第7話
一月三日。
「藤太郎とカプアスちゃん、今日はお相撲の達人の所へ連れて行ってあげるーっ」
朝早く、すゞは近所にある道場へと案内した。葵もご一緒。ガラガラガラッと引戸を開けた。
「たのも! 諾右衛門爺ちゃん。お久しぶりーっ。あけおめ!」
「あけましておめでとうございます。諾右衛門お爺さん」
「おっす、すゞ、葵。それに皆の衆、あけおめーっ!」
諾右衛門はマワシ姿で四股を踏んだり、てっぽうをしたりして一人稽古をしていた。顔に年齢相応の皺が多数見られるものの、それ以外の肌は艶々で、まだ二十代から三十代くらいの肌を思わせるものがあった。ただ、筋肉があまり目立たずひょろひょろの痩せ型のだ。背もとても低く、藤太郎よりもさらに小さく145センチしかなかった。本当に相撲が強いのだろうか?
「この子が藤太郎か。歴代横綱の名前同士よろしくな!」
「ド○え○んみたいで面白い名前のお爺ちゃんだなあ。こちらこそよろしくね」
「そしてこちらが蝶々から変身したカプアスじゃな。よっろしく」
「よろしくですとら諾右衛門お爺さま」
「しっかし、うらやましい変身能力じゃのう。ワシのかみさんもこの能力さえあればピチピチに若返えられるかもしれんよの。今のは皺くちゃボロ雑巾じゃからのう」
「ちょいと諾右衛門さん」
次の瞬間、蝿叩きがスパンッと諾右衛門の後頭部を直撃。
「いったたたたた。すまねえ谷米ちゃん」
「どうもみなさん、あけましておめでとうございます」
「相変わらずかかあ天下ご健在だね。こちらが奥さん、谷米婆ちゃんだよ」
今朝はこの二人のおウチ=道場で朝食をご馳走になった。
「さて、もうじき八時か。そろそろ今日も挑戦者たちがやって来る頃じゃな」
しばし待つと屈強で大柄な褌姿の男達が数名、ここへ訪れてきた。
『たのも! 諾右衛門様、一番お手合わせ願います!』
全員声を揃えて大声で挨拶。
「諾右衛門爺ちゃんはね、毎朝こういったすごい力自慢の人たちと対戦しているの。谷米お婆ちゃん、今日は久しぶりにわたしが行司するね」
「ではあたしゃ、呼び出しとアナウンスをするよ。いつも全部同時にやってるから、すゞがやってくれたら本当に助かるよ」
「カプアスちゃん、藤太郎くん、諾右衛門爺ちゃんのスーパー相撲、楽しみながら観戦してね」
諾右衛門は、今日は某名人の連射数と同じ、十六名の挑戦者たちと立て続けに対戦するそうだ。
まずは一人目。
お隣信州から歩いて幾山越えてやって来た、わんぱく相撲優勝経験者。四股名は安曇カボ。小学生といえど身長百七十センチ、体重は百キロをゆうに越え、諾右衛門より遥かに大柄だ。鋭い眼つきで上から睨みつけていた。
「あの子、本当に小学生? 顎鬚も生えてるし、信じられないやあ」
藤太郎もその大きさ、年齢を疑うほどの風貌に驚く。彼も高校生であることは知らない人から見れば信じられないので人のこと言えないのだが。
【ひがあああああああしいいいいいいい、だくえええええなるうううううどおおおおおおお、だくえええええなるうううううどおおおおおおお、にしいいいいいいいしいいいいいいい、あどかあああああぼおおお、あどかあああああぼおおお】
谷米の透き通るようなアルトボイスで二人の四股名が呼び出される。粂蔵の四股名はダクエナルド。どこぞの赤いピエロで有名な某ハンバーガーショップの店名をもじったようなナイスなネーミングだ。相手も某森のバターを文字っているが。
【時間いっぱいだよ。手を下ろして、はっけよい、のこった!】
