第2話 花壇に咲いた芝桜
今日も山から太陽が顔を覗かせる朝。自宅と陽馬が住むアパートが見えるこの場所で、僕はスマホの画面を見る。昨日の晩から、コミュニケーションの取り方について、と言うタイトルのサイトと睨めっこ状態が続いている。あまり、自分から誰かに積極的に話しかけることをしない僕にとって、陽馬という存在は、言わば異質な人。どう話しかければいいか、どんな内容の会話を交わせばいいのか、本当にわからない。真っ白な状態の紙に、陽馬という人物について、僕は何を描けるのだろう。
昨日の帰宅中、僕と陽馬との関係を変えそうな、とあることが判明した。
*
自宅の前には、母親が所有する車が停まっていた。帰って来てるんだ。そんなことを思いながら、僕は自宅の前で立ち止まる。
「僕の家、ここだから」
指差した僕の表情を見た陽馬がは「うそっ」と小さく呟いた。口は開いたままになっている。
「俺が引っ越してきたの、あのアパートなんだけど」
腕を伸ばし、アパートの方向を指差す陽馬。越してきたというアパートには、大家の女性(六十代後半)と、美大生の男性、老夫婦(八十代)が住んでいるだけで、残り五部屋は全て空き部屋となっているということを、以前父親から聞いていた。空いている一室のどこかに陽馬が越してきたのか。
「まさか、こんな近い距離に同級生が住む家があるなんて。こんなことあるんだな」
陽馬は驚いた表情のまま、嬉しそうに話す。
「こんなことあるんだね。僕もびっくりだよ」
三月末、アパート横の駐車場に、引っ越し用の軽トラックが停まっているのを不審に思っていたが、点と点が線となり、合致した。「あぁ、そういうことだったのか」と口にしたときには、遅かった。陽馬が不思議そうに僕の顔を覗き込んできた。
「そういうことって、どういうこと?」
「春休み中、僕、部屋の窓からあのアパートのこと何気なく見てたんだけど、ある日、見かけない軽トラックは駐車場に停まってるし、荷物の運搬もしてるようだったから、誰か住む人でも来たのかなって。アパートに前から住んでる住民以外に関する情報とか、何も耳にしたこと無かったから、不思議に思ってたんだよね。それが、今日になって、それが解消できたって話」
「なるほど。勇希に話しかけて良かった」
「確かに。話しかけられてなかったら、解消するのはまだ先だったかもしれないし」
「そうだな」
アパートに住む老夫婦の旦那さんの方が玄関を開ける。
「ねえ、勇希、お願いがあるんだけど」
「えっ、何?」
「明日から、待ち合わせして一緒に学校行きたいんだけど、いいか?」
誰かと待ち合わせて学校に行く。そんな人生が僕にも待っていたなんて。
「いいけど、朝七時半には家出て学校向かってるよ?」
「大丈夫。俺、早起き得意だから」
「じゃあ、明日ここに七時半に集合でもいい?」
「あぁ、わかった。じゃ、また明日な」
「うん。また明日」
手を振って階段を上っていく陽馬。勢いに負けてしまった僕。陽馬は一体何を考えているのだろうか。
*
学校へ誰かと待ち合わせをして一緒に行くこと自体初めての僕は、少し浮かれつつも戸惑っていた。園芸好きの隣の住人が育てている芝桜は、濃いピンクや薄いピンクの花を綺麗に咲かせている。
「おはよう!」
陽馬は手を振りながらアパートの階段を降りてきた。僕は触っていたスマホをカバンに入れる。昨日の根暗そうな雰囲気とは一変している陽馬。僕にはその姿がキラキラと輝いて見えた。僕も「おはよう」と言いながら手を振り返す。
「初日から待たせて悪いな」
「いやいや、陽馬が時間ピッタリに来たんだから、気にしないでよ」
「ありがとな、じゃあ、行こうぜ」
学校はここから徒歩ニ十分の距離にある。自転車通学も認められてはいるものの、駐輪場が狭いという理由で使用する生徒は少ない。ほとんどの生徒が徒歩か路線バスを使って通学している。そういう感じで、決して街中とは言えないこの場所に引っ越して来た陽馬。昨日からずっと奇怪に思っていることを、今、解決しよう。
