パンケーキ

成規しゅん

第1話 さくらの花弁

 例年よりも早めに咲き揃った桜の花も大部分が散り、葉桜の状態になっている。桜の花びらは無残にも踏み潰され、アスファルトの上に張り付いている。

 昨夜の雨で濡れたままの地面を踏む。その度に桜の花びらが可哀そうに思えてくる。

 誰もいない教室。黒板に書かれた新担任からの熱すぎるメッセージ。綺麗に並べられた机。空のロッカー。何も貼られていない掲示板。新学期を迎える準備が整えられた空間は異彩を放つ。静寂の中、教室の空気を吸うが、思わずむせてしまう。掃除されているはずの教室の隅に残された埃は寂しさを感じさせる。

 黒板に貼られた座席表。自分の席だけを確認しようとしたが、自分の席の右隣に見覚えのない苗字が記載されていることの方が気になった。同級生の苗字だけは一通り把握しているためか、そこだけが光って見える。でも、新しい学級になったからといって、親しい友人をつくるつもりはない。自分にはアイツがいるから。

 カバンから表紙に小さな傷や折れ目が付いた小説を取り出す。小学四年生のときに、もらったお年玉で購入した本。ジャンルは、ミステリー系。今でも不思議に思うのが、それまでミステリー、かたや小説なんてものは、自分から選んで読んだことなどなかったのに、その本は僕の心を奪ったということ。一目見た瞬間、あ、これだ、となぜかピンときた。初めて読んだとき、よく分からないストーリー展開に頭を悩ませた。ちゃんと理解したい。そう思うようになった僕は、朝の読書の時間には、毎回この本を読むようになっていた。それから三年。今でもその習慣が続いていて、他の小説に目移りすることは一切なかった。常に持ち歩いているお気に入りの一冊。ページの所々に付いた折皺やシミは、いつ付いたかなんて、僕にも分からない。それでも、読書の世界に入り込めば気にならないでいる。少し開いた窓から入る春風は心地よいリズムで流れ込む。花壇に植えられた花の匂いを感じながら、その一ページ目を捲る。

 予鈴が鳴る。手に持つ小説を閉じた瞬間、女子たちの妙に甲高い声色で繰り広げられる会話が耳に届き、僕は思わず耳を閉じてしまう。朝礼開始の時刻が迫る教室にいる生徒たちは、楽しそうに会話をしている。その会話を騒がしいと思いつつも、微笑ましく聞いていると、二年連続で同じクラスメイトとなった成瀬が、いきなり「おはよ、勇希」と挨拶してきた。そんなノリで話してたか? と少し疑問に感じながら、「おはよう」と挨拶を返す。

「なっ、知ってるか? うちのクラスに転校生来るらしいぜ」

眼鏡の奥の目を光らせながら聞いてくる成瀬。勝手に女子が来ると決めつけているのか、やはり浮かれているように見える。見覚えも、耳にしたこともない苗字は、転校生の名前なのだろうか。

「いや、知らないけど。それ、どこ情報なの?」

「はぁあ? いやいや、玄関にはクラス分け、黒板には座席表貼ってただろ? まさか、見てないとか言わねぇよな」

「自分の名前しか見てなかったわ。悪いぃ」

その場のノリで手を合わせ、頭を軽く下げる。すると成瀬は少し呆れたように、でも明るい笑みを浮かべ、「勇希らしいな」と言って、喧騒の中に浮かれた気分のまま飲み込まれていった。

 教室は二十四人の生徒で溢れる。人数の割には狭く感じる教室。成長期ど真ん中の僕らだからか、狭く感じてしまうのかもしれない。

 女子グループの中で、ひと際大きな声を発し、会話をしている幼馴染の副島千夏そえじま ちなつの姿が、僕の目に映る。千夏と知り合ったのは保育園に通っていたころ。家が近所にあり、千夏だけでなく、千夏の姉も含めてよく一緒に遊んでいた。天真爛漫な性格は今でも変わらず、中学生になってからは男子ウケも女子ウケも良く、学校中で千夏を知らない人はいないほどの有名人。周りからは「勇希と千夏で付き合えば?」と言われるが、千夏とは友達以上、恋人未満の関係性でいたいと思っている。千夏の気持ちを聞いたことはないものの、僕と同じ考えでいるだろうと決めつけている。千夏は僕が送る視線に気付いたのか、こちらを見て微笑み、「今年も一緒でよかった! よろしくね!」と手を振りながら言ってきた。歯を全面的に見せながらの笑顔、千夏の無邪気さが表れた瞬間。僕もにこやかに手を振り、「おう、よろしくな!」と答える。千夏は不格好なウインクを返す。千夏はいつまで経ってもウインクができない。それも愛おしい。

 チャイムが鳴る中、ドアが開い音が微かに聞こえた。すると、騒がしかった教室が一瞬にして静まり返った。視線をドアに向ける。左隣に座る女子が「うわ、最悪」と呟き、項垂れる。心の声がダダ洩れだった。中に入ってきた先生は、八割厳しく、残り二割が面白いと有名な久保先生。派手なネクタイが印象的な先生だ。しかし、今日は紫と白のストライプ柄のネクタイを締めていた。