すゞの掛け声と共に、安曇カボは出だしから強烈なツッパリを何度も何度も繰り出した。諾右衛門の顔面に見事スマッシュヒット! が、諾右衛門にはその技が全く通じず、すぐにあっさりとマワシをつかまれてしまい、
「うっ、嘘ずら? 身動きとれなくなっただよ」
「ほんとじゃ、とりゃあ!」
安曇カボは土俵上にあっけなくゴロリンと転がされた。
【ただいまの決まり手は、下手投げ、下手投げで、ダクエナルドの勝ちーっ】
谷米が決まり手を告げた。
「ちくしょうーっ、おれのツッパリが全然効いてねえでだよ」
「お主はまだまだひ弱じゃな。じゃがの、将来性が大いに感じられる」
少年、安曇カボは、顔をがんもどきのようにさせて相当悔しがっていた。小学生では最強クラスの実力でも、諾右衛門相手にはまるでアリと象ほどの実力の差を見せ付けられたからだ。だが決して涙は流さない。
「次は、絶対負けねえでだよ!」
少年はそう誓い立ち去る。
徐々に徐々に相手は強くなってゆく。柔道空手剣道有段者、どこから連れてきたのかマサイの戦士なんかも参戦し果敢に立ち向かうも、諾右衛門には全く歯が立たなかったのだ。十一人目には遥々イースター島から泳いでやって来たという身長二メートル七センチ、体重二百十キロの山のような大巨漢である青年が挑んだ。だが、
「参りました。諾右衛門様」
取組開始からわずか二秒後、その挑戦者が流暢な日本語で呟ぎながら跪いていた。
「まだまだ修行が足りんよ」
諾右衛門は鼻であしらう様に一瞬で相手を一本背負い(柔道ではなく相撲の決まり手である)で投げ飛ばしたのだ。青年は空中に華麗に舞い、くるりと一回転。
「諾右衛門お爺ちゃん、本当に強いなあ」
「さすが諾右衛門爺ちゃん、まだ全然衰えてないっていうかますます力つけてるよ。いよいよあの方の出番だね。次の取組からは会場変わるよ」
ここから歩いて五分くらいのところにあるその建物。内部に飾られていた土俵後方には“DANGER”と大きく真っ赤な文字でペイントされた鉄扉、そして土俵周囲は水族館の大型水槽のように頑丈なアクリルガラスで覆われていたのだ。
「次の相手からはわたしもこの外から行司さんをするの。超デンジャラスだからね」
「この雰囲気だと、もしかして、人外の相手と対戦するの?」
「そうよ。女相撲大会の比にならないくらい獰猛で強~い相手が出てくるの」
〈十二戦目〉
後ろのゲートが開かれた。それからおおよそ二十秒の沈黙の後、
「うわぁ!」
驚く藤太郎。
出てきたのはキイロアナコンダ。地面を這ってゆっくりと花道を進んでくる。全長3メートル近くにも達するなかなかの大物だ。こいつの四股名は毒牙南米イエロー。これから登場する挑戦者たちの命名は全て諾右衛門が名付け親だという。
「オレは今からコイツと相撲を取るのじゃ。では、今から試合ならぬ“死合”というものを見せてやろう」
「諾右衛門お爺ちゃん、そんなことしたら死んじゃうよーっ」
「だっ、諾右衛門お爺さん、気を付けて下さいとらね」
カプアスと藤太郎は心配そうに見守っていた。
「大丈夫だちょ~ん!」
諾右衛門はその二人に向かってウィンクを返した。自信満々だ。
みんなガラスすぐ間近の砂被り席で眺めていた。でも砂を被る心配なし。すゞはそのすぐ側で行司を務める。
【ひがあああああああし、だくえええええなるうううううどおおおおおおお、だくえええええなるうううううどおおおおおおお。にいいいいいいいしいいい、どくがなんんんんんんんべえええええいいいいい、どくがなんんんんんんんべえええええいいいいい】
谷米の透き通るような美しいアルトボイスで一人+一匹の四股名を呼び上げると、毒牙豪州もちゃんとお辞儀し行儀よく土俵に上がった。仕付けられるらしい。