「陽馬はさ、なんでこの街に引っ越して来たの?」
「うーん、今は言えないんだ。でも、タイミング見て、勇希には真実を話すからさ。それまで待ってて欲しいな」
「そっか。わかった」
あっさりと解決を断られ、次は何を話そうかと迷う。カラスは電線の上で濁声を響かせながら鳴く。仲間はそれに応えるように鳴き返す。
「転校してきた学校の制服、割と自由だよな」
「そうなのかな。前に通ってた学校の制服と違うとこ、結構あるの?」
「あるよ。例えば、前に行ってた学校だと、冬でも白シャツの上に学ランしか着たらダメだった、とかな」
「それはキツイね」
「しかも、学ランの上に羽織っていいのは、冬はコート、春先はジャンパーだけで、校舎内に入ったら絶対に脱がされてた。だから、大体の生徒は何も着ずに登校してたよ」
「脱がされるなら、僕も、最初から何も着て行かないだろうな」
「だよな。でも、ここは学ランの下にパーカーとか、色さえ守ってれば着ることも許されてるだろ? 俺、そういう学生にしかできない格好に憧れてたからさ、すげぇ嬉しいんだよな」
陽馬の声で聴く俺という一人称は、水と分離した油のように浮いている。
「学ランもカッコいいけど、ブレザーの方が僕は好きなんだよね」
「俺も。高校こそはブレザーのところに行きたいんだよな」
「もう進路のこと考えてるの?」
「俺、そんなに頭良い方じゃないからさ、そこそこのレベルの高校しか選べないだろうけど」
「ここから一番近くだと、三つ先の街にある高校は、偏差値もまぁまぁのところで、制服は緑色のブレザーなんだよね。しかも、自由な校風でさ、中に着るカーディガンとか、パーカーとかが色々選べたはず」
「緑のブレザーか。いいな、そこ目指そうかな。将来の夢なんて、そんなもんないし。好きなこともできそうだし」
横断歩道の信号が赤から青に変わる。周りにいる大人たちに混じって歩く。
「僕も何も考えてないんだよね。全然将来像が見えないからさ、考えろって言われても困るんだよ」
「それ、俺も一緒。進路とか言われても困る。その辺決まってる人たちが羨ましい」
ランドセルを揺らしながら走っていく小学生。大人同士の間をすり抜けていく。
「そう言えば、五月に一回目の進路希望調査するとか、しないとか。なんか、春休み中に少しは考えておくようにって、一年のときの担任が言ってたような…。あー、何も考えてない!」
「勇希が考えてないなら、俺一人じゃないってことだ。ラッキー」
陽馬は小さくガッツポーズする。視線の前に小さく佇む学校。まだ、陽馬との会話は止まりそうにない。
「おはよう!」
会話が長く続いた嬉しさのあまり、テンション高く教室のドアを開けた僕は、思わず「ごめん」と謝ることになった。それは、教室内で島原という女子生徒が、座って静かに読書をしていたから。島原はクラスで一番存在感が薄い。でも、そんな島原はとても可愛らしい顔付きをしていて、一部の男子からは人気がある。そういった意味では、存在感を発揮しているのかもしれない。
僕の後ろから陽馬が島原に向かって「おはよう」と言ったあと、「島原さん、だよね? よろしく」と優しい口調で声をかける。島原は驚いたのか、手に持っていた分厚い本を机の上に落とす。島原は慌てて落とした本を手に、「よろしくお願いします」と小さな声で一礼して、逃げるように教室から出て行った。陽馬は「逃げなくてもいいのに。ね、勇希」と、少し首を傾げながら聞いてきた。口調からも、顔付きからも想像ができないようなあざとさを前面に見せる陽馬。とてもクールな奴には見えない。
「うん、確かにね。島原も陽馬のカッコよさに見惚れたんだと思うよ」
僕がそう言うと、「そんなことないよ」と陽馬は照れ笑いをする。
