お品書き 二 『どら焼き』居場所を失くした者【3】
温かいほうじ茶とともに並べられたのは、ふんわりとしたフォルムのどら焼き。
さっき私をここに誘ってくれた香りの正体がこれだったのだと気づくまで、そう時間は掛からなかった。
昨夜のあんみつに使用したものと同じ小豆を時間を掛けて炊き、丁寧に焼き上げた生地に挟んだものに、栗がひとつ入っているのだとか。
焼きたてじゃないのに、鼻腔をくすぐる香りに誘惑されたお腹の虫が反応してしまいそう。
「さぁ、まずはいただきましょう」
ギンくんの声に、みんなが頷く。
手を合わせた雨天様に続いて、コンくんとギンくんも両手を合わせたから、私もそれに倣うようにした。
「いただきます」
雨天様の声を機に、それぞれが同じ言葉を紡ぐ。
真っ先にどら焼きにかぶりついたのはコンくんで、ギンくんはお行儀よくひと口頬張り、雨天様はなにやら出来栄えを観察しているみたい。
そんな三人を横目に、期待値が高まり切った私もどら焼きを口に運んだ。
柔らかな感触が歯に当たり、生地をそっと噛み切れば、しっとりとしたあんこの味が口いっぱいに広がっていく。
「おいしい!」
昨夜とまったく同じ感想しか言えなかったけれど、それが一番端的で的確な言葉だったはず。笑顔の私を、三人は微笑ましそうに見てきた。
「ひかりは、本当においしそうに食べるな」
「だって、本当においしいんだもん」
雨天様に笑顔を返し、ふた口目、三口目……と、優しい甘さを身に纏ったどら焼きを堪能する。
栗が入っているところはあんことの相性が抜群で、このペースならあっという間に完食してしまいそう。
「雨天様のどら焼きも、あんみつに負けず劣らず絶品なのですよ」
「私はこれが大好物なのです! 雨天様、おかわりしてもよいですか?」
「好きなだけ食べるがよい」
おかわりを許してもらえたコンくんは、テーブルの真ん中に置いてあったお皿から両手にどら焼きを取り、ふたつを交互に食べ進めた。
大好物なのはよくわかるけれど、それにしても息継ぎも忘れるかのような勢いで食べる姿はなかなか衝撃的だった。
「ひかりも遠慮せずに食べてよいぞ」
「あ、うん。じゃあ、もうひとついただきます」
コンくんほどじゃないけれど、早々に完食した私もおかわりをもらうことにする。
ふたつ目もまったく飽きることなく口に運び、結局あっという間に食べ切ってしまった。
雨天様とギンくんがふたつ目を食べ終える頃、コンくんは五個目のどら焼きを完食し、満足そうに「満腹です」と笑っていた。
私は、口腔に残っていた甘味をほうじ茶で中和させながら、コンくんの姿に笑みを零していた。
「さて、どうしたものか」
「そうですねぇ」
「はい! コンに提案がございます!」
悩ましげに切り出した雨天様と、同じような顔で声を漏らしたギンくんに反し、コンくんの声音はやけに明るかった。
雨天様は、「なんだ、コン」と落ち着いた口調で尋ねた。
「ひかり様には、しばらくこちらにいていただくのはいかがでしょう?」
「は?」
「コン、それはいけませぬ」
コンくんの提案に、首を傾げた雨天様を見て、ギンくんがすかさずたしなめる。すると、コンくんは不満げにギンくんを見た。
「でも、ギンも見たでしょう? 私はきちんと記憶を消したはずなのに、術は効かなかった。忘却の術は、同じ者に何度も使えません。その上、この術は私しか使えないじゃありませんか」
「でも……」
「ひかり様がここを見える間にひとりにする方が、よほど危険です。だったらいっそ、我々で守って差し上げればよいのです。そのうちにひかり様の心も癒え、我々のことも見えなくなるでしょう」
お調子者っぽいと思っていたコンくんは、意外にもとてもしっかりしているようで、ふたりはコンくんの話に耳を傾けていた。
なんとなく選択権がないというのを悟った私は、あまり穏やかじゃなさそうな単語が出たことにわずかな不安を覚えながらも、状況を見守ることに徹する。
「確かに、一理あるな。ところで、ひかり。お前はいつ、この屋敷のことを思い出した?」
「え? えっと……朝ご飯がなにもなくて、仕方なく戸棚に入ってたあんみつを食べてた時に、なんとなく……?」
しどろもどろに話す声が尻すぼみになったのは、少しだけ自信がなかったから。
昨夜の記憶が鮮明になるほどに、それを思い出した経緯が不透明になってしまったような奇妙な感じがする。
「覚えている範囲でよいから、話してはくれないか」
「あ、うん」
雨天様の言葉に、コンくんとギンくんも私を真っ直ぐ見つめてきた。
こんな風に三人の視線を浴びるのは何度目だろう、と考えながらも今朝からのことを話していくと、意外にも上手く思い出せていったような気がする。
「……うん、こんな感じかな。あとは覚えてないだけかもしれないけど、これで全部話したと思う」
説明が終わったことを伝えると、雨天様は何度か小さく頷いたあと、「傷が癒えなかったか」と苦笑を漏らした。
小首を傾げた私に、「コン」と声を掛けられたコンくんが「はい」と背筋を伸ばした。
「ひかり様、我々のことやここに辿り着いたいきさつは昨夜お聞きになりましたね。覚えていますか?」
「うん。コンくんの声に呼ばれて、雨天様が見えたから……」
昨夜の記憶を確認してきたコンくんは、「そうです」と笑った。
「ひかり様に私の声が届いたのは、ひかり様が深く傷ついておられたからなのです。私の声が魂に届きやすい状態というのがあるのですが、それは総じて心に深い傷を負っている時なのでございます。……お心当たりはおありでしょう」
疑問形ではなく、断言にも似た言い方に、小さく頷く。
心当たりはひとつしかなくて、それが答えだというのはわかっていた。
「おばあ様を失い、この辺りを彷徨っていたひかり様を見つけたのは私でございます。この時にはまだ、私の声が聞こえるかどうかはわかりませんでした。しかし、ひかり様は私の声を聞き、雨天様に会い、この屋敷に足を踏み入れられた」
「うん……」
「そうしてここにやって来た方を我々はお客様としてもてなし、甘味を味わっていただくひとときでお客様の傷ついた心を癒やし、お帰りになっていただきます」
「でも、私……昨日はどうやって帰ったのか覚えてないんだけど……」
「はい、そうでなければ困るのです」
「どういうこと?」
「心の傷が癒えた者は、必ずここで眠ってしまいます。そして、普通ならそのままお客様が本来あるべき場所に自力で帰られるのですが、人間だけはそうはいかないのです」
「うん? 人間だけは?」
「ああ、それについてはまたあとでご説明いたしますので、先にひかり様のことをお話してもよろしいですか?」
コンくんが眉を下げて微笑んだから、私は慌てて「うん」と返事をした。
「ひかり様をご自宅にお送りしたのは、私とギンです。本来は自力でお帰りになられるのが普通なのですが、人間だけは我々がお送りすることになっています。そして、きちんと送り届けたあと、ここでの記憶を消す術をかけるのです」
「だから、すぐに思い出せなかったってことなんだよね?」
「いえ、本来なら二度と思い出すことはないはずなのです。現に、八十年前に現れた人間は、この世を去るまで術にかかったままにございました」
「でも、私は思い出したよ?」
「正直、その理由は我々にもわからないのです。術は確かにかかっておりましたし、ギンとともにそれは確認しております。雨天様も術の形跡を見つけられたようですので、確かにかかっていたはずなのです。しかし……」
「ひかりは、再びここに来てしまった」
コンくんがためらったのを見計らうように、雨天様が口を挟んだ。
ギンくんは黙ったまま、私を見つめている。
「人間がここに来た場合、記憶を消してしまうのは再びここを訪れないようにするためなのだ」
「えっと、それってここには一度しか来ちゃいけないってこと?」
「一度しか、というわけではないが、決して何度も足を踏み入れてもよいような場所ではないな」
「ここが神様の家だから?」
「それもある。だが、もっと別の理由の方が強い」
雨天様は困り顔で微笑し、「百聞は一見に如かずか」とひとり言のように零した。
「もうすぐここにお客様がやって来る。この世の者ではない、まったく別の命だ。ひかりはここにいてよいが、決してその客に触れてはならない。わかったか?」
「は、はい……」
あまりに真剣な面持ちを向けられて、思わず喉をゴクリと鳴らして敬語で返事をしていた。すると、雨天様は瞳をそっと緩めた。
「触れさえしなければ、なにも危険なことはない。ただ、お前はお客様がお帰りになるまで私の隣にいなさい」
「……わかった」
「いい子だ。では、こちらにおいで」
言われるがまま立ち上がって雨天様のもとに行くと、雨天様は指先で私の額にそっと触れ、よくわからない言葉を囁いた。
一瞬だけ光ったような気がしたけれど、その光はすぐに消え、代わりに額がほんのりと温かくなった。
「では、コン。ひかりを頼む」
「かしこまりました」
「え?」
「心配することはない。お客様に出す甘味を用意したら、すぐにここに戻ってくる。それまで、コンの言う通りにしておれ」
「大丈夫ですよ、ひかり様。雨天様がお戻りになられるまで、コンがお傍におりますゆえ。それに、ひかり様は雨天様に守られておりますから、なんの心配もございません」
不安をあらわにした表情で雨天様を見た私に、雨天様とコンくんが笑顔を向けてくれる。ギンくんも、優しい面持ちで頷いていた。
「ひかり様の額にかけられたのは、雨天様の術にございます。簡単に言えば、悪いものを寄せつけない結界のようなものです。雨天様がお傍にいない時は、雨天様の力がひかり様をお守りしてくださいます」
雨天様とギンくんがいなくなったあと、コンくんはそんな説明をしたあとで、「では見ていてくださいね」と口にした。ニッコリと笑みを向けられて、自然と頷いてしまう。
「きまっし……いっぺんきまっし」
優しい声音でそんな風に言い出したコンくんは、同じような言葉を何度か繰り返した。
そのセリフは、私も耳にしたものだった。
「さて、今宵のお客様がいらっしゃいますよ」
今宵とは言われたけれど、外はまだ明るい。
この部屋に時計はないから正確な時間はわからないけれど、せいぜい十五時といったところだろう。
「ねぇ、〝きまっし〟ってどういう意味?」
「金沢の方言で、『ここに来なさい』というような意味でございます」
「じゃあ、あの言い方だと、〝一回ここに来なさい〟って感じ?」
「心に傷を負った方に話しかけていますので、『一度ここに来てごらんなさい』という風に伝わればいいなと思っております。ひかり様に声を掛けた時は『たぁた』とも言いましたが、そちらは『お嬢さん』という意味です」
コンくんは、丁寧に答えてくれた。
その対応につられるように、私の疑問はどんどん湧いてくる。
「毎回声の掛け方は違うの?」
「いえ、『いっぺんきまっし』が基本にございます。ひかり様に『たぁた』と言ったのは、その方が聞こえやすいかと思ったからでございます。私は、ひかり様にお会いしてみたかったので」
「え?」
首を傾げると、コンくんはなにかを察知したようにハッとして、玄関の方に視線を遣った。それから、「申し訳ございません」と眉を下げた。
「もう少しお話したかったのですが、お客様が屋敷の門を開かれたようですので、私は玄関までお迎えに上がります。ひかり様は、ここにいてくださいね。絶対にこの部屋から出てはいけませんよ」
「うん、わかった。あ、またあとで色々教えてくれる?」
「もちろんでございます」
コンくんはニッコリと笑うと、急いで部屋から出ていった。
「……ひとりぼっちって、ちょっと心細いかも」
ひとりになった部屋はやけに静かで、危険だなんて聞いたばかりだからか、守られていると教えてもらったのに不安が芽生えてくる。
それでも、部屋から出てはいけないと言われたからには待つことしかできなくて、落ち着かない気持ちで縁側の向こう側を見たり、深呼吸をしてみたりしていた。
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