第6話
噛まれた唇の痛みは二日続いた。噛まれたところがお醤油でわずかに染みた時、鏡で少しだけ膨らんでいるのを見た時、指でその甘やかな突起をなぞった時など、彼の柔らかな唇や、卑猥な生き物のように蠢いていた舌や、強引なのに優しかった腕や、熱を帯びた視線を呼び起こした。
目を閉じると、あの夜、私に起こった様々な身体的影響までもを蘇えらせた。最後は痛みが消えないでほしいと願うまでになっていた。
雪乃に、花筏の君のことをそれとなく聴いても、どんな人で何をやっているのかよくわからないようで教えてくれない。婚活合コンの時は名刺を渡してくる男もいるけど、ギャラ飲みやパーティで会った人なんてそんなものだ。
男どころか何年も一緒に合コン行ってる女子のことも、LINEが下の名前だけだったりしたら苗字さえもよくわからない。雪乃なんてもう八年くらいの付き合いになるけど本名を聞いたことがない。週に何度も会うのに芸名のまま、恋愛相談したり仕事の悩みを打ち明けたりしている。
一週間後、一条雅哉という見知らぬ人間から「どうしても会いたかったから連絡先教えて頂きましたごめんなさい笑」とLINEがきた。花筏の君だった。唇の痛みは消えたのに熱は消えていなかった私は、「個人情報笑キズのせきにんとってください笑」と返した。
一条雅哉の名を、TwitterやInstagramで調べてみる。漢字の名前でヒットしたのはパフェやケーキなどのスイーツばかりが投稿された女の子みたいなInstagramだった。たまに自分でも作っている桜餅やフィナンシェには、女子たちからたくさんのいいねがついており、私の胸を少しだけチクチクさせた。
LINEを交換してからは、雅哉と様々な場所に行った。雅哉は私の二歳下で、株や為替のトレーダーをしていた。価値観が合って話が尽きなかった。会えば会うほど、会わない時間に思い出す時間が長くなる。タクシー代はもう貰うことはなかった。お金では手に入らない思い出を、雅哉はたくさんくれた。
高いヒールばかり履いて移動は電車かタクシーだった私に、六本木からレインボーブリッジを経由して海まで歩ける、自分自身の足でどこまでだって歩いていけることを教えてくれた。
プールに行っても日焼けするのを怖がりろくに水に入らなくなっていた私を、アクアパークのドルフィンパフォーマンスの最前列にさりげなく座らせ、二人で頭から水をかぶって大爆笑した。
どこかに行ったら見たり食べたりすることしか頭になかった私を、報国寺の青々と茂った竹林が、風に揺られてサラサラと爽やかな笹鳴りを奏でる音の空間に連れて行った。
ほとんど外食だった私のためにキッチンをレンタルして、皮から餃子を一緒に作った。
祖母が子宮体がんで入院した日は抱きしめて頭をなでてくれたし、被写体になるだけだった私に若手グラドルのDVDプロデュースの話が来て戸惑っている話をすると、「頑張ってるひと、好きだな」とつぶやいた。
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