増田朋美

寒い日であった。多分きっと、この冬一番の冷え込みだと思う。そういうわけだから、風邪が流行ったり、いろんなものがあったりすることもあるけれど、なんだか偉く寒い日が続いてしまっているというものだ。

「今日もだめかあ。」

杉ちゃんは、水穂さんの何も手をつけていない器を見て、大きなため息をついた。

「どうしたら、ご飯を全部食べてくれるのかな。今日、15日粥の日じゃないか。それなのに餅どころか、ご飯一つも食べてない。」

「本当ですね。」

ジョチさんも大きなため息をついた。

「なんとか、食欲を増進させる薬と言うものは無いかな。柳沢先生に、聞いてみるか。」

杉ちゃんがそう言うと、

「いやあそれは無理なんじゃないですか。そんな薬、どこにもありませんよ。それもそうだけど、何より水穂さんがご飯を食べようと言う気になって貰わないと。」

ジョチさんは、困った顔で言った。

「それに今僕たちが手を焼いているのは水穂さんだけではありません。それは、はっきりさせておきましょう。あの、宮本さんという人も、困りものですよね。」

「確かに。」

それは杉ちゃんも同じだった。ちなみに宮本さんというのは、1月になってから、製鉄所を利用している女性のことである。彼女の正式な名称は、宮本昭子さん。製鉄所を利用するように依頼したのは彼女の家族であった。理由は母親の妹の娘さんが、赤ちゃんを出産したのであるが、その赤ちゃんの体調がよろしく無いため、相談のために来訪したがっているためだという。それを、宮本昭子さんは、とても嫌がって、来訪に反対していたのである。それで精神状態が不安定になったため、昭子さんは製鉄所に通うことになったのだ。少なくとも、宮本家では、昭子さんがいないほうが、うなく行くということだ。こういうときに、精神が不安定な人は家にいないほうがいいのである。

それと同時に、一人の利用者が、四畳半に飛び込んできた。

「理事長さん大変です。昭子さんが、また薬を大量に飲んでます!」

「はあ、、、。そうですか。薬はゴミ箱に捨てたはずですがね。それも見つけ出してしまったのでしょうか。とにかく、危険ですから、水を大量に飲ませて、できるだけ体に害が及ばないようにしてください。」

ジョチさんはそういったのだが、ふたりともまたかという顔をした。

「ゴミ箱に捨てるだけでは甘かったようですね。それより、焚き火にでもくべて、燃やしてしまうとか、そうすればよかったんですね。」

そう言いながら、ジョチさんはとりあえず、宮本さんがいる食堂の方向に行った。杉ちゃんもそのあとに続いた。

食堂に行ってみると、テーブルの下で、宮本昭子さんがうつ伏せになって倒れていた。ジョチさんはすぐに宮本さんのそばへ行って、大丈夫ですかと声をかけると、彼女は大量によだれを垂らして、目つきも変だった。今風の言葉で言えば、ラリっていると表現すればいいのだろうか。その知覚には、精神安定剤の入れ物が散乱していた。利用者がやってきて、

「ほらほら昭子さん、薬を飲み過ぎちゃだめですよ。水を飲んで、吐き出してください。’ほら早く。」

と、急いで、昭子さんの口元に、水を流し込んだ。昭子さんは、それをぐいっと飲み干した。それができるのだから、まだ意識はあるらしい。

「昭子さん聞こえますか?もし聞こえるんだったら右手を上げてください。」

ジョチさんがそうきくと、昭子さんは右手をあげた。

「ああ、聞こえているんですね。じゃあ、話すことはできますか?」

ジョチさんがそういうと、

「わ、、、た、、、し、、、。」

と呂律が回らない口で、なにか言おうとしているようであった。

「昭子さん、すぐに薬に走っちゃだめだよ。もちろん、お前さんが辛い思いをしているのもわかるけどさ。だけど、動けなくなるまで薬を飲んでしまうのはやめようよ。それは、まずいからさ。」

杉ちゃんがすぐそういうが、昭子さんは、申し訳無さそうな顔をした。でも、薬が回りすぎて、動けない様子だ。それと同時に水穂さんが咳き込んでいるのも聞こえてきた。僕そっちへ行くよと杉ちゃんはそう言って急いで四畳半に戻っていったが、ジョチさんは、昭子さんが心配で、その場に残った。やれやれ、一人でも重病人を抱えているのも大変なのに、こう手間を取らせる利用者が出るとは、、、。ジョチさんは、大きなため息をついた。

