フィナンシェの想い
@kamakurabijn
第1話 来客
俺は都会の総合大学の歯学部を卒業後、現在は出身地のO市にある歯学部付属病院に勤務している25歳の研修医。大学卒業後はそのまま大学病院に残るつもりだったが、おひとり様になった父のことが心配で大学6年の夏の歯学部生向けの就職マッチングアプリでは地元の歯学部付属病院を第一希望とし、その通りになった。俺が大学5年の初夏に母が乳ガンで亡くなった後、父は勤めていた会社から慰留されるもあっさり断って定年退職してしまい、腑抜け状態になりかけていた。現在、父は仕事はせずに株式投資をしながら年金と株式配当金で質素に生活している。
昨年暮れに帰省した際には有料動画配信サイトをTVで観られるように設定をしておいた。父はスマホから「毎日、JKアニメを観ている!」とのメッセージを送ってきたことがあった。
「それって、犯罪予備群じゃね?新聞には名前が載らないようにだけはしてくれ。珍しい名字なんだからこっちにとばっちりが来る!」と返信しておいた。
父が高校生の頃とはいうと50年程前になるのか。その頃のアニメと言えば、スポーツ根性ものか、魔法使いか、変身ロボット系くらいしか無かったそうだ。俺自身もTVでJKアニメを観た記憶はない。
まじめ一筋で働いてきた男性が定年退職と同時に何かにはまる、何かにのめり込むという噂は聞いたことがある。それがよりによってJKアニメとは。
アニメはいいけど、リアルJKには興味を持たないでくれ、オヤジ。この辺りには県立高校が4校と私立高校が7校ほどある。通学途中のJKを眺めるようになっていたら変態だ。超ヤバい。我が家の前の道は幹線道路には繋がっているが、裏道になっており、通学の自転車が通ることはまずひとまずひとまず安心だ。
父の書斎兼寝室のドアはいつも開放されている。かつて母に、お父さんの部屋は臭い、加齢臭の匂いがするとか散々言われて、それ以来ドアは開けっぱなしになっている。今年の4月から父と再び一緒に生活するようになって、その部屋に大きな変化が起きていることに気づいた。北面の壁に若い女性の豊満なおっぱいの写真が貼ってあるのだ。母が元気なときにそんな物でも貼ってあろうものなら、きっと破り捨てられていただろう。
父に訊いてみた。
「あのおっぱいの写真は誰なん?」
「ああ、あれか。父さんも知らん」
「はあ?ファンの女性じゃないの?」
「誰でもいいんじゃ。毎日おっぱいの写真を見ていたら長生きするって聞いたことがあるから、週刊誌のグランビアを貼っておいた。リアルを見るのは無理だから写真にした」
「そんな説なんか聞いたことねえし。誰が言ってたん?」
「40年ほど前、なんかで聞いた」
「はあ?いつの時代の話なんだよ」と、呆れながら。俺はプラセボ効果なんだと思った。いわゆる偽薬である。ブドウ糖であっても服用する本人が有効な風邪薬だと思えばちゃんと効くことがあるというアレである。高齢者の言うことを全否定してはいけない。ややこしいことになる。おっぱいのグラビア写真を見ているだけで長生きできると思っているならそれに越したことはない。
「それなら、いいんじゃね」
と俺はこの話を切り上げた。少なくとも、父の部屋にJKアニメ関連のグッズとかJKの写真とかがなかったことにほっとしていた。
何かをするのが億劫に感じるようになったら認知症の始まりかもしれないと、かつて父自身が言っていたことがある。父は田舎で一人暮らしをしていた祖母を定期的に訪ねていたのだが、食後の箸も茶碗も洗わないで食卓にそのままにしている実母を見てヤバいと感じたそうだ。その後、父が訪ねていった時には、「イギリスからいつ戻って来たん?」と訊いてきたそうで、父はイギリスに出張したこともなく、この10年はずっと国内で働いていたので、実母がとうとう認知症になったとショックを受けたそうだ。