【東方、ダクエナルド、金沢市出身。西方、毒牙南米イエロー、アルゼンチン・エントレリオス州出身】
塩を飲み込み、ペッと吐き出して土俵に撒く毒牙南米イエローであった。
【この場合、手を下ろしては言わなくていいんだよね。目を合わせて、はっけよい、のこった!】
軍配が返った。すると諾右衛門は一瞬で毒牙南米イエローの首根っこをつかみに行き、ブーメランを投げるかのようにポイっと土俵下まで投げ捨てたのであった。もちろん戻ってこない。
諾右衛門は土俵下の毒牙南米イエローに肩を貸し、土俵上に戻す。毒牙南米イエロー一礼して、再びゲート奥へ引き下がる。
【ただいまの決まり手は、つかみ投げ、つかみ投げダクエナルドの勝ち】
「アナコンダは楽勝じゃな。ワシの脳内でタンゴのリズムが流れておったよ」
対動物戦一匹目、諾右衛門の完勝であった。
〈十三回戦〉
「諾右衛門爺ちゃん、準備はいい?」
「おう!」
そう答えると、諾右衛門は大きく息を吸い込んだ。
すると天井がパカッと開き、上からバケツをひっくり返したような雨のごとく大量の水が落ちてきたのだ。すゞは水槽横に備え付けられてあるスイッチを押したのだ。
「次は水中戦だよ」
「すゞちゃん、諾右衛門お爺ちゃん窒息して死んじゃうよーっ」
「諾右衛門爺ちゃん全然泳げないからね。確かに長引くとやばいかもね」
水がとうとう諾右衛門の肩の辺りまで迫ってきた。そして彼は水をペロッとなめた。
「うむ、普通の水の味じゃ。今回も淡水の住民さんじゃな。水かさも増えてきたし、そろそろ落ちてくる頃じゃ。何が来るかの、何が来るかの、ワクワク。楽しみじゃわい」
その数十秒後、対戦相手が落ちてきた。
「なんじゃ、テッポウウオか。弱っちすぎてつまらんのう。……うぉと、水がっ」
そしてついに水は諾右衛門の全身を覆ってしまった。つまり彼は息が出来なくなったのだ。天井はようやく閉められた。
【東方、ダクエナルド、金沢市出身。西方、吹き矢魚、ブラジル、アマゾン川出身】
【すぐにやっちゃうね。はっけよい、のこった!】
今度は仕切り時間なし、谷米が早口で四股名、出身地を告げるとすぐに、すゞが軍配を返す。
次の瞬間、吹き矢魚がピュッと先手を打った。
「ぬお! 目に水がっ。一丁前に猫だましなんか喰らしおって。はっ、早く決着をつけねば……」
諾右衛門は時々顔を出しながら手足をバタバタさせながら懸命にもがく。
「ぅおーい、すゞやーっ。ゴボゴボゴボ……、みっ、水を、水をはやく抜いてくれーっ」
「分かった。これ以上取組続行したら諾右衛門爺ちゃん完全に溺れちゃうね」
すゞが水槽横のバルブを捻ると、水槽の水がどんどん減ってゆく。
吹き矢魚は「やばいっす」と思ったのか、天井目がけてその生物の生態的にありえない驚異的なジャンプ力を見せ、天井を突き破ってその際小さな丸い穴を開け元の場所へ戻った。この建物の二階は水族館となっているらしい。
両者とも死合放棄。よって今回の勝負、引き分けである。観戦しに来ていたご近所に住む諾右衛門の昔からの知り合いである大工さんがベニヤ板を打ちつけしっかり固定し、びしょ濡れの土俵を温風機で乾燥させた後、死合再開。
〈十四戦目〉
再び陸上戦へ。出てきたのはメガネザル。人間に近い種族ではあるがやはり人外の登場である。体も小さくお顔はかわいらしい。
【東方、ダクエナルド、金沢市出身。西方、スポーツ抜群の○太君、インドネシア、ボルネオ島出身】
「オウ! わが故郷の住民さまですとら、頑張って下さいですとら」