「こんにちは、あけましておめでとうございます。新年の挨拶が遅くなってしまいましたが、それでも二十日正月目が覚めたで許してください。もう、今年は、小濱くんの展覧会で、忙しくてしょうがなかったのよ。なんでも絵を地震があったところに寄贈したので、なかなかこっちへ来れなかった。ごめんなさい遅くなっちゃって。」

という声がして製鉄所の玄関を開ける音がした。昭子さんは、また誰か来たといったが、これはジョチさんも予測していなかったので、大変びっくりした。

「こんにちは。あたしがもうちょっと、しっかりしてればよかったのよね。こんな遅くなって申し訳なかったわ。ごめんなさい、みんな元気?」

そう言いながら、入ってきたのは、元々食堂のおばちゃんとしてここで働いていた、前田恵子さんである。確か、小濱秀明くんという青年と結婚したため、製鉄所を退職したのだと聞いている。それ以降製鉄所の食事は杉ちゃんが担当するか、各自で用意することに方向転換したのだった。

「ああ、恵子さん、来てくださってありがとうございます。ただいま取り込み中でして、こんなふうに、ひどいことになっていますが、申し訳ありません。」

と、ジョチさんは、急いで言った。それと同時に、宮本昭子さんも立ち上がろうとしたが、薬でバランスを崩しており、転んでしまった。

「あら、この人は、今利用している利用者さん?大変ねえ。そんなふうになるまで自分を追い詰めなければならなかったのでしょう?あたし、面白い落語のカセットテープ持っているから、貸してあげようか?」

恵子さんはカバンの中から、カセットテープを一本出した。桂歌丸師匠の落語である。

「でも私が。」

昭子さんは、小さな声でそう返すが、

「ああいいのよ。もとにするディスクは家にあるし、何回も取り直せば、同じことができるわ。だからこれ、あなたにあげるわよ。そんなふうに自分を追い詰めるんだったら、こういう面白いのを聞いて、笑わせてもらいななさいな。」

恵子さんはにこやかに言った。

「ありがとうございます。」

昭子さんは、小さな声でそう言って、それを受け取った。

「それで、水穂ちゃんはどうしてる?」

恵子さんはそうきくと、

「寝てます。ずっと咳が止まらなくて、非常に困ってます。」

ジョチさんはあっさりと言った。

「それで、ご飯はちゃんと食べてるの?」

恵子さんはまた聞くと、

「それは見てくれればわかります。」

ジョチさんはしたり顔で言って、恵子さんに四畳半に行くように言った。恵子さんは、わかりましたと言って四畳半へ行った。

「水穂ちゃんどうしてる?元気?」

恵子さんは、そう言ってふすまを開けると、水穂さんは布団に座っていて、えらく咳き込んでいた。とてもつらそうだった。杉ちゃんに背中を叩いてもらったりしているが、それでも辛そうだった。

「何だあ。みんなお正月を祝おうという気分じゃないのね。なんか、ちょっと寂しいなあ。まあ確かに、いろんな災害やら事件があるけどさ、でも、みんなで15日粥を食べられるくらいの楽しい気持ちになれることはできないかな。」

恵子さんは、大きなため息をついた。

「あそこにいた、オーバードーズの女性といい、なんかこの製鉄所も楽じゃないみたいね。」

「まあそういうことなんだ。今年は特に、楽じゃない一面が強調されちまってさ。とても、伝統行事を祝うような気分にはなれませんな。」

そういう恵子さんに、杉ちゃんは言った。

「そうかあ。あたしだけか。15日粥作って、みんなでお祝いしようって、水郡線と、東北新幹線と、東海道新幹線を乗り継いでここまで来たのに。」

恵子さんは、つまらなそうに言った。それと同時に水穂さんが更に咳き込んでとうとう朱肉のような内容物を出したため、恵子さんは更にため息を付く。

「まあそういうことだ。今日のところは帰ってくれるかな。水穂さんとても動かせるような感じではないから。」

杉ちゃんに言われて、恵子さんは、

「なにか私も役に立てるようなことは無いかしら?」

と、嫌そうな顔で言った。それと同時に、少し体調が落ち着いて来たようで、宮本昭子さんが、杉ちゃんたちの方へやってきた。

「あら、無理してあるかなくてもいいのよ。薬が体から抜け去るまで、横になってるとか、そういう事したほうがいいのではないかしら?」

恵子さんがそう言うと、

「いえ、恵子さん、あたし、せっかく恵子さんが来てくださったのに、申し訳なくて。」

昭子さんは申し訳無さそうに言った。

「そうか、それじゃあ、もしよければ、田子の浦漁港でも連れて行ってよ。あたし、山ばっかり見てるから、もうずっと海を見てないのよ。」

恵子さんは明子さんにいった。

「ねえ。ここから、タクシーで行けば、すぐ行けるでしょ。あたし、タクシー代くらい払うわよ。ちょっと海に連れて行ってよ。あなたも悩んでいたことがあるんだったら、外へ出て、発散するのが一番よ。」