俺は父がおひとり様になって認知症になっていくのが怖かったので、実家で同居しながら父が一人でも暮らしていけるように見守り、指導していこうと決めたのである。当然、認知症予防のために、無職の父には掃除・洗濯・料理を担当してもらうことにした。
父はとてもわかりやすい料理本を買ってきて使っている。素材別のメニュー構成と見開きに6つのメニューという豊富なバリエーション。そして何よりどのメニューも手順が3ステップに統一されており、調理時間は10分か15分のメニューが多いことがお気に入りの理由になっている。手順は次の3つ。
① 素材のカットと調味液の準備
② 炒める/煮る/焼く
③ 味付け/タレと絡める/盛り付け
確かにこの3ステップだけで10分で完成するなら作ろうかという気になる。これなら俺でも簡単に料理はできそうだ。父は外食があまり好きではないらしく、この数ヶ月で父と外食したのは回転寿司のチェーン店が2回と近所のハンバーグレストランが1回あるだけだった。父は毎日黙々と夕食を準備してくれている。この調子なら父はおひとり様でも今後も何とかやっていけそうだ。そう思ったので、付属病院勤務は1年で終わりにして、来年度からは大阪のクリニックに勤務変更しようと考えていた。
同居しはじめて8ヶ月が過ぎた12月12日。僕はその日も18時に職場からスマホで「晩ご飯7時で」と父にメール送信した。それから、PCのメールをチェックし、白衣を脱いでジャンパーを羽織るといつものように自転車で帰宅した。病院から我が家まで約25分。家に着いてリビングのドアを開けた瞬間、一瞬だけど女性のシャンプーのような甘い香りがした。気のせいか?父は今日散髪にでも行ってきたのだろうか。まさか、父はシャンプーを使う必要がない。父は丸刈りなのだ。父によると丸刈りは3ミリから9ミリまで1ミリ単位でカットできるそうだ。しかも一般の調髪よりも100円安いそうだ。頭頂部はほとんど髪の毛がないので、カット後はシャンプーではなく石けんで洗ってもらっていると聞いたことがある。
来客でもあったのだろうかと思いながらリビングを見渡したが、いつもと何ら変わりはない。ソファの上には膝掛けが置いてある。コーヒーテーブルの上にはいつもと同様に付箋が沢山付いた父の本と四季報が山積みとなっており、その隣に新聞が置いてある。
白くて大きなダイニングテーブルの上には既に綿製の紺色のランチョンマットが二つ敷かれ、夕食の小鉢がいくつか並べられていた。父がいつも株式投資で使っているPCも閉じた状態でテーブルに置いてある。いつもと何も変わらない風景だなと思いながら、7時までTVでニュースでも観ようかとリモコンを探すが、ソファの上にあるはずのリモコンがない。テーブルの上にも無かった。キッチンで盛り付けをしている父に
「オヤジ、リモコンはどこにあるん?」と訊くと、「TV台の上!」と。確かにそこにリモコンはあった。
「はあ?ここに置いたらリモコンの意味がないじゃん!もう!」
と叫んでから、これは何かおかしいと気がついた。
いつもソファでゴロゴロしながら動画配信サイトでJKアニメとかを観ている父が、わざわざリモコンをTV台の上に置く必要があるのか?きっとお客さんが来るからと掃除の時に片付けたに違いない。もしかすると甘いシャンプーの香りがする女性が来ていたのかも。でも何ら確信がないので、取り敢えずバスルームに行ってバスタブの栓をして自動お湯張りボタンを押してから、ダイニングに戻って父と一緒に夕食を食べることにした。
今日の献立は赤カレイの煮付け、椎茸とゴボウと人参の味噌汁、ベビーリーフときゅうりとミニトマトのサラダ、ほうれん草のおひたし、それに冷奴。どちらにも細片の鰹節がちゃんと載っている。
