第2話

「こういうのも水鏡っていうんですかね」

低い声が言う。

「水鏡って水面に物とかの形が映ることだから、隅田川に菊花火が映っても水鏡なんじゃないでしょうか」私はおやっと思った。私自身もわかってない私のよくわからないこだわりに、付き合ってくれている人がいる。


 お互いの姿はよく見えないし、なんかこのところ疲れてるし、たまにはやりたいようにやっちゃうか! 私に興味を失って、相手の声が死んじゃった入院患者の心電図みたいにフラットな声になってきたら、顔見られる前にまた「ちょっとトイレに」と言って退散しよう。多分もう二度と会わない人だし。


「僕も桜は樹に咲いている方を見ないで、お堀とか水に映った方を見てしまうんですよね」

「え、私もそうです。毎年桜の季節になると目黒川とか行っちゃうんだけど、川に映った桜ばかり見てる」言いながら、趣味が合う人がいたものだと思う。春風に煽られてひらひらと舞い散ったり、地面や水面に落ちた桜の花びらを美しいと感じるようになったのは、いつごろからだろう。


「水鏡ではないけど、花筏も最高ですよね」

 花筏とは散ってしまった桜の花びらが川を覆い尽くす様子を、筏に見立てた趣深い言葉だ。表情がお互いに見えない中で、あまり一般的ではない花筏という言葉を、私があたかも知っているかのように使うあたり、お主なかなかやるではないか。


「弘前公園の花筏は、この世のものとは思えませんでした」

「えっ! 弘前公園の、ずっと見たいと思ってた。いいなあ」

「いいでしょ。死ぬ前に一度見に行ったほうがいいですよ」楽しくなってきた私は、ほうれい線の成長を阻止することも忘れ、いつの間にか小さな笑い声をあげながら話している。


「いつか、一緒に見られたらいいですね、花筏」

 突然飛んできた会話の左フックに、笑い声を一瞬飲み込む。おいおい、酔っ払いかよ。名前どころか顔確認さえできてないんだぞこちとら。ムリヤリ笑い続けながら、心の中の『困った男対策マニュアル』の六百三十四ページを開いて最適解を探す。


 新人アイドルなんかじゃない。こんなことで動揺を見せたら、芸能界歴十三年の女が廃る。界隈にいたのがたとえ隅っこだったとしても、タレントはタレントだし、小さなネット番組の司会くらいはこなしてきた。どんな変化球がきてもとっさに受けて、まだあまりしゃべってないゲストが突っ込みやすいおバカキャラを演じ、会話のボールを返すのが、さほど美しくもなく巨乳でもない地味めなグラビアモデルである私の、唯一の存在意義だった。


 所属事務所からおバカギャル路線は一定の需要があるからと申し付けられ、十年以上もの間自分の好みや意思とは関係なく髪を明るく染め、おメメパッチリメイクを施してきた。でも誤解されることが多い外見とは裏腹の私のピュアな部分は実は、男のこういう軽はずみな強引さ、嫌いじゃないから困ってしまう。


 私が返事をできないでいると、「冗談ですよ、まだ、名前も知らないのに。僕は知ってるけど」クックッと不敵な笑いが聞こえる。不気味すぎる。

 

 突然、戦争映画でよく聞くミサイル投下的な音が複数聞こえたかと思うと、数百のペリドットを散りばめたような美しい光の粒が海の上のあちこちで弾けて、夜空と水面を眩ゆい黄緑色に染めた。同時に目の前の端正な顔も照らし出した。


 その表情は一見楽しそうなのに、目元に何か不安定な悲しみが混じっているように見え危うげで、私の胸の鼓動を早めさせた。でも悲しみが見えたのはほんの一瞬で、すぐに花火を反射したのか彼の大きな瞳がギラギラした狩人のような熱を帯びてきて、私の瞳を簡単に捕らえてしまう。その瞳からなんとか逃げ出しても、今度は仕立ての良い白いワイシャツの肩が目に入り、それが思いがけず広くて再び目を伏せる。濃紺のスラックスに包まれた長い足が見えた。


 遊び人め。私も今年で二十九歳。生活のためにギャラ飲みには参加するけど、地方公務員やメガバンク主催の合コンとか行って、将来の伴侶探さなきゃならない。こんな所で寄り道している暇はないんだよ。もう会わないし、絶対好きになんかならないと誓う。


「ちょっとトイレに」私はこれ以上彼の顔を見ないようにして、せっかく見つけた花火見学の特等席を後にした。

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