あの夏に咲いた痛い花の名前を僕らはまだ知らない

すずらん猫

第1話

 さざなみのように折り重なる吐息。

 肉と肉がぶつかり合う幾つもの音。

 瞬きもせず彼が私を見つめている。

 

 出会った時と一緒だ。

 いつもこの瞳が私を狂わせる。

 私を快楽の沼へと引きずり込む。

 

 近づいてはいけないとわかっているのに、

 わかっているからこそ引き寄せられてしまう。


 地獄へたたき落としてほしい。

 私にはその資格がある。



「ずっと水面、見てますよね」

 花火の音に混ざって右斜め上方から、ほんの少し掠れた低い声が響いた。出会って三分でLINE交換をせがんできたキモオヤジAを、トイレに行くと振り払ってやっとここにやってきたのに、無粋なヤツめ。今日は一人で見たいのに。一人になりたいのに。でもそんなことはこの業界の暗黙の契約上、そして昔からの学級委員体質の性格上、私には到底言えずに、声の方向に顔を向けわずかに首を傾けて、にこやかな笑顔を向ける。


 しかしせっかく作った笑顔も花火が消えた暗がりの中ではまったくの無駄であり、心の中で金払えと思う。ウチの店のスマイルは高いんだよ、高くつくんだよ。先ほどまで温かな光を放っていたクルーザーのオイルランプの光は、夜空に咲く大輪の花を際立たせる演出のためかほとんど消されていて、相手の顔や表情をも隠している。相手から見れば、私のとっておきの笑顔も隠しているに違いない。次の花火が上がるまで、笑顔は封印しておこう。二十代前半まではその存在すら知らなかったほうれい線が、最近じわじわと育ちつつあるから。


「水に映ったものが好きなんです。雨上がりの水たまりに映った入道雲とか、太陽が海に反射してキラキラ輝くのとか、月明かりが湖の表面に白く光る道を作るのとか……」


 今日は新興市場の経営者パーティも兼ねてるから、タクシー代は二万か、うまくいって三万か。おもしろい子は重宝されるけど、あまりに変わった子は次から呼ばれなくなる。自分勝手なこだわりやマニアックなことを言ってオヤジを撃退したら、女衒役の雪乃に苦情を言われてしまうかもしれない。


 適当に「川に映った花火ってきれいですよね」とかなんとか言ってお茶を濁せばよかったのに、あいつのせいでなぜか今日は会話のチューニングがうまくいかない。明るくて、爽やかで、ちょっとだけおもしろい好感度高めの女子を演じることができない。


 優しい人だし結婚まであとちょっとだと思っていたのに、部屋に化粧水とドラムセットを置かせてと冗談で言っただけで、急に怖気づくなんて思わなかった。


 パーティ客も同様に、異質な人間など望んではいない。すでに彼女や嫁がいる彼らの多くはセックスの相手を求めているだけ。色気ポイントのマイナス要因になる尖った趣味など、生活排水と一緒にドブに捨てた方がマシなのだ。


 蝶々が宙を舞うように、会話ができるだけ軽やかに上へ下へとヒラヒラ踊れば、連絡先を手に入れたり本日の夜のお供を見つけることができれば、それで満足するし、それ以上のクリエイティビティは逆に邪魔以外の何物でもない。にしても花火なかなか上がらないな。

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