 「チャイム鳴っただろ」

その一声で、立っていた生徒は慌てて自分の席に座る。僕の右隣の席には誰も座らない。やはり、転校生の席なのだろうか。

「今から新しい仲間を紹介します」

男子は女子を、女子の大半は男子の転校生を期待しているようで、勝手に盛り上がりを見せる。

「中入って」

久保先生が誰かを呼び込む。皆の視線の行く先はドア。緊張した足取りの人物は、赤いリュックを手に持ったまま、教卓の横に立つ。学ランを着ているから、生徒だ。どこか根暗そうに見える生徒だが、俯き加減の顔からも分かる、中学二年生とは思えない美貌の持ち主。女子人気は間違いない顔だろう。その生徒からはキラキラとしたオーラが放たれ、「何この人」と思わず口にしてしまう。僕の心は刹那に射貫かれた。

「自己紹介して」

久保先生はその生徒に促す。彼は顔を上げた。

三好陽馬みよし ひうまです。お願いします」

自己紹介した彼の声は高く、クールな顔と声のギャップに、またも心奪われる。

「みんな、三好君と仲良くするように」

生徒たちは素直に返事する。中には可愛い声を無理に出す女子までいた。

「あそこの席に座って」

久保先生が指差したのは、僕の隣の席だった。彼は席と席の間を縫うように歩いてくる。彼が横を通るだけで女子たちが、「イケメン」「カッコいい」と口々に言う。面白いぐらいに乙女の顔付きになっていく。

 久保先生は開いていた名簿を閉じ、脇に抱えた。

「始業式が行われる体育館に移動。出席番号順に並ぶように」

「はい」

席を立った生徒たちは、ぞろぞろと仲がいい人たち同士で列を成し、体育館へと移動していくが、やはり転校生の三好陽馬に興味があるのか、イケメン好きな女子生徒を中心に、皆が彼の周りに群がったまま進んでいく。千夏の背中を見ながら歩きながら、「アイツも、やっぱり興味あるんだろうな」と心の中で呟いたそのとき、誰かが僕の肩を叩いた。振り向くと、さっきまで前を歩いていたはずの千夏が、不気味な笑みを浮かべながら立っていた。

「誰があの転校生君に興味があるの?」

千夏は僕が心の中で呟いたはずのセリフを言う。

「え、まさか」

「聞こえてないとでも思ったの?」

「え、聞こえる声で言ってた?」

「うん。でも、他の人たちには聞こえてないと思うよ」

「ならいいけど」

背中に一筋の汗が流れていった。

「それより勇ちゃん、何か考えごとでもしてた?」

「なんで」

「私の後ろを歩いてくる勇ちゃんを一回呼んだんだけどね、反応がなかったから、そのまま勇ちゃんの後ろに回って、肩叩いたの」

「叩かなくても、千夏の声で呼ばれたら絶対反応するって」

「嘘。さっき反応しなかったじゃん。だから何か考えてることでもあるのかなーって」

「いや、何も考えてねぇよ」

「私には、そうは見えなかったけどなぁ」

考えていることがあるとすれば、転校生、三好陽馬の存在。

「勇ちゃん、転校生君のことどう見る?」

千夏は僕の心を読み取り、声色を変えて聞いてくる。

「どう見るって言われてもな、分かんねぇ」

「私はね、あの転校生君は、努力すれば勉強も運動もできるし、一時期はモテモテなんだろうけど、なぜか人気者にはなれないタイプかなって思う。何となくパッとしないと言うか。んー、何考えてるか分からないから、その辺、色々気になる人物だな」

千夏の話し方は事件の犯人を捜す探偵そのもの。まるで刑事ドラマでも見ているかのような感覚に陥る。

「そう見てんだ。ま、千夏がよければ、それで良いんじゃね?」

「えっ、なんか他人事すぎて嫌なんですけど」

「そんなことないだろ」

僕は素っ気ない態度を取る。諦めが悪い千夏は執拗に「どう思う?」と聞いてくる。

「だから、千夏みたいに分からねぇんだよ。ほら、早くしねぇと久保先生に怒られるぞ」

背中を軽く押し出す。反動で体が前のめりになるも、持ち前の体幹により、姿勢を戻す。そのまま僕の方を見ながら前へ走っていく。千夏は何かに意地になっている様子で、「そんな態度取ってたら女子に嫌われるよ!」と、そこら中にいる人たちにまで聞こえるような声量で叫んできた。

「こんな態度取ってんのは千夏だけだって。ほかの女子にはしねぇよ!」

そう言い終わったころには、千夏の姿は瞳に映らなくなっていた。移動中の廊下に舞い落ちてきた淡いピンク色の花弁。「Nem’oubliez pas《ヌ・ムビリエ・パ》」。誰かが僕にそう声をかけた。


