第10話
ホテルからの帰り道、雅哉から「温泉に行かないか笑」とLINEが届いていた。妻が結婚式で帰らないことを見越してのお誘いなのだろう。
大好きな人に初めて旅行に誘われた純粋な嬉しさと、自ら背負い込んでしまった妻に対する劣等感や無力感と、そもそも妻子ある人の誘いにのっていいのかとの迷いが、様々な色の感情になって混沌としたマーブル状態になる。
あんなに素敵な妻子がいるのに、なぜ雅哉は私とも会おうとしているのだろうか。いくら考えてもわからず疲れ、でも早く返事をしなければ、他の女子を誘うだろうと焦る気持ちも出てくる。
断ろうとも思うのだが、結局会いたい気持ちが勝ってしまう。醜い感情だけは悟られないよう、淡い好意は伝わるよう、問題を顕在化させない細心の注意を払いながら、素直さを装ったシンプルな返事で、雅哉と自分自身をけむに巻く。
東京駅で待っていたのは、運転手付きの白いファントムと、少し緊張した面持ちの雅哉だった。車に用意されていたシャトー・ダルマイヤックの赤を二本も開けながら、雅哉に会ってしまえばいつも通りのバカ話を繰り広げられる私だった。
人間の心はかくも強く柔軟なのかと驚きつつも、たまに何重もの蓋をしたはずの悲しみに包まれた感情が顔を出し、言葉にも出てしまいそうになる。盲腸を強い薬で散らすように、飲んだくれることで私も含めた人間が、判読可能な言語にならないよう注力する。
それでもダメな時はワインラベルに描かれた酒と豊穣の神バッカスに「友達でいいので、そばにいさせてください」とか「どうか一回だけ。もうこれきりにしますから」と神様違いなことを心の中で何度も祈る。
右のこぶしを振り上げた様子は、神様というよりひ弱な貴族に見えて少し頼りない。それでも祈る。朝からほとんど何も食べられず、空っぽだった胃に入ったワインが、車のわずかな揺れで踊り、私をさらに酔わせる。
秋の気配を感じさせる鱗雲と、まだ夏は終わらないと悪あがきしてる入道雲のハイブリッドな空を、夕日が美しいピンク色に染めていた。
旧軽井沢の別荘地に入り夕闇の中に白樺並木が浮かび上がって見えた頃、突然雅哉に強く抱きしめられた。嬉しいはずなのに私の腕は降ろされたまま、ただ強い力で抱きしめられていた。雅哉の胸の鼓動が、私の胸に伝わってくる。マリンノートが強めに香った。
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