拍手して応援するカプアス。
制限時間いっぱい、運動抜群の○太君は人間と同じような格好で仕切り線に手を置いた。そして立ち合い。
【メガネザルさん、お行儀いいね。手を下ろして、はっけいよい、のこった!】
一発で成立。諾右衛門は何重にもまいたマワシの中から、隠し持っていたバナナをすばやく取り出し、土俵の外へ放り投げた。スポーツ抜群の○太君は諾右衛門に見向きもせず方向転換、すぐさまそのもとへまっしぐら。
【ただいまの決まり手は、送り出し、送り出してクッメゾ・フォルテの勝ち】
その谷米のアナウンスを耳にした瞬間、スポーツ抜群の○太君はピクッと反応し、体の動きが止まった。五秒後、自分の状況が分かったのかorzのポーズをとり、ドン○ーコ○グのように手をバシバシ地面に何度も何度も叩きつけていた。
「スポーツ抜群の○太君よ、餌に釣られるとはまだまだ修業不足じゃの。目先の欲望に囚われて勝負から逃げている証拠じゃよ。お主が本気で挑んでくればきっとワシなんぞ赤子のようにひねり倒せるぞ。次は頑張れよ!」
諾右衛門が参加賞としてもう一本バナナ(今度のはチョコバナナにした)、そしてあやとりの紐を手渡すと、スポーツ抜群の○太君は両手を高く上げ、ピョンピョン飛び跳ねながらキャッキャとお喜びで花道を引き下がった。
「あの様子じゃ、次もきっと無理じゃな……」
「同じインドネシア人の恥ですとら!」
スポーツ抜群の○太君の後ろ姿に冷たい視線を送るカプアスであった。
〈十五戦目〉
体長150センチ、体重100kg、ジャガー。小柄だが攻撃力は抜群。
「先ほどの二匹はお遊びじゃったが、今度は骨のあるやつが来たな」
【東方、ダクエナルド、金沢市出身。西方、ジャガーバター、ブラジル出身】
両者睨み合いが続く。制限時間いっぱい。
【見合って、見合ってはっけよい、のこった!】
今度は諾右衛門、ササッと横に変わった。
すると、ジャガーバターは勢いが止まらずそのまま一気に土俵の外へ。
【ただいまの決まり手は叩き込み、叩き込んでダクエナルドの勝ち】
ジャガーバターは勝負が決まった瞬間、後ろを振り向きしばらく固まっていた。
「ジャガーバターよ、そのチーターに劣らぬ瞬発力は自然界では役に立つが相撲の世界では墓穴を掘ることもある。それぞれの場で使い分けが出来るようにならんといかんぞ」
自分の負けを知ったジャガーバターは鳴き声を一回あげ、しょんぼりとした表情で花道を引き下がっていった。
いよいよ最終戦。
「おーい、すゞ、ワシ、また水中戦がやりたいんじゃ。水入れてくれーっ」
「でも、諾右衛門爺ちゃん泳げないじゃん。またさっきの二の舞になっちゃうよ」
「今度はワシ、ちゃんと浮き輪つけるもん、ノープロブレムじゃよ」
「そっか、諾右衛門爺ちゃんあったまいい」
同じ過ちはしない。諾右衛門はいつもそれを心がけている。
先ほどよりさらに大きな穴が開かれた。滝のようにドドドドドと豪快に落ちる水がどんどんどんどん埋め尽くす。
「もうすぐ落ちてくる頃じゃな。初めライオンにしようかと思ったがの、先ほどまでのワシの戦いを見て怖気づいたみたいなんじゃ。ゲートの奥でヒッキーさんになってしもとる。やはり最後を締めくくるにはコイツが一番じゃ。水中戦でワシの方が遥かに不利な条件じゃからの」
水深は先ほどよりもさらに深い七メートルにまで達した。
諾右衛門はもちろん無事。浮き輪でプカプカくつろいでいた。
次の瞬間、対戦相手がドドーンと勢いよく落下。やつの全長は、少なくとも8メートル以上はあった。やつの正体とは?
