第8話 春休みの活動・1日目

 今日は春休み。しかし、夏目は部室の前に立っていた。

 今日は文芸部の活動日だからだ。

 活動日は、今日を含めて2回。その1回目である。

 どうやら、二葉の方はまだ来ていないようだ。


「俺……部活やめる。」


 あの騒ぎの後、そう二葉が言ったので、夏目は必死に引き留めたのだが、結局辞めるのか辞めないのかはまだ聞けていない。


 夏目はため息をついた。そして、きっと今日二葉は来ないと思うことにした。

 あまり、期待はしない方がいい。期待が外れた時、悲しくなるのだから。


 夏目は、手の上の鍵に視線を落とした。

 ありふれた鍵に、古びた桃色の紐が結び付けられている。前部長にこれを渡された時、彼女は言った。


「絶対にこの紐、失くさないでね。」


 なぜ、と夏目は聞いたが、彼女は「なんでかは知らない」と言った。


「私は、自分の先輩にそう言われただけ。」


 そう言う彼女の顔は、本当に、知らないようだった。


 この紐はなんなのだろう。夏目は時々考える。そして突拍子もない考えに至っては現実に引き戻され、結局まぁいいや、と思ってしまうのだった。


***


 部室に入って、窓を開ける。少しひんやりとした風が流れ込んできて、夏目は深呼吸した。こういうとき、夏目は自分が花粉症でない喜びを感じてしまう。


「さてと。」


 夏目は、今日は部室の掃除をしようと決めていた。またあの虫が出て来たら困ると思ったのだ。

 部屋の隅から、埃まみれになった箒を取り出す。

 そのとき。


「先輩。」


 声がして、夏目は扉の方を振り向く。

 二葉が、そこに立っていた。


「ああ、来たんですか。」


 夏目は努めて冷静そうに言う。しかし内心、とても動揺していた。

 

 まず、二葉が部活に来たことが、嬉しかった。正直、来ないのではと思っていたからだ。

 そして、


『……「先輩」⁉︎』


 唐突な『先輩』呼びに、夏目は動揺していた。

 今までとは違う呼び方だ。

 今までは……そう言えば、名前を呼ばれたことがない。

 いろいろなことが重なりすぎて、夏目の思考回路はフリーズした。


「先輩?」


「ひゃっ」


 気づくと、二葉がすぐそこまで迫って来ていた。

 大きく心臓が跳ね、若干後ずさる。


「今日はなにするんだよ。」


 そんなこと聞かれても、大混乱中の夏目に答えられるわけがなく。


「自習です!」


 意味のわからないことを口走ってから、夏目は手に持ったほうきを投げ捨て、近くにあった本をつかみ、読み始めた。


 二葉は、そんな夏目を見ながらため息をつく。


『自習ってなんだよ⁉︎ 授業中かっ!』


 心の中でツッコミながら、二葉は投げ捨てられたかわいそうなほうきを端の方に寄せた。


 そしてノートを開き、絵を描き始める。

 部室が心地よい沈黙に包まれた。

 ひんやりとした空気の中に混ざる暖かい風が、二人の頬を撫でる。

 二葉は少し手を止め、窓の方を見た。


 春は、もうすぐそこ。

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