いきなり恵子さんがそういい出したので、みんなびっくりする。それを聞きつけたジョチさんが、

「じゃあ、行ってくればいいじゃないですか。昭子さん、恵子さんと一緒に、田子の浦漁港に行ってきてください。今日は寒いけど、風は吹いていないから、それでは、穏やかな海が見られるんじゃないですか?」

と、にこやかに笑っていった。そこで、昭子さんはそうすることにした。恵子さんと昭子さんは、恵子さんが用立ててくれたタクシーに乗って、田子の浦漁港に向かった。

30分ほどタクシーに乗って田子の浦漁港についた。二人は、帰りも呼び出すとタクシーの運転手に言って、とりあえず、田子の浦漁港の駐車場でおろしてもらった。

「あーあ、やっぱり海はいいわあ。あたし、東北の山ばっかり見てるでしょ。だから、海が恋しかったのよ。こんなにきれいだとは思わなかったわよ。いいわねえ。山も海も、穏やかなとこでさ、静岡は。」

と恵子さんは大きな伸びをしながら、そういったのであった。確かに海は穏やかであるし、波もたっていない。そして港の奥の方には、大きな船が停泊し、荷物の受け渡しをしている様子が見えた。

「いいわねえ。こうして、普通にいろんな作業が行われているって。なにか劇的な事があってそれを乗り越えただけがすごい人生じゃないわよ。あたしは、そう思ってる。人生なんてそんなものよ。でも、やってることはすごいって。」

恵子さんは、にこやかに笑ってそういうのだった。

「あたしはね。どうせ郡山に帰れば、小濱くんのご飯を作って、家の掃除をして、そういうことしかしてないわよ。いろんなことで彼に頼りっぱなし。今日だって、彼は今頃個展の会場で、でっかいくしゃみしながら、美術学生とはなしをしたりしてるわよ。あたしは、絵のことは何もわからないし、彼の尊敬している古賀春江さんのことだってほとんど分からないで、ただの付き人みたいな生活してるけどね。でも、今はそれが幸せだと思ってるの。」

「一体何を言うのですか。そんな身の上話なんかされてもあたしは、かわれませんよ。」

昭子さんは恵子さんにそういうのであるが、

「まあ誰でも変わることはできないと思うわよ。だけど、そうやってさ、生活できているんだから、それで嬉しいと思わないと行けないんじゃないかしら。それをしないと、人間幸せにはなれないわよ。やっぱり、生かしてもらっているんだって気持ちになれないとね。」

恵子さんはにこやかに笑ったまま話を続けるのであった。

「どんなにものがあったって、恵まれていたって、それを感じられないと、幸せって感じられないのよね。たまにはさ、こうして海に来て、ボーッと眺めてみるのも悪くないわね。それは、なんか頭をリセットさせるために、必要なことなんだろうな。いいわよねえ。こういうところに来れて、嬉しい気持ちになれるなんて。」

「そうなんですね。恵子さんは、それを感じられるから嬉しいですよねえ。私は、そんな事何も感じられないんです。なんかもう私はいらない存在なんだって言う気持ちが頭の中でずっとするんです。まあ簡単に言えば、死んでしまいたいってことかな。それしか、今思いつかない。」

と、昭子さんは、辛そうに言った。

「そうなんだ。じゃあ、なんでそういう事を、思ったのか、話してみてちょうだいよ。あたしは、悪い方にはしないわよ。ただ、一人で溜め込んでいると、本当に辛い思いをするって言うのは、あたしも知ってるし、そういう世界にいってしまったこともあるわ。」

恵子さんは明子さんの肩を叩いてそういった。

「そうですね。恵子さん。実は、私、学校でいじめられてそれ以来、不登校になって、そのまま精神疾患と言われてしまったんですけど、そのまま同じ生活をずっと続けられるはず無いですよね。私が、ずっと家に引きこもっている間、母も父もどんどん年を取っていって、父や母には、当たり前の幸せが提供できなかった。そして、母の妹の子供さんの方は、もうどんどん結婚して、子供も作って。今その子が体調が悪いことで、家に来てるんだけど。ほんと私は歓迎できなくて、なんか憎たらしい存在にしか見えなくて。それは、なんかわがままなんですかね。だけど、そう思っちゃいけないのに、そう思ってしまうのよ。だから私、どうしたらいいものか、辛くてしょうがなくて。それを忘れるために、薬を大量に飲むしかできないのよね。」