「うっ、うわわわわわ、うっ、海の殺し屋、シャチさんだぁ。諾右衛門お爺ちゃん、食べられちゃうよーっ」
「アワワワワワ、諾右衛門お爺ちゃま、こっ、これは巨大○ク○クの比じゃないですとら。パックンチョさらにはブチッてされそうですとら」
「けど、諾右衛門お爺さん、キイロアナコンダさんやジャガーさんにも勝てるくらいなんだから、この相手もなんとかなるかもね」
「礼儀正しいシャチさまとら。やはり相撲は心技体の三拍子とらね」
【ひがあああああああし、だくえええええなるうううううどおおおおおおお、だくえええええなるうううううどおおおおおおお。にいいいいいしいいいいい、ちゃちしゃあああああちいいいいい、ちゃちしゃあああああちいいいいい】
谷米、本日最後の四股名呼出。一人+一頭はじっと睨み合う。諾右衛門の方が上から目線だ。
【東方、ダクエナルド、金沢市出身。西方、ちゃちシャチ、北極海出身】
元々塩水なので塩撒きはなし、というか出来ない。
【待ったなし、目を合わせて、はっけよい、のこった!】
軍配が返された。刹那、ちゃちシャチが大きく口を開け粂蔵目掛けて襲撃。
その際、諾右衛門が取った行動は八双飛びだった。浮き輪は付けたままヒラリとかわし背びれに捕まる。目の前の標的がいなくなってしまったしゃちシャチ、勢い止まらずガラスに激突。そしてダウン。
【ただいまの決まり手は、叩き込み、叩き込んでダクエナルドの勝ち。今回も絶好調だね諾右衛門爺ちゃん】
十六戦十五勝一分け。なかなかの好成績である。
「すごいよ諾右衛門お爺ちゃん、負け無しだあ」
「そのお強さ、感動しましたですとら」
「どんなもんじゃい、ワシもまだまだ若造には負けてられんわい。現生海洋生物最速と謡われたシャチもこの程度か、全然たいしたことないな。こうなったらタイムマシンで白亜紀に行ってティラノサウルスみたいな獰猛な恐竜たちと一度でいいから対戦してみたいもんだわい。ハッハッハッ」
諾右衛門も目は甲子園出場を決めた高校球児のようにキラキラ光り輝いていた。
その後、ちゃちシャチは無事、谷米の操縦するクレーンで二階へと戻されたとさ。めでたし、めでたし。
*
一月六日、いよいよ今夜で藤太郎がこのおウチに泊まる最後の夜。
テレビをつけ、天気予報を見る。
〈それではお天気をお伝えします。今夜はこの冬一番の強い寒気が入り、山沿いを中心に吹雪く所があるでしょう……〉
「あ~、本当に雪がひどくなってきてるよ。風もだんだん出てきた」
すゞは窓の外を眺めた。
「今夜は吹雪かぁ。普段なら雪は嬉しいけど、明日には止んで欲しいような欲しくないような、電車が止まっちゃうかもしれないし」
「藤太郎君、明日帰っちゃうのね。私、とても寂しいよ」
「わたしもだよ。まだまだ別れたくな~い」
「ボクも葵お姉ちゃん、すゞちゃん、そしてカプアスちゃんとお別れするのがすごく寂しいよ」
「実は、ワタシも明日には帰らないと学校の始業式に間に合わないとら」
「そっか。カプアスちゃんもなのかあ……」
「そういえばカプアスさんって、普段は普通の学生さんだったわね」
みんなやはり、それぞれとお別れしたくないという気持ちになっているようだ。
「藤太郎君とカプアスさんは明日帰っちゃうけど、最後に一つだけ言っておきたいことがあるの。こういう吹雪の夜だからこそね」
「と~っても大事なことだよ」
藤太郎とカプアスは耳を傾ける。
「実はね、この地域では妖怪が想像上のものではなくて目に見えて実在してるの」
「深夜零時を回るとね、お外をうようよ徘徊してるんだよ」
「えぇ! そんなこと今まで一度も聞いたことが無かったよ。怖いよお」