ワックスがかけられたばかりの床は、朝日に照らされて傷も悪目立ちするほどに光っている。隣同士の僕らは、クラスメイトが来るまでの間、常にしゃべり続けた。
「おう、勇希」
「おはよ、成瀬」
「おっ、三好もいるじゃん。よろしくねー」
成瀬はいつものように軽いノリで陽馬に話しかけ、手を差し伸べる。女子の転校生ではなかったことに、最初は落ち込んでいるように見えたが、もうそんなことはないようだった。
「成瀬君、よろしく」
陽馬は戸惑いながらも手を掴み握手を交わす。その様子を見て、なぜか僕の心の奥が痛む。
「成瀬、あんな感じだけど、悪い奴じゃないからね」
僕は小声で陽馬に話しかける。陽馬は小刻みに頷きながら、「わかった」と言った。
時間が経つごとに、生徒が続々と教室に入ってくる。クラスの女子のほとんどが、満面の笑みを浮かべて、陽馬に「おはよう」と挨拶をしていく。普段、男子と絡むことのない女子までもが、ニコニコしながらやってくる。一瞬にして囲まれた陽馬の姿を、直視することはできなかった。僕はこう心に誓った。今だけ、今だけ我慢しよう、と。
「おはよー、勇ちゃん」
「お、おはよ」
突然目の前に現れた千夏。いきなり話しかけられたことに驚き、上手く声が出なかった。
「何見てんの? え、まさか、女子?」
千夏は悪そうな顔をしながら聞いてくる。僕は女子を見ていたわけじゃないのに、焦慮してしまう。
「っんなわけねーだろ!」
「なんだぁ、つまんないなー。てか、どうだった? 私が言ったこと当たってそう?」
千夏の言ったことに僕はハッとした。そう言えば、まだ陽馬の私生活に迫るような質問をしたことがない。ヤバいという顔を無意識のうちにしていたのか、千夏は「はぁ」と息を吐いた。
「今日こそ聞いてよね。勇ちゃん、そういうとこ、いっつも抜けてるんだから」
指導するかのような口調で注意された。いつものことだ、と自分に言い聞かせる。
「はいはい、聞いておきます」
千夏は去り際、僕の腕を抓った。痛っ、と言いそうになったが、唇に力を入れて我慢する。千夏は不敵な笑みを浮かべて僕の前から去っていった。
予鈴が鳴っても陽馬の元から離れなかった女子たちも、チャイムが鳴ると一斉に戻っていく。久保先生が前方のドアをガラガラという音を立てながら開け、中に入ってきた。今日は魚がデザインされたネクタイを着用している。今日の給食メニュー、焼き鮭に合わせたのだろう。魚は今にも動き出しそうだった。
授業開始から足早に一時間目、二時間目と時間が過ぎていく。真面目に授業を受けながらも、常に陽馬のことが気になって、横を見てしまう。陽馬は真剣な表情で授業を受けていて、その姿にまたも惹かれてしまう。三時間目、苦手教科の社会を乗り越え、四時間目の体育を終えてからの給食。生徒たちは体育のあとということもあってか、配膳された給食が減るスピードは速いものだった。一方で、陽馬は一口ずつ丁寧に、美味しそうに給食を頬張っている。僕が「おいしいでしょ」と言うと、陽馬は僕に微笑みを返す。自分がこの給食を作ったわけじゃないのに、なぜか心嬉しく、微笑んでしまう。
昼休み後の掃除を終え、眠気に耐えながら受ける五時間目。声のトーンをまったく変えず、一定のスピードで教師が教科書を読むだけの理科。重たくなる瞼、閉じていく瞳に映る陽馬の姿。僕はその陽馬に優しい眼差しを向けたが、目は瞬間にして丸く、大きく開く。瞳に映ったその姿は、陽馬ではなく理科担当教師だった。
「田代、今は授業中だろ。寝るなら休み時間にしてくれよな 」
「すいません」
周りの生徒たちは、僕の様子を見て笑っていた。千夏は僕に向かってノートを見せてくる。良く見ると、寝ている僕の似顔絵がキャッチ―に描かれていた。口パクで「や・め・ろ」と伝え、そして悪戯に笑う。千夏もまた笑う。担当教師は手を叩きながら、「笑う暇があるなら、授業に集中しろよな」と真剣な表情で言う。生徒たちは、担当教師のことを少しだけ馬鹿にした様子で「はーい」と軽々しく答える。僕を見ていた陽馬は、優しいトーンで「大丈夫か?」と聞いてきた。僕は大きく頷いて答える。
授業はすぐに再開され、進んでいく。眠気を感じながらも、僕は頬の色んな場所を抓りながら、寝ないように耐える。隣では、僕と同じように頬を抓りながら授業を聞いている陽馬の姿があった。同性なのに、胸がときめいてしまう。
六時間目の授業を終えるチャイムが教室中に鳴り響く。授業を担当していた久保先生はそのまま教室に残り、明日の連絡事項を伝えていく。
「最後に、今から回すこの手紙は、必ず、保護者の方に渡してください。勝手に捨てたりしないように」
前から順に回されてきた手紙には、春の遠足に関する情報が書かれていた。
「今日の連絡事項は終わりだ。明日も元気に登校してくるように。以上」
日直が号令をかける。久保先生が教室を出て行く前に、運動系の部活動に所属している生徒らは、荷物を抱えて、忍者のような素早い動きで教室から去っていく。
「理科の授業、俺も寝てたけど、勇希のおかげでバレずに済んだ。ありがとな」
ロッカーに荷物を詰め込む僕に声をかけてきた成瀬。肩から新品と思われるスポーツバッグを掛けている。
「なんだよ、それ。まぁいいや。今日から部活始まるんだろ? 頑張れよ」
「おう、サンキュー」
「じゃ、また明日」
「また明日」
成瀬はサッカー部の仲間らと共に、教室を出て行った。
リュックに教科書を入れている陽馬に声をかける。
「陽馬、お待たせ。帰ろう」
「そうだな」
少し嫉妬しているような表情を見せながら答える陽馬。
「なにかあった?」
「成瀬君とも仲が良いんだね」
「まぁ、小学生の頃からの知り合いだし、一年のときも同じクラスだったから。陽馬も成瀬と仲良くなれると思うよ」
廊下からドア越しにこちらをチラチラと覗いては、キャーキャーと高い声をあげる隣のクラスの女子たち。視線の行く先は僕ではなく、陽馬のようだ。
「いや、俺…いるから」
僕はその女子たちの存在が気になり、陽馬の言ったことが聞き取れなかった。教室では、これ以上会話はできないと思った瞬間、陽馬は自分のことを覗く女子たちの元へ歩を進めていた。
「悪いけど、そこ通る人たちの邪魔になるから退いてもらってもいいかな?」
甘い声を出しながら注意した。女子たちは陽馬の注意を素直に聞き、歓声を上げながらその場を立ち去った。
「ごめん、さっき何て言ったの? 聞き取れなくて」
「ううん、何でもない。気にしないでくれ」
陽馬は僕のことを見ずに答える。僕は気にしないフリをすることにした。カバンを背負うと、教室に残る生徒数名が「じゃあね」と声を掛けてきたため、「また明日」と返事をした。
陽馬に注意を受けて逃げて行った女子たちは、教室を出てすぐに、歩く僕らを追いかけ始めた。
「ねえ、後ろ付いてきてるけど、いいの?」
「ほんとは気になるけど、さっき注意したばっかだから。今日はいいかな」
「陽馬って優しいよね」
「そんなこと言ってくれるの、勇希だけだな」
「え、どういうこと?」
「いいから、早く帰ろうぜ」
「そうだね」
帰ろうとする生徒たちで溢れる玄関。上履きから靴に履き替えていると、陽馬の声で「なにこれ」と聞こえた。声がした方向を見ると、陽馬は一通の手紙を手に持っていた。
「どうしたの?」
「手紙入ってた。俺宛みたい」
追いかけてきた女子たちは、下駄箱の隅から僕らのことを覗いている。その内の一人は胸に手を当てたまま、こちらを見ている。ということは、周りの女子たちは陽馬の気がないということか。
「とりあえず持って帰ったら? ほら、まだ追いかけてきてるから」
「あぁ、そうする」
学校の花壇に植えられた白の芝桜は、一時的に降った雨と燦燦と輝く太陽によって煌めいている。花から落ちる水滴は、儚くも美しかった。
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