“頂きます”をしてからオヤジはいつものようにスマホで夕食の写真を撮っている。SNSに投稿しているらしいのだが、料理関係の投稿はめちゃくちゃ多く、閲覧者数は未だに138人、フォロワー数は1人、いいねボタンは4人らしい。いかんせん、父の写真はどれを見てもシーリングライトの光が白いダイニングテーブルに反射していて、素人の域を出ない代物である。でも、健康と彩りを考えた料理がヨーロッパ赴任中に購入した綺麗な食器に盛り付けられている。数多くの食材を食べられるように考えたメニューで、食べてみるとどれもなかなか美味しい。いつの間に父はこんなに腕を上げたのだろうかと思う。
食べている途中で“もう少しでお風呂が沸きます”の音声ガイドが流れた。オヤジはおひとり様になった段階でお風呂の蓋を処分していたので今頃、浴室内は湯気がもうもうと充満しているはずである。冬の浴室は寒いので湯気が満ち溢れている方が僕にとってはありがたい。熱いお風呂が大好きな僕とぬるま湯が好きな父。当然、僕が先に入り、父は後から入ることになる。
食後すぐにお風呂を済ませた僕はドライヤーとタオルを持ってダイニングに戻り、キッチンで後片付けをしている父の背中に向かって「出たよ」と言った。父は
「それじゃ、お父さんも入ってくるわ。台所の片付けは後でする」
と洗面所に向かった。洗面所にはもう電気ストーブが用意してあった。父はぬるま湯に浸かるとなかなか出てこないことが多い。あまりにも長風呂のときには、「オヤジ、大丈夫?生きてる?」と安否確認のために覗きに行ったことはこれまでに何度もあった。
「お風呂で溺死なんて絶対やめてくれよ、オヤジ!」
お風呂場での溺死者数は年間4800人前後と交通事故死亡者数の約2倍と多いのだ。交通事故死亡者数は毎年1月に都道府県単位で新聞報道されるが、お風呂場での溺死者数はそこまで詳細に報道はされてはいなかった気がする。容易に予想される通り、溺死者数は圧倒的に高齢者が多い。
オヤジがお風呂に入っている間、俺はダイニングテーブルの椅子に座ってドライヤーとタオルで髪の毛を乾かしていた。ふと電話台の上にあるドアモニターが青く点滅しているのに気づいた。インターホンを押した来客があった証拠だ。
ドライヤーのスイッチを切り、テーブルの上に一旦置くとモニター画面に近づいた。
「再生・録画」をタッチしてみると、「ドアホン未再生9件」との表示に切り替わった。その画面をタッチすると、“12月12日午後1時31分”との音声と共に、白いマスクをした女性の顔が映し出された。これは、オヤジがインターホンで対応することなくすぐに玄関ドアを開けたことを意味している。つまり、女性はアポありでの来宅だったということになる。
我が家は、6mの南道路に面して一戸建てが12戸並んでいるうちの1軒である。その道路は西へ進めば幹線道路に出るが、東に進むと4mに細くなっていて、その先には踏切もあるので、日中の交通量は少ない。僕が勤めに出ている日中は家では父一人きりになるから、父には以前から繰り返し、訪問者があってもすぐに玄関ドアを開けないように注意していた。
「ピンポンが鳴ったら、まずモニターでちゃんと相手を確認して、それから出てな。最近は都会で手荒な強盗も相次いでいるんだから」と。
我が家のインターホンは新築当時に設置されたものだが、今となっては旧式でカメラは広角で画像が荒い上に、コマ送り状態の再生なので顔は判別しづらい。モニターで見る雰囲気では、若い女性に間違いなさそうだ。服装はというと、黒っぽいジャケットに白のインナーブラウスを着ている。
もう一度繰り返し再生して見る。気づいたことがもう一つあった。それは女性がカメラの前から玄関に移動した瞬間、前庭が映し出されたのだが、来客用駐車スペースに車が停まっていなかったことだ。我が家の前庭には3台分の駐車スペースがあり、父の白い国産車は左側に、僕の白い国産車は右側に停めている。中央は来客用にといつも空けてあるのだが、そこに車がないということは営業車での来宅ではないということだ。バスか自転車かあるいは徒歩での来訪か。
もう一回再生して、今度は画面左の自転車小屋辺りを注意して見た。我が家のシンボルツリーのシマトネリコの枝葉が邪魔して全体はよく見えないが、自転車の後輪が2台写っているのは分かった。