「もっ、もし本当なら嫌ですとら。ワタシ、妖怪も日本文化なのですとらが、イリエワニよりも怖いとらよ」
藤太郎とカプアスは、まだ信じられないといった様子だ。
「藤太郎くんが怖がるといけないから、今の今までず~っと黙ってたの。でもこの地域では妖怪が尊ばれてるんだよ」
「この地域では昔から妖怪はみんな神様として扱われているのよ」
「そっ、そうなの? でもボク、妖怪の存在なんて信じたくないよお」
「でもこれは紛れもない事実なの。藤太郎君真夜中におトイレ行った時、火の玉を見たって言ってたよね。あれは『鬼火』って言う妖怪の一種だったのよ」
「うわぁ。あれは本物だったんだあ」
「山でキツネやテンも見かけたでしょう。あれも夜になると化ける妖怪なんだよ」
「しっ、信じたくなかったけど、たっ、確かにカプアスちゃんみたいに人間に変身する蝶々さんもいるんだから妖怪が存在してもおかしくないかも……」
「だから、私とすゞはカプアスちゃんが人間の姿に変身しても驚かなかったのよ」
「そうだったからなのとらか。それですゞお姉さまのお友達や和尚さまたちはワタシの正体を知ってもあまり驚かなかったとらね。というより恐ろしくなってきたとら。本当に妖怪が存在しているようなので」
藤太郎とカプアスは抱き合った。
「今から二人にこの地域に出没する妖怪図鑑を見せてあげるね」
「ボッ、ボク、図鑑は大好きだけど妖怪のは別。怖いから嫌だあ」
「ワタシもですとらあああああああ」
ガクガク震えている二人をよそに、葵は応接間の本棚から郷土妖怪図鑑を持ってきた。
「さあ、藤太郎君、カプアスちゃん。こっちおいで」
「この図鑑、とっても面白いよ~」
「まずはこの妖怪から。『アマメハギ』、これは、『なまはげ』みたいなものよ」
「能登のアマメハギは重要無形民俗文化財に指定されてるんだよ。能登地方の伝統行事なんだ」
「続いて『どうもこうも』、これは二つの頭を持つ妖怪よ。『どうも』と『こうも』という二人のお医者さんが最後には互いの首を切って死んでしまうの」
「どうもこうもできないっていう言葉はこれから出来たんだってさ」
「ひっえええ! おっ、恐ろしいとら」
「ボッ、ボク、夜中におトイレ行けなくなっちゃうよ」
「まだまだこれからよ。次は『海鳴り小坊主』、その昔上杉謙信の軍政に追われ、海に飛び込んで死んだ僧兵たちの亡霊よ。そして次は……」
他にも『海月の火の玉』、『黒手』、『力持ち幽霊』、『火取り魔』、『塩の長司』、『長面妖女』といった石川県に伝わる妖怪たちを続々紹介した。
結局二人は怖いもの見たさからか、その図鑑に見入っていたのである。
「次のページにはね、今まで紹介してきたこれらをもはるかに上回るとてつもなく恐ろしい妖怪がいるのよ」
葵は図鑑最後のページをそっと開く。藤太郎とカプアスは恐る恐る覗き見る。
「……あっ、あれ? あんまり怖くないよ。というより面白い妖怪さんだな」
「本当とら。なんかワタシ、拍子抜けしましたとら。この妖怪さんはエビフライの形をしているとらね」
「エビフライが妖怪になったものだから他の妖怪さんみたいに、何百年も昔からいる妖怪じゃなくて、戦後以降に能登や加賀の海や山に出没するようになった比較的若い妖怪さんだよ」
「みんな大好物のエビフライの妖怪さんなら平気だよ」
「ワタシもそれなら怖くないとら」
二人はホッと胸をなでおろした。
「でも見た目に惑わされちゃダメよ。この妖怪の名は見た目のとおり『エビフライ女』。おウチの中にまでガラスを割って侵入してくるらしいの」
「山姥や濡女子や雪女の彼女らしいよ」
「えぇ? それって女の子同士でしょ?」
「うん、エビフライ女さんは、女の子にしか興味がないみたいなの」
