お品書き 二 『どら焼き』居場所を失くした者【2】

「たぁた、きまっし」



 誰にも聞こえないような小さな声が口をついたのは、すっかり疲れ切ってしまった頃のこと。足が棒になりそうだった私は、自然とそんなことを口にしていた。

 その直後、どこからともなく甘い香りが漂ってきて、それに吸い寄せられるように再び足を踏み出した。



 あんなに疲れていたはずなのに、そんなことは忘れてしまったかのように足取りが軽くなっていた。

 ふわりと鼻先をくすぐるような、優しい香り。微かな手がかりを見失わないように、無意識のうちに神経を研ぎ澄ませてしまう。



「あった……」



 立派な格子造りの門に、古びた瓦屋根。

 昼の空の下で見るお屋敷は、昨夜見たような気がするものとは雰囲気が全然違う。

 それなのに、ここだ……という確信がある。そして、記憶はより鮮明になっていた。



「……お邪魔します」



 インターホンも、家人を呼び出せそうなものもない。

 控えめに言いながらゆっくりと門を開ければ、見覚えのある景色が現れた。

 夢にしては、あまりにもそっくり。やっぱり、自分で見ていたとしか思えない。

 そんなことを思いながら歩みを進める足は、どこか慎重だった。



 緊張しているのか、鼓動がやけに大きく鳴っているような気がする。

 玄関に辿り着いても誰にも会うことはなく、少しの間ためらった末におもむろに手を伸ばした。ガラガラと音を立てながら、戸が開いていく。



「お邪魔します……。あの~……誰かいませんか?」



 誰の名前も呼ばなかったのは、ここに来て急に不安になってきたから。

 記憶は現実のものだと確信はあるはずなのに、もしかしたら不法侵入になるんじゃないかと脳裏に過って、尻込みしそうになっていた。

 靴を脱いで廊下を進み、見覚えのある襖に手をかける。音を立てないようにそっと引けば、開いた襖の隙間から灰色の着物を身に纏った背中が見えた。



「……雨天様?」



 恐る恐る口にしたのは、昨夜聞かされた名前。

 その瞬間、バッと勢いよく振り返った男性の顔は、私の記憶の中の男性とまったく同じだった。



「ひかり……! なぜここに⁉」



 目をまん丸にした雨天様は、縁側に腰かけていた体をこちらに向け、驚嘆の声を上げた。

 自分の名前を呼ばれた直後、私は曖昧だった部分を含めた昨夜のことをすべて思い出した。



「なぜだ? どうやって来たのだ?」


「えっと、バスで橋場町まで来て、あとは普通に歩いて……」


「普通に歩いて? そんなわけがなかろう……」



 立ち上がって私の傍にやって来た雨天様は、信じられないと言わんばかりの顔つきだったけれど。



「いや……どうやら本当のようだな」



 程なくして、ひとりで納得したように呟き、困惑の表情でため息をついた。



「まったく……。コンの奴め、ちゃんと記憶が消えたのか確認しなかったのか」



 そして、呆れ混じりの声を落としたあと、「帰りなさい」と告げられてしまった。



「どうして……?」


「私たちのことは、話しただろう? ここに来られたということは、記憶に残っているはずだ。ひかりと私たちは、本来なら一緒にいられるはずがないのだ」


「でも……私、昨日のことが気になって……」


「それでも、帰りなさい。ここは、普通の人間が長居できるような場所ではない」



 雨天様は、言い終わるとすぐに私の肩に手を添え、「外まで送ろう」と困ったように笑った。

 優しい笑みも、やっぱりちゃんと覚えている。

 あんみつやお茶とは違う、優しい温もり。それが雨天様の手や表情や言葉だったことを思い出し、私が求めていたものだったということも確信した。



「あの、雨天様! 私……!」


「あ、雨天様! ……って、ひかり様⁉」



 廊下に出ると、コンくんと鉢合わせた。コンくんも、私を見た途端に目を丸くして、私と雨天様を交互に見た。



「雨天様、どうしてひかり様が⁉」


「コン、お前の術が甘かったのだろう!」


「そ、そんな! コンは慎重に術をかけ、ひかり様の記憶を消して参りました!」



 眉間に皺を寄せている雨天様に、慌てたように首を横に振るコンくん。

 その様子を見ていると、私はここに来てはいけなかったのだということを悟らされてしまった。



「だったら、どうしてひかりがここに来られたのだ? 術が効いていれば、二度と屋敷には来られないはずだろう」


「それは、コンにもさっぱり……」



 もし、私が訪れなければ、きっとコンくんは叱られなかったに違いない。

 途端に申し訳なくなって謝罪の言葉を用意しようとした時、「雨天様」という声が廊下に響いた。



「庇うわけではございませんが、確かにコンはきちんと術をかけておりました。ひかり様を眠らせたあと、私もきちんと確認しております」


「それは本当か?」


「はい。なんと言っても、人間のお客様は実に八十年ぶりです。コンも私も、慎重にならざるを得ませんでしたので」


「それは、確かにそうだな……」



 ギンくんの言葉に納得した様子の雨天様は、私を見下ろしてじっと見つめてきた。

 なにかを考えるように眉間に皺を刻んだ表情なのに、男性とは思えないくらいに美しい。

 思わずぼんやりと見入っていると、雨天様は唐突に深いため息を漏らした。そして、「わからぬ」とだけ言い放った。



「雨天様、それであの……」


「すまぬ、コン。確かに、術をかけた形跡はある。お前のことだから、うっかりして術が甘かったのだと思ったが、そういう様子もない」



 私の全身に視線を走らせたあと、雨天様は「やっぱりわからぬ」とため息をついた。



「とにかく、ひかりを外へ」


「あの、雨天様! お言葉ではございますが、このままひかり様を帰してもまた同じことになるのでは?」


「……どういうことだ?」


「ひかり様は、自らの力でここに来られました。術はきちんとかかっていたので、ご自身で解いたということはないでしょう。となれば、ひかり様は心の傷が癒えなかったのではありませんか?」



 コンくんの言葉に、雨天様は眉間の皺を深くした。

 三人の視線が私に向けられ、なにかを探るような六つの瞳が突き刺さる。



「確かに、コンの言う通りかもしれませぬ。私も、人間のお客様は久しぶりなので、確信はありませぬが……」


「どちらにしても、このままお返しするわけには……」


「……仕方ない。まずは話すことにするか」



 程なくして、雨天様はため息混じりに頷き、納得したようにそう言った。

 どこか居心地が悪くなりそうだった私は、自然と緊張していたようで、ほとんど無意識のうちに安堵の息を吐いていた。



「では、まずはお茶を淹れて参ります」


「ああ、ついでに今朝作ったどら焼きも持っておいで」


「もちろんでございます」



 ギンくんは笑みを浮かべると、「雨天様とひかり様はお部屋の方へ」と言い、コンくんとともにどこかに行ってしまった。

 残された私たちは、特に会話もないまま客間に足を運んだ。


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