絶体絶命の男。

ヤマタケ

大人として。男として。越えてはいけないラインを越えてしまった……。

 あ。


 ヤバい。


 終わった。


 その事象が起こってからそう結論付けるのに、わずか1秒。俺の全身の体温が一気に上がり、そして一気に青ざめていく。


 走馬灯が俺の脳裏をよぎった。前の会社では人間関係で失敗し、その後のバイトは単純に仕事ができなさ過ぎて店長に嫌われた。その結果、試用期間の半年でクビになったという、悲しい思い出ばかりが思い出される。


 そしてこれからどうすればいいのか、俺の思考は急速に動き始めた。たった今やらかしたことに対する報告、対応、そして――――――あわよくば誤魔化せないかという幾ばくかの期待。


 ぐるぐると巡る中、コピー機の音が鳴り響いた。複合機を使っているのは自分だけではない。他の人が印刷する資料なども、普通に印刷される。


 俺は慌てて印刷室を出た。自分の印刷した資料のコピーだけ、手に取って。向こうも大量印刷、待っていたら印刷され切った資料を渡しに行かなければならない。現状、そうするわけには、どうしてもいかなかった。どうしても、人と接触することは避けたい。


 加えて言えば、座ることも避けたかったので、俺は自分のデスクに資料を置くと、即座にパソコンの画面をロックした。コンプライアンスに則り、離席中に端末を触ることができないようにしなければならないのだ。


 俺は極めて迅速に画面をロックすると、ポカンとして俺を見やるほかのメンバーに対し、平静を装って告げた。「トイレに行ってくる」と。


 ――――――正直、気が動転していた。まさか、まさか自分が……。


 ……会社で仕事中にウ●コを漏らすなど、夢にも思わなかったのだ。


*****


 それは本当に、唐突に訪れた。


 印刷室に資料を取りに行ったとき。俺はケツの中に、違和感を感じた。何かが出ようとしていると。

 当初、おならだと思った。というか、今までも何度かこっそり、仕事中におならはしていた。腹の調子が悪くてガスがたまりやすく、こらえようとしてもどうしても出てしまうので、あまり我慢しないようにしていたのだ。

 そして今回も、音を立てないように、そ~っと、おならをしようとしたのだ。


 そしたら。


 ――――――にゅうっ。


 まさに、「にゅうっ。」としか言いようのない感覚が、俺のケツを襲った。しかも明らかに外側ではなく、内側に感じる。


 某お笑いコンビが、テレビでウ●コを漏らしているのを思い出した。コンビ両方ともテレビでウ●コを漏らしており、片方は「おならしようとしたらウ●コ漏らしてしまった」、もう片方は「にゅうっという感覚とともに出てきた」と言っていた。


 全く以てその通りじゃないか。最初動画で見た時俺は爆笑したが、もうその動画を一生笑うことはできない。俺も同類だからだ。


 俺は非常に焦り、大慌てでPCの画面をロックし、離席する準備をした。


 あまりの恐怖から状況を確認する術は、己のケツに感じる熱さのみ。体温のせいか、結構熱い。いったいどれほどの量がでたのか、パンツを貫通してズボンまで到達しているのではないか。……何より、臭いのではないか。そんな感覚は、はるか彼方に吹き飛んでいる。


 とにかく今は、ケツとパンツについたであろうウ●コをどうにかしなければ。其れしか考えることができなかった。


 そのためにやらなければならない、最大の関門――――――それは、離席の報告である。


 短いトイレ休憩ならまだしも、コンビニに行ってパンツを買い、トイレでケツとパンツを洗う。そうなると、なかなかの時間、オフィスを離れることになる。何も言わずに出ていくと、後が怖い。「お前今までどこ行ってたんだよ?」と詰められること請け合いだ。


