第4話

 カクテルばかり七杯も飲んで少しは気が紛れた私は、外の空気が吸いたくなった。トイレから件の部屋には戻らず、一人で店の外に出る。指紋認証でしか入れないと謳いつつもスタッフにあらかじめ言っておけば、店外に出てもインターホンで入れてくれるのだ。


 会員制バーの入り口付近には、背の高い木々が植栽されている。黒大理石の壁に寄りかかって空を眺めると、森タワーの横に浮かんだ月には薄く雲がかかり、ぼんやり輝いていた。金曜日の夜なのに、ビルのどのフロアも明るい光を放っている。


「今日ってブルームーンじゃありませんでしたっけ」

 花筏の君だった。来るような気もしていたけど、さっきアナタ、雪乃嬢と仲良さげに談笑してましたよね。酔ってうるんだ瞳で、私を見ないでほしい。

「そーいえばヤフーニュースで見たかも」彼から目をそらして、月を眺めながら言う。ブルームーンってカクテルにもあったな。


 花筏の君も私の隣に来て、壁に寄りかかる。自分の腕が、シャツを腕まくりした彼の腕にわずかに触れたので、ドキッとする。が、落ち着いた様子を装って、身体を静かに横にずらす。整いすぎて少々冷たい印象をも与えかねない、鼻筋の通った横顔。思った以上に背が高く、シャツの上からでも肩や背中にきれいな筋肉がのっているのがわかる。


「月がきれいですね」

 突然すぎて、キザすぎて、思わず吹き出しそうになる。月も見ずにこっちを見て言うな。


「月なんかどこにも見えませんよ」

 雲が晴れてきた満月を見ながら、笑いを堪えて極力冷淡に返す。彼が視線を月に戻したので安堵するが、同時に少し残念な気持ちになるのはなぜだろう。


 瞬間、身体が何かの獣のように動いたかと思うと、彼の大きな右手が巻き付くように私の腰に回り、鎖骨に唇を押し当てられていた。首の下から荒々しく求められるような幾つものキスが昇ってきて、くすぐったいような切ない気持ちになる。ドラキュラに血を吸われる時は、こんなにも甘美な気持ちに捕らわれるのではないかと錯覚する。


 頭がしびれて身体が動かない。そうしているうちに顎の先までたどり着いた彼の唇が、私の唇に重なる。柔らかくて熱い感触に泣きそうになる。優しくてふんわりした舌が私の唇を一舐めすると、それで気を許してしまった私をあざ笑う罠だったかのように、急に硬さを増した。そして閉じていたはずの唇の扉をこじ開けるように入ってきて、私の口と心の中をかき混ぜた。彼の首筋からは、どこか遠い国の海を思わせるマリンノートの微かな香りが漂ってくる。

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