 「今から保護者の方の同意が必要な手紙を回す。来週までに返事を貰ってくるように」

「はい」

前に座る生徒から渡されてくる手紙。隣に座る彼は、受け取った手紙を見てから、なぜか机に伏せていた。

「明日から本格的に授業が始まるからな。元気に登校するように。以上」

久保先生の合図で、日直の生徒が号令をかける。

 生徒らは、渡された教科書を机の上に出したまま教室を出て行ったり、リュックやらスクールバッグやらを背負い、教科書を全てロッカーに放り込んだあとに教室を出て行ったりと、全体としてまとまりがない状態にしていく。

 そんな生徒を横目に見ながら、歴代の先輩たちによって使い古されたロッカーに教科書を入れていく。壁に掘られた愛羅武勇の文字。勇の文字を見るだけで恥ずかしくなり、頬が赤くなる。昔から変わらない自分の変な癖。頬の熱を逃がしながら最後の教科書を入れ終え、立ち上がろうとした瞬間、千夏に腕を掴まれ止められた。

「なんで話しかけないの?」

彼に聞こえないよう耳打ちするように聞いてくる。話す口調から少し苛立っている様子だ。

「なんでって言われても、困るって」

僕も千夏に合わせ、小さな声で話しをする。

「困らないでよ。例えば、『出身はどこですかー?』とか、そんな感じで話しかければいいんだから」

「え、今から話しかけろってか?」

「今しかないでしょ。みんな帰ってくし。ほら、行った行った」

そう言って千夏は僕の背中を押す。千夏が背中を押した反動で、掲示板を眺める三好陽馬に当たりそうになった。

「あっ、ごめん」

僕は咄嗟に彼に謝る。彼は少し笑って、「彼女と仲いいんだな」と声を掛けてきた。戸惑う僕に、「田代勇希たしろ ゆうき君、だろ?」と優しく聞いてきた。出会ったばかりの人間にフルネームで呼ばれ、胸がドキッとする。

「あぁ、あいつとはただの幼馴染なんだ」

「へぇ、そうなんだ」

初対面の人間に、少し偉そうな態度を取ってしまう。今まで同じ時代を過ごしてきた生徒に対応するときの口調。直すべきだな、と勝手に一人で反省する。千夏は僕と視線を合わせないように、ひとり空を眺めていた。

「それより、もうフルネームで覚えてるんだね。なんで?」

「なんで、って、まぁ、君だけ特別な存在に見えたから、かな」

彼はハニカミながら答える。嘘をついているようには聞こえなかった。

「そうなんだ」

特別な存在とは何なのか。胸の奥にチクチクとした何かが刺さった。初対面の人との会話を盛り上げる術をまだ習得できていない僕。次は何の話を振ればいいのだろうかと迷っていると、「俺と一緒に帰ってくれない?」と彼の方から誘ってきた。意図することは読めないものの快諾すると、彼は赤いリュックサックを軽々しく背負い、「やった」と小さな声で喜びを見せる。

「千夏は? 今日部活ないだろ。だったら―」

「忘れてたッ、私、部活の関係で職員室に行くんだった。ごめん! また明日ね!」

千夏は誰にでも分かる嘘をついて、教室から足早に出て行った。彼はまたも笑いながら「彼女、おもしろいね」と言う。

「あんな奴だけど、仲良くしてやって」

「わかった」

「あ、アイツの名前は副島千夏だから」

「副島さん、か」

僕と彼以外の生徒は、既に教室を出ていた。窓の鍵を閉める。一緒に帰らなくてもいいのに、という思いはいつの間にか消えていた。

 帰り道、僕は彼の話を聞くと言う名の調査に踏み込んだ。それは、下駄箱に入れられた紙切れに千夏の字で、何かしらの情報を入手するように! と書かれていたため。面倒なことに巻き込まれた思いつつも、その紙切れを制服のポケットに入れる。最初は千夏の相手をするだけだという気持ちが強かったが、彼の隣を歩く時間が長くなるにつれ、彼の素顔を知りたいという好奇心が上回っていた。

「ほかの人はフルネームで覚えないの?」

「うん。今は苗字で精一杯。でも、毎日いたら追々覚えるだろうな」

「そうだよね。でも、同じ苗字いないから、しばらくは苗字呼びをしても問題はなさそうだよ」

現時点ではこの程度の会話しかできない。彼の素顔を知るのはまだ先のことになりそうだ。

「三好君、」

「苗字じゃなくて、陽馬って呼んで。俺、田代君にはそう呼ばれたい」

「わかった。だったら僕のことも、勇希って呼んでよ」

「おう。よろしく、勇希」

「こちらこそ。よろしくね、陽馬」

陽馬が右手を挙げる。それに応えるように僕も右手を挙げる。オレンジ色の空の元、僕らは勢いあるハイタッチを交わす。陽馬の頬に咲いた桜の花は太陽に照らされて、濃いピンク色を放つようになっていた。

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