 しかし、この報告自体も楽ではない。


 なにせ、報告するべき人は、女の人なのだ。


 考えてもみてほしい。仕事上の付き合いとは言え、女の人に「ウ●コ漏らしてしまいました」などと、素直に言えるだろうか。俺は言えない。


 どうする。どうする。かといってヘンテコな理由を言うわけにもいかない。仕事なのだから、報告はきちっとしなければならない。


「あ、あの……」

「はい?」


 俺は努めて平静を装おうとした。


「ちょっと、トイレ行きたくて……」

「? はあ」


 女の人は首を傾げた。当然だ。俺もそうだが、普段トイレ休憩でわざわざ彼女に言うことはない。せいぜい、昼休憩などの長期離席で、その間の業務の一部をお願いするときだけだ。それがわざわざトイレに行くのに、報告……? という、困惑は至極当然であった。


 それを気取った俺が発した言葉は、なおも平静を装った。


「そ、それで、その……お腹が、かなり痛くて……手遅れになる前に、その……」


 実際はお腹は痛くもなんともないし、何だったらすでに手遅れなのだが。あくまで未来の話にしたのは、ささやかな抵抗だった。

 そんな俺の思いを汲んでくれたのかどうかはわからないが、事務の女性はにこやかに「わかりました」と言ってくれた。


 助かった。彼女は女神だ。俺はそう思いつつ、大急ぎでオフィスを出た。

 ……下手に走るとケツについたウ●コが落ちそうだったので、あくまで早歩きだが。


*****


 幸いというか、俺の働くビルは大きなビルで、1階にはコンビニがある。そこでいつも昼飯を買っているので、一番スムーズにコンビニへ行く方法も熟知していた。


 俺が働いているのは12階。そこから1階のコンビニに行くのに、階段は自殺行為だ。ここは素直に、エレベーターを使おう。


 エレベーターも幸いなことに、誰も乗っていなかった。もし誰か乗っていたら、ウ●コの匂いに感づかれたかもしれない。ス―――――っと12階から1階に降り、俺はコンビニへ急ぐ。


 コンビニへたどり着く手前、トイレを見つけた。しめた。パンツを買ったら、ここで着替えよう。そう算段を着けて、俺はコンビニへ入る。


 コンビニは昼過ぎだったが、まばらに人がいた。俺はあくまで平静を装いつつコンビニ内を闊歩する。この時、めちゃくちゃ焦っていた。


(パンツ、どこだ……!?)


 コンビニでパンツなど、そうそう買うものでもない。ましてや普段は昼食のカツ丼くらいしか買わないのだ。視野が狭いというか、他の商品の配置は全く頭に入っていなかった。

 しかしながら、長時間うろついていたらウ●コに気づかれる可能性が上がってしまう。歩きはゆっくり、しかし首の動きは俊敏に、俺は商品棚を片っ端から物色する。


 パンツを買うことなどそうそうはないが、しかしあるはずだ。その確信だけを頼りに、俺はパンツを探す。――――――ウ●コがケツから落ちる恐怖に耐えながら。


 そして、探すこと1分。とうとう俺は、念願のパンツを見つけた。


「……トランクス、か……」


 俺はボクサーパンツ派で、トランクスは子供のころ以来である。しかし、それしか売っていなかった。しかも、残り1個。

 迷っている時間はない。俺はトランクスを手に取ると、レジに向かった。


「袋ください」

「はい……?」


 店員の反応に、俺は顔をしかめた。しまった、ここはデフォルトでレジ袋がついているコンビニだった! 袋を必要以上に欲しがると、不審に思われる可能性がある!


 実際、袋はめちゃくちゃ大事だった。何せこれからトイレでパンツを取り替えた後、ウ●コのついたパンツを洗って持ち帰らなければならない。職場にパンツを干すわけにもいかないので、濡れたパンツを入れる袋が欲しかったのだ。その焦りが言葉に出てしまった。


 店員も特に何か言うこともなく、袋にトランクスを入れて渡してくれた。俺は必要以上にお辞儀をすると、即座にコンビニを出た。

 コンビニを出た俺はすぐさま、目の前にあったトイレへと駆けこむ。


 最悪の事態になる前に、早く……! 早く、片付けなければ!!


「うおおおおおおおおおおお!」


 俺は真っ先に、個室トイレへと入る。そしてズボンとパンツを脱ぎ捨てると、とにもかくにも便座に座った。


 そして、便器の横についた、ウォシュレットのスイッチをオンにする。

 「強」に設定された水が、勢いよく俺のケツへと放たれる。


「……はあああああああああああ~~~~~~……」


 今までずっと俺のケツにこびりついていた不快感が、一気に払拭される。とにかく、ケツ全体をまんべんなく、放水で洗い流した。


「……ふう……」


 ひとまず、俺のケツはきれいになった。今度は、ズボンとパンツの番だ。

 様子を見ると、思いのほかウ●コは漏れていなかった。……というか、パンツへの被害は少なかった、というべきか。恐らくは、漏れた大半がケツに残っていたのだろう。


 そして、ズボン。これが一番問題だ。……何しろ、白ズボンだからだ。

 俺の職場は私服での勤務であり、スーツを着ている方が少ないくらい。俺もその例にもれず、私服だ。

 ……だが、何でよりにもよって、今日白ズボンを履いてしまったのか。これはまさに、運命のいたずらとしか言いようがない。普段は黒いズボンなのに、たまたま目について履いてしまったのだ。


 白ズボンには――――――本当にうっすらだったが、シミがついていた。俺は慟哭した。まさか、ズボンまで買い替えるわけにもいかない。つまりは、このまま仕事に戻らないといけない。


(どうする……!)


 できる限りシャツの裾を伸ばして、誤魔化すしかないか。あるいは、ずっと座っているか。デスクワークなので、座っていること自体は問題ないはずだ。


 とにかく、ケツを洗い、トランクスを履いた俺は、次は洗面台に向かった。……ウ●コのついたボクサーパンツを持って。

 洗面台の水を、パンツにぶっかける。そして、俺は手もみでパンツにこびりついたウ●コを洗い落とす。センサー式の洗面台なので、常に手をかざしていないと水が止まってしまう。洗うたびにパンツから茶色い何かが剥がれ落ちていくのを見るたび、俺は膝が折れそうになった。


 ……と、ともかく、これでパンツは洗い終わった。あとは、オフィスに戻るのみ。……じゃなかった、洗ったパンツをロッカーにしまわなくては。

 幸い、もうケツの違和感を気にする必要はない。慣れないトランクスの感覚は気になるけど。


*****


 ロッカーにボクサーパンツをしまって、俺はオフィスへと戻ってきた。現状気になるのはうっすらとしたズボンのシミだけだが、それだけなら何とか誤魔化しきれそうな気がしないでもない。


「すみません、戻りました」

「あ、大丈夫ですか?」


 事務の女性は心配そうに、こっちの顔を覗く。俺がしかめたような顔をしているから、まだ本調子ではないと思っているのかもしれない。違う。単純にウ●コ漏らしたことがバレるのを、恐れているだけだ。


「一応、チャットに体調不良の事は流しておいたので。また優れないときは、すぐに言って下さいね」

「はあ、ありがとうございます」


 俺はほっと一息ついて、席に戻った。オフィスで使っている共有のチャットには、俺の上司に「俺さんが体調不良のため、少し離席します。」とメンションがされている。ありがたい反面、申し訳ない気持ちでいっぱいになったので、すぐに「何とか治りました、ご心配おかけしました!」とメンションしておいた。


 そして、基本デスクに座りっぱなしの俺の仕事。ズボンのシミは椅子で隠れ、自分さえカミングアウトしなければ誰にもバレることはない、という状況。


 ここまで来て、俺はようやく、心の底から安堵した。あとは席を不用意に立ったりしない限り、周囲の人にバレることもない。

 さっき離席した時も、椅子には座らなかったし、迅速に移動したので匂いもない。というか、漏らしてから、臭さを感じることは、一度もなかった。


 完全に隠し通した。俺はやった。やってのけた。


 安心感に包まれながら、俺は机にあったコーヒーを手に取る。


「俺さん、俺さん」


 その時、隣の席に座っている同僚が、笑いながら俺の元へと近づいてきた。


「俺さん、さっき――――――もしかして、ウ●コ、漏らしたでしょ。ウ●筋、ズボンについてましたよ」


 俺は飲んでいたコーヒーを、盛大に噴き出してしまった。

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絶体絶命の男。 ヤマタケ @yamadakeitaro

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