昭子さんは恵子さんに本音を漏らした。

「そうなのね。人と違う生き方をしていくっていうのは、本当に辛いものでもあるわよね。それはある意味寂しいなっていう気持ちもあるでしょうね。最近では何でも自分が悪いにしなければ行けないっていう風潮もあるし。まあ、それは辛いわよね。だけど、あたしは、それだけが全てだとは思わないわよ。それよりも、人の記憶に残っていけるような、そんな人生を送るのが、大事なんじゃないかな。それが、多分きっと、命をつなぐということもあるんじゃないかと思うのよね。まあ、うまくいえないけど。あたしも馬鹿だし、学歴も無いし、ただの調理のおばさんにしかなれなかったし。」

恵子さんは、そう昭子さんに言った。

「まあ、あたしみたいにさ、お料理っていう当たり前のことしかできない人間でもこうして生きていられるし、生かしてもらってるんだから、それを、忘れないで、生きていこうと思うのよね。まあ、色々わがままも言うけどね。でも、人間だから。寂しくなったら、こういうところ来て、自分の事再確認でもしてみては?」

恵子さんは、にこやかに笑って昭子さんに話を続けた。

「そういうわけだから。」

恵子さんは昭子さんに言った。

「薬を大量に飲むのはやめておきましょうよ。」

昭子さんは、ちょっと困った顔をした。確かに、薬を大量に飲むことで自分は精神状態を保つことができた。だけど、それによって、自分の家族を始め、他の人達が嬉しい顔をしてはいない。それに、話を聞いてくれた恵子さんは、薬を飲むのはやめようと言っている。

「そうね。」

明子さんは、小さな声で言った。

「そうよ。頑張んなくてもいいからさ。何よりも生かされてるってことが大事なんじゃないかなって気がするのよね。あたしたちなんて、地球の一部を動かすことだってできないわけだから。頑張っても無駄なことだってあるかもしれないけどね。ここでボーっとして、のんびりすることで、ちょっと気持ちを楽にしてあげれば、それでいいんじゃないかな。どうせあたしも、あなたも、自分のことしかできないし、自分の感情のことしかできないでしょ。それだって良いと思うのよ。それが人間だもん。」

恵子さんは、にこやかに笑った。

「さて、久しぶりに海へ来てなんかスッキリした。これからまた山の暮らしが始まるんだろうけど、しばらくは山の住人として、生きていこうかな。それでは、タクシーを呼び出して帰ろうかな。」

恵子さんはスマートフォンを出した。カバンの中から取り出したのと同時にスマートフォンが音を立てて鳴った。

「はい。恵子です。ああ、杉ちゃん一体どうしたの?」

恵子さんは、二言三言交わして、

「はいわかりましたわ。それでは、あたしたち田子の浦漁港の食堂でも行くわ。ええ、水穂ちゃんが回復したら、また電話頂戴。」

と言って電話を切った。

「どうしたんですか?」

と、昭子さんが聞くと、

「ええ。水穂ちゃんが、いつまでも咳き込むのを辞めないので、今から柳沢先生に来てもらうんですって。あたしたちは、ここの食堂で待っていろということでした。そこに食堂があるから、そこで待ってましょう。」

恵子さんはそういうのだった。そうなると、水穂さんもかなり辛い思いをしているのだろうなと悟った昭子さんは、

「あたしも、食堂で待ってます。」

と言った。

「じゃあ、食堂行ってようか。今日は晴れてて良い日だわ。富士山が見られて、海が穏やか。富士市は良いところじゃないの。そんな恵まれた景色があるんだから。」

恵子さんにそう言われて、昭子さんは食堂へ向かった。田子の浦漁港の海は、とても穏やかで静かに波打っていた。人の世の中は色々変わっていくけれど、海の動きだけはずっと変わらないのかもしれない。いろんな人が、いろんな悩みを抱えて生きている中、生かされていると気がついて生きている人は、何人いるだろうか。そこだけ知っていれば、自分の存在意義に悩む人も随分減少すると思うのであるが、人はそういうことに気が付かないで生活してしまうものなのである。せめてほんの少しでいいから、自分が生きているのではなくて、生かされているという戸を知ってほしい。海の波は、そう語りかけているようだ。






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増田朋美 @masubuchi4996

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