「ひかり様、おはようございます」
台所の扉をそっと開けてみると、朝食の支度をしているらしい雨天様とギンくんが笑顔で迎えてくれた。
雨天様に「よく眠れたか?」と尋ねられ、笑みを浮かべて頷く。
「ちょうどよい頃合いだ。そろそろ朝食ができるから、コンに声をかけさせようと思っていたところだったのだ」
「あ、ごめんなさい」
よく考えれば、朝食の時間に客間に行くのは図々しいことだ。
客人扱いをしてもらえているとはいっても、私はここでお世話になる身なんだから。
「なにか手伝います」
「構わぬ、もう出来上がる頃だ。先に客間に行きなさい」
私の申し出は呆気なく断られてしまい、その気になった心だけが置いてきぼりにされてしまうような気持ちになった。
そのせいですぐに頷けなかった私に、雨天様がふっと瞳を緩めた。
「では、そこの土鍋を持っていってくれ。熱いから、鍋掴みを使いなさい」
土鍋の傍にはしゃもじが置いてあり、どうやらそれでご飯を炊いたようだった。
「土鍋でご飯を炊いたの?」
「ここには、炊飯器なんて便利な物はありませぬ。でも、味は格別ですよ」
私の疑問の先まで読み取ってくれたギンくんが、ニッコリと笑った。
コンくんとギンくんは、性格はあまり似ていないような気がするけれど、外見は双子だけあってそっくりで、特に笑顔は一瞬見分けられなくなりそうなほど瓜ふたつだった。
「それをお持ちいただければ、客間で支度をしているコンが説明すると思います」
出汁の香りが充満している中、土鍋の傍に立つと炊きたてのご飯特有の匂いがした。
お腹が刺激され、今にも鳴ってしまいそう。
そういえば、おばあちゃんも時々、土鍋を使ってご飯を炊いてくれたことがあった。確かに、ああいう時のご飯はいつも以上においしかったような記憶がある。
「私たちもすぐに行くから頼む」
「うん」
雨天様の言葉に、子どものお使いよろしく張り切った。
とはいえ、ただ土鍋を運ぶだけだから、その意気のやり場がないことにこのあとすぐに気づくのだけれど。
「あっ! ひかり様、おはようございます。配膳など、私がいたしますのに……」
その上、客間に行くとコンくんからは、慌てて制されてしまい、苦笑するしかなかった。
「では、いただこうか」
みんなで手を合わせて『いただきます』と言うのが、ここのルールらしい。
雨天様の声に倣って、コンくんとギンくんとともに私の声が重なった。
朝食のメニューは、炊きたてのご飯にお味噌汁、だし巻き卵や焼き鮭、さらには海苔まで用意されている。日本の定番の朝ご飯そのもので、なんだか懐かしさを覚えた。
「おいしい……」
出汁がしっかり効いたお味噌汁は優しい味で、おばあちゃんが作ってくれたものとよく似ている。
私にとって慣れ親しんだ懐かしい味はおばあちゃんの作ってくれたお味噌汁だけれど、お椀から漂う香りを感じながら再び口をつけると、やっぱり懐かしいような気持ちになった。
「たくさん食べるがよい。しっかり食べなければ、力も出ないだろう」
「雨天様、コンはもうご飯をおかわりしましたよ!」
私の言葉に笑みを零した雨天様に笑顔でお礼を言うと、コンくんはどこか自慢げに白い歯を覗かせ、山盛りのご飯をよそったお茶碗を見せた。
私は目を丸くし、ギンくんは呆れたように横目でコンくんを見て、雨天様は眉を寄せて微笑む。
「コン、お前はもう少し落ち着いて食べなさい」
「しっかり噛んで食べておりますよ! でも、雨天様のお味噌汁がおいしくて、箸が進むのです」
すると、コンくんの答えに雨天様が目を細めた。
「よかったな、ギン」
「え?」
コンくんと私が声を重ねると、雨天様がどこか照れ臭そうにしているギンくんを見てから口を開いた。
「今朝のお味噌汁は、ギンが作ったのだ。出汁も上手く取れているだろう」
「ええっ! それはまったく気がつきませんでした!」
「ほらな、ギン。私の言う通りだっただろう。コンが間違えるくらい、お前の腕は上がったのだよ」
優しく瞳を緩める雨天様は、とても嬉しそうだった。
それは「ありがとうございます」と小さく言ったギンくんも同じで、照れ臭そうにしながらも笑顔を隠せていない。
「うぅっ……不覚にございます……。このコンが、雨天様とギンのお料理の味を間違えるなど……!」
「それだけギンが頑張ったということだ。それに、コンは今日まで一度も間違えたことはなかろう。私は、コンの舌を信頼しているよ」
「雨天様……!」
落ち込んだ様子だったコンくんは、雨天様の言葉ですぐに満面の笑みになった。
三人とも、それぞれに喜びを感じているのがよくわかって、私まで心が弾んだ。
久しぶりの賑やかな朝食は、子どもの頃におばあちゃん家で過ごした日々の思い出の中にいるようで、なんだか楽しかった。
それなのに、心の片隅では少しの切なさを感じていた――。
朝食のあと、コンくんにお屋敷の中を案内してもらった。
片付けを手伝おうとしたら、雨天様にお屋敷の中を見るように言われたから、申し訳なさを抱きながらも言われるがままコンくんについていった。
お風呂や台所はすでに足を踏み入れていたけれど、コンくんは道案内をするかのように一室ずつ回ってくれた。
廊下を始め、部屋はどこもすべて広くて、まさに〝お屋敷〟という言葉がぴったりだと思った。お客様を迎えた客間とは別にもう一室ある客間が、私が借りた部屋で、ずっと使っていなかったみたい。
今朝は、お客様を迎える客間で朝食を食べたけれど、いつもは居間で食事を摂るのだとか。
「今朝は、きちんとご案内していませんでしたので客間にお呼びしましたが、今日の昼食からはこちらにお越しくださいね」
「うん、わかった。それにしても、どの部屋もすごく広いね」
おばあちゃん家は古かったけれど、おじいちゃんの親がちょっとしたお金持ちだったらしくて、親戚が揃って遊びに来ても充分な部屋があった。
だけど、このお屋敷とは比べ物にならない。
「ねぇ、全部で何部屋あるの?」
「風呂場や納戸を除き、十二にございます」
「十二……」
聞いた答えにポカンとしていると、私の歩幅に合わせながら前を歩いていたコンくんが足を止めた。
お屋敷の最奥に当たる場所に着いたのだと、すぐにわかった。
「雨天様のお部屋は、一番奥のこちらです。雨天様がいらっしゃらないので中はお見せできませんが、雨天様のお部屋以外であれば屋敷内は自由に行き来していただいても構いません」
「お屋敷内だけなの?」
「お庭もあとでご案内するように言われるとは思いますが、屋敷内とは比べ物にならないほどに広く、迷えば自力では戻れなくなります」
「わ、わかった……」
穏やかじゃない話に喉をゴクリと鳴らしてしまうと、コンくんがニッコリと笑った。
そのまま私を見上げ、「大丈夫ですよ」と優しく言ってくれた。
「お家にお帰りになりたい時同様、お庭にご用があればお供いたします。それ以外にもなにかお困りの時などは、遠慮なくコンとギンをお呼びくださいませ」
「えっと、部屋に声を掛けに行ってもいいってこと?」
「それはもちろんでございますが、お互いがこの屋敷にいる時であればその場で名前を呼んでいただくだけで構いません。我々には、ひかり様のお声が聞こえますから」
神様や神使がなんでもできるわけじゃないというのはわかっているけれど、なんだかんだで便利そうだなとは思う。
頷きながらそんなことを考えていると、コンくんが「次の予定をこなしましょう」と口にした。
小首を傾げた私は、家に荷物を取りに行くことを告げられ、急いで最低限の身支度だけを整えた。
そして、今夜のお客様を迎えるために下拵えをしている雨天様とギンくんに声を掛け、コンくんと一緒にお屋敷を出た。
コンくんは意外にも、着物ではなくTシャツとズボンに着替えていた。
着物姿の子どもは目立つから、という理由であることを、バスを降りてから教えてくれた。
「人間の姿だと子どもにしか見えないので、着物で行動しているとどうしても目立ってしまうのです」
観光地だけあって浴衣を着ている観光客はわりと多いけれど、確かに和装の子どもなんて目立つに決まっている。
その上、こんな口調の子どもが買い出しに来れば、〝普通じゃない〟と思う人もいるかもしれない。
「買い出しの時には人の目にも映るようにいたしますが、我々はあまり目立ってはいけません。本来は、人と長く話すことも避ける方がよいのです」
「それってやっぱり、神様や神使だから?」
「そうとも言えますし、そうじゃないとも言えます」
「どういう意味?」
「本来、神様や神使というのはあちこちにいるものなのです。普段は見ようとはしないし、見えるとも思わないので、見ることができないだけなのです」
「じゃあ、見たいと思えば見えるってこと?」
「残念ながら、そういうわけでもありません。見るということに関して言えば、まぁチラリと視界の端に映る程度のことであればわりと誰でも経験したことがあるかもしれませんが……。そもそも、その姿を神様や神使だと思うことがないのです」
コンくんは、なんでも教えてくれるのだろうか。
さっきから全部答えてくれているのはありがたいけれど、こんなにも訊いてしまってもいいのかと心配になる。
「どうかされましたか?」
「あ、えっと……こんなに色々訊いてるけどいいのかな、って」
「大丈夫です。答えられないことは言いませんから」
子どもの姿をしていても、コンくんはやっぱり二百年も生きているというだけある。
ごく普通にニコニコと笑って、私の戸惑いを当たり前のように跳ねのけた。
「さきほどの話に戻しますが、人はそもそも、大半の者が歳を重ねるごとに目に見えないものを信じなくなります。神使が言うのもおかしな話ですが、神様や神使、妖精や妖などの類もそうですね」
そういえば、幼い頃は神様も魔法も信じていた。
オバケは苦手だったけれど、妖精やサンタクロースと同じように、根拠もなく〝いる〟と思っていた。
神様に至っては、雨天様と出会う前であっても、時々都合よくお願いしたりもした。
普段は特に信仰深いわけでもお参りに行くわけでもないのに、ここぞという時に〝神頼み〟をした覚えは何度かある。
「ですから、見ようと思っても潜在意識では〝いないにもの〟という気持ちがありますので、見えないことがほとんどなのですよ。こちらとしては、神様や神使といってもなんでも屋ではありませんので、都合よく自身の欲望のために会いたいとか見たいと思われても困るのですが……」
痛いところを突かれたような気がして、苦笑いしかできない。だけど、ちょうどおばあちゃん家の前に着いたから、流れでこの話は終わった。
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