青天の霹靂とはこのことを言うのだろう。平日の昼間に若い女性が自転車で父を訪ねて来ていたとは驚きだ。女性は一体何者なのか?カジュアル服ではなさそうなので彼女さんではなさそうだ。ご近所さんでもない。私はあれこれと想像を巡らしてみる。いくら母の三回忌が終わったとはいえ、非モテ系の父、学生時代からヒカルちゃんと呼ばれていて頭髪がほとんど無い父。こんな父に日中会いに来る若い女性がいるとしたら、パパ活か宗教関係か営業しかないだろう。さすがにパパ活はないだろう。変な宗教に勧誘されて高額献金とか物品の購入をしていたら困るなと思いつつ、ふと気になって食器棚の中央に3つある引き出しの真ん中を開けてみた。そこには父の通帳があるはずだ。引き出しを開けてみると届いたばかりの喪中はがきの下に通帳とキャッシュカードが入ったビニールケースがあった。勝手に見てはいけないだろうと思いながら、ページをめくって見た。一瞬目を疑った。
「マジか!」
桁が違うのではないかと思われる金額の行があった。払い戻しの日は5ヶ月前の7月11日だ。落ち着いて金額を確かめてみると10,000,880円の払い戻しだった。端数の880円はたぶん送金手数料だろう。摘要は印字されていないが、一千万円もの大金をどこかに送金したのは間違いないだろう。結婚詐欺か?寄付か?どこか得体の知れない宗教団体への献金かもしれない。心臓が高鳴る。
これはヤバい!超ヤバいぞ!
いくら考えても分かる訳がない。50分後に長風呂から出てきたオヤジにそれとなく訊いてみた。
「今日昼間、誰か来た?」
「ああ、来たよ」
「誰?」
「証券会社の女性」
「えっ!?」と俺は驚いてしまった。
父が「株式投資で1億円を貯めるノート」と題したA4サイズのノートに日々の株価の値動きや取引を記録しながら、大手証券会社のオンラインで短期売買を繰り返していることは知っていた。その父が証券レディをリビングに迎え入れているとは、想定外の返答だった。
「何か取引でもしてるん?」と訊くと父は、
「投資信託を買ったよ」とあっさりと答えた。
「はあ?俺にはあれほど投信だけは買うなよと言ってたじゃん!大丈夫?騙されていない?で、いくら買ったん?」と通帳は見ていないふりをして訊いてみた。
「一千万円」
「えっ!」と俺は再び絶句した。
社会人になる前、株式投資歴40年程の父が「社会人になる息子へ」と題するレポートを準備してくれていて、金融についていろいろ教えてくれていた。
「投信は元本保証がなく、リスクを負うのは個人投資家だけで、販売会社も運用会社も証券会社もそれぞれある一定の比率の手数料が確実に入ってくる仕組みとなっている。その手数料に10%の消費税を課している国税庁も確実に税収が見込める。元本割れの損失のリスクは投資家だけが負うことになっているトンデモナイ金融商品だ」と。
わざわざスキームまで書いて説明してくれたのはオヤジじゃないか!
父子とは言え、家ではお互いのプライバシーには干渉しないことは暗黙の了解事項だった。二人とも大の大人なのだから。でも、投信を一千万円も買っていたことには驚いた。事前に相談して欲しかった。
10年間の住宅減税をうまく利用し住宅ローンは11年目に繰り上げ返済したと両親が話していたのを聞いたことがある。だから、退職金はほとんど手つかずに残っていて、軽く1千万円の余裕資金はあったはずだ。だからといって、いきなりポンと一括で1千万円も投信を買うなんて・・・。正気の沙汰とは思えない。
「何かあったん?オヤジ!本当に大丈夫なん?」
フィナンシェの想い @kamakurabijn
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。フィナンシェの想いの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます