お品書き 二 『どら焼き』居場所を失くした者【4】
「こちらでございます」
しばらくすると、襖の向こう側からコンくんの声が聞こえてきて、すぐにコンくんが現れたけれど……。その後ろから姿を現した〝お客様〟を目にした瞬間、自然と呼吸をするのを忘れてしまっていた。
「どうぞ、こちらにおかけくださいませ」
私の時と同じように愛想よく振る舞うコンくんを見ながら、口をパクパクとしてしまう。
振り返って私を見たコンくんは、『大丈夫です』と唇の動きだけで伝えてくれたけれど、私は頷くこともできない。
目の前でゆったりと腰を下ろしたのは、人の形からは程遠い姿をした生き物。
明らかに人には見えないお客様は、狛犬が大きくなったような姿をしていて、その身体は座っていても天井までの空間を半分は埋めていた。
緑のたてがみに、全身を覆う新雪のような美しい被毛。尻尾は金色で、瞳は鋭く光っている。
「失礼いたします。お客様、ようこそお越しくださいました。加賀の棒ほうじ茶でございます」
体を硬直させていた私は、部屋に入ってきたギンくんの声でハッとする。
私の強張った表情に気づいたギンくんは、コンくんと同じように『大丈夫です』と唇を動かして笑ったけれど、なにが大丈夫なのかはわからない。
ただ、コンくんとギンくんがいてくれるのは心強くて、不安に包まれながらもふたりの存在に救われているような気持ちでいた。
ギンくんはすぐに部屋から出ていき、またコンくんとお客様と私だけになった室内は静けさに包まれてしまう。
コンくんはただニコニコ笑っているだけで、特になにも話そうとはしない。
お客様は私を一瞥したものの、ぷっくりとした肉球がついた前足のような手で器用に湯呑みを持ってお茶を飲んでいた。
「失礼いたします。本日の甘味の、どら焼きでございます」
「ふむ、これがそなたのおすすめの甘味とやらか」
「はい。私の大好物でございます」
再びやって来たギンくんがどら焼きをテーブルに置くと、それをまじまじと見たお客様がコンくんに尋ね、コンくんはどこか得意げに答えた。
普通に話しているコンくんとギンくんを見ていると、本当に大丈夫なのかもしれないと思うようになり、少しだけ不安が和らぎ始める。
程なくして、どら焼きに手を伸ばしたお客様がたったのひと口でそれを飲み込んだから、つい目を大きく見開いてしまったけれど……。直後に鋭い瞳が和らいだことに気づいて、思わずその表情の変化に見入っていた。
「これは、うまい……。おかわりはないのか?」
「こちらにございます」
「……そなたがここの主か」
タイミングよく姿を現した雨天様に、お客様は品定めをするような瞳を向けたあとで確信めいた口調で言った。
雨天様が笑顔で頷き、部屋の中に入ってくる。
「はい、雨天と申します。我がお茶屋敷へようこそお越しくださいました。どら焼きはまだまだございますので、お好きなだけお召し上がりくださいませ」
そして、雨天様はお客様の傍で膝をついてどら焼きがたくさん載ったお皿をテーブルに置くと、私の隣に腰を下ろした。
右側に座った雨天様の横顔を見て、ようやく深く息をすることができたような気がした。
「ああ、うまかった……。どら焼きなど、随分と久しぶりに口にした」
「以前もお召し上がりになられたことがあるのですか?」
狛犬のような風貌のお客様の正体はわからないけれど、少なくとも今のところ危害を加えられるようなことはなさそうで、そっと胸を撫で下ろした。
雨天様の質問に小さく頷いたお客様は、まるで想いを馳せるかのような瞳で頷いた。
「
「なるほど。あなたがここにお越しになった理由がわかりました」
「我が社の主は、もう随分前に消えてしまった。山奥の小さな社であったが、この何十年かで人の手が入り過ぎたのだ。それでも私は、主がいない社に留まるほかなかった……」
お客様は、ふっと寂しげな笑みを見せた。
人間じゃないし、外見だって人間からは程遠いのに、表情の変化がよくわかるのはどうしてなんだろう。
「私ひとりが残された社に、ある日どこからともなく中年の男がやって来た。妻に先立たれたと言うそいつは、誰もいない社に祈りを捧げておった。私には、なにを祈っておったのかまではわからぬが、どこか寂しそうだった。それからだ、その男が月に何度かふらりと訪れては、主がいない形だけのご神体と私にどら焼きを供えていくようになったのは……」
理由はわからないけれど、私はいつの間にかお客様を真っ直ぐ見つめていた。
そんな私を捕らえた琥珀色の瞳が、なにかをこらえるようにそっと天井を仰ぐ。
「バカな男よ……。そんなことをしても、手入れのされていない社の中を見れば、廃れた神社だとわかっておっただろうに……」
「その方は、ずっと祈っておられたのですね」
「ああ、そうだ……。来るたびになにかを懸命に祈り、ひとり身の上話をしておった。いつも必ず、主と私の分のどら焼きを供え、思い出話をひとつしていった。だが……」
そこで言葉を止めたお客様に、私たちはなにも言わずに待っていた。
だけど、いつまで経ってもお客様は口を開こうとしなくて、雨天様はお客様の気持ちを察するようにゆっくりと息を吐いた。
「姿を見せなくなったのですね……」
「ああ……。寿命であったのは、わかっておる。あやつは見るたびに生気を失っておったからな……。最後の方は、もう今日が最後かもしれぬといつも思っておった」
悲しげな声が、静かな部屋に落ちていく。
誰もお客様のことは知らないはずなのに、みんな真剣に話に聞き入っていた。
「勝手に手を加えた人間どものことなど、気にしてやることはないと思っておった。主にはいつも、『そんなことは言うな』とたしなめられたが……。そもそも人間が手を加えさえしなければ、豊かな緑に囲まれた小さな社の主は、きっと今もあの場で人々を見守ることができておっただろう。だから、あやつが社に訪れた時も、同じように思っておった。それに、どうせ主がいない以上はなにもできない」
「ですが、あなたの心は動いてしまったのですね」
雨天様が尋ねると、お客様は瞼をそっと閉じた。
「……ああ、そういう言い方もあるな。私を勝手にポチなどと名付けた罰当たりな奴のことなど、眼中になかったはずなのに……。いつの間にか、あやつの声を聞いてもやれぬ自身に悔しさを覚えるようになった」
どうしてだろう。
まったく知らない、人ですらないお客様の話なのに……。気づけば、涙がポロポロと零れ落ちていた。
「小娘、なぜ泣く?」
「……わかりません」
嘲笑混じりの笑みに、小さく答えた。それは本音だったけれど、心がやけに痛いような気がしてたまらない。
「お前にはなんの関係もない話だろうに」
お客様は、小さな社でひとり、ずっと主の代わりを務めようとしていたのだろう。
そして、やって来た男性に心を動かされ、なにもしてあげられなかった自分自身への後悔を抱いている。
「私をポチなんて呼ぶような罰当たりな男のことなど、気にしてやらなくてもよいと思っておったのにな……。自身があの社から離れることになった今、最後の後悔が消えぬのだ……」
「離れる?」
「ひかり」
小首を傾げた私をたしなめるように、雨天様は首を横に振った。私はハッとして、口を噤む。
「構わぬ、雨天よ」
程なくして、雨天様に笑いかけたお客様は、私を見つめた。それはとても優しい眼差しで、人間に対する冷たい言動とは反している。
「小娘、私はもう力尽きてしまったのだ。魂を社に留めることができぬほどに、力が弱まり過ぎてしまった。といっても、主がいない狛犬が、何十年も力を保っていられたことが奇跡にも近いのだがな……」
「じゃあ、お社は……?」
「……朽ちた。私にはもともと、なんの力もない。その狛犬の魂すら失った社は、朽ちるしかないのだ」
「そんな……」
「いや、これでよいのだ」
目を見開いた私に、お客様は悲しみが混じった笑みできっぱりと言い切った。
「主がいなくなってからあの男がやって来るまでの月日は、まるで永遠のように思えた。ひとりあそこで来ない者を待ち続けるには、もう年老いた私には寂し過ぎる……。せめて、このまま主のもとへ行けたらよいのだが、あの男を少しも救ってやれなかった私にはその資格もなかろう……」
寂しい物言いに、今にも泣き出してしまいそうに思えた声。
微かに声音が震えていたのは、涙をこらえているからなのかもしれない。
それでも、お客様は肩の荷が下りたと言いたげにも見えて、どこかで安堵感すら滲んでいるような気がした。
もちろん、気のせいかもしれないけれど。
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