「つまり、レズビアン妖怪ですとらか?」
「そうみたいだよ。ちなみにわたしも少しレズっぽいとこあるよ。それでね、特に気に入った女の子がいたら、さらっていくらしいよ」
「実際この辺りでは昔から女の子ばかりが何人も神隠しにあってるのよ。私たちもいつ襲われるか心配」
「その他にもね、大波引きこして船を転覆させたりするらしいよ」
「げに恐ろしい妖怪ですとら」
「怖い怖あい。話を聞いてより一層怖くなってきたよお。それにしてもエビって海の生き物だよね? ここは山の方なのに現れるの?」
「うん、そこの川を遡って山の方までやって来るのよ。陸にも上がれるらしいし」
「噂では山に住む雪女さんや山姥さんとデートするためらしいよ」
それを聞かされると、藤太郎とカプアスは震えがますます止まらなくなってしまった。
「あくまでも噂だから気にしないでね。それに、エビフライ女さんは声だけは聞かれてるけど、未だ誰もその姿を目撃した人がいない幻の妖怪さんなんだよ」
「私も声を聞いたことが何度もあるよ。だから確かに実在はするんだけどね。不思議な存在だからいろんな噂が飛び交ってるの。エビフライ女さんには良い噂もあって、帰り際にお風呂に入って帰っていくそうよ」
「それでね、帰りにお土産も置いていくらしいよ。相手してくれたお礼にって」
「なっ、なんかやっぱりいい人っぽい」
「律儀なエビフライ女さんですとらね」
「でもね、この地域は妖怪さんは基本的に愛され尊敬されてるんだけど、この妖怪は元々はお隣富山の出身で、さらに最近になってこの辺に出没するようになったよそ者の新参者だから、迫害されてるの。地域のみんなからの嫌われ者だよ」
「実はお爺ちゃんが亡くなったのはこの妖怪の仕業だと云われてきたの。だから私とすゞは幼い頃からお婆ちゃんに山奥や海の中には絶対に近寄っちゃダメだって厳しく言われてきたの。本当は自然の力が起こした高波なのに……」
「この地域ってお年寄りを中心に閉鎖的な考えの人多かったからね」
「それでね、この地域は他にもたくさんの妖怪がいるのに、地元の伝統的な妖怪じゃないからっいう理由でこの地域に起こる厄災は全てエビフライ女さんの仕業にされて、とてもかわいそうなの」
布団を敷いて、寝る準備も整った。
「藤太郎く~ん、今夜は、また女の子向けのパジャマを着て~」
「はい、これにお着替えしてね」
葵は藤太郎に来た初日に着た女の子向けパジャマと下着を渡した。
「えーっ、またーっ」
「若い女の子がより大勢住んでいるおウチが特に狙われやすいらしいの。今回は誘き寄せなきゃいけないから」
「それで、藤太郎くんを女の子にしてるの」
「えぇ、遭うつもりなのう?」
「藤太郎君、もし出会えたらちょっと話し合ってみて。私、エビフライが大好きだし、藤太郎君や他のみんなもそうでしょう? エビフライ女さんとお友達になりたいの」
「わたしもなりた~い」
「ボッ、ボクも、確かにエビフライ女さんとお友達になりたいんだけど悪い噂通り本当に凶暴な妖怪さんかもしれないしぃ、やっぱり怖あーっい」
「藤太郎くんはここにいる唯一の男の子なんだから頼りにしてるよ」
「頑張れ! 私も応援するよ」
「ぜひぜひ藤太郎お兄さまに協力して欲しいとら。ワタシともお友達になりたいとら」
三人の期待の声援が藤太郎にかかる。
「そっ、そんなぁ。そっ、それにぃ、この格好はやっぱり恥ずかしいよ」(また着られて嬉しいな)
「藤太郎君、エビフライ女さんと話し合う前のワンポイントアドバイス。エビフライ女さんの弱点は女好きから分かるように男の人らしいのよ。もし凶暴な妖怪さんだったら、“アレ”を見せれば効果があるみたいよ」
「あっ、“アレ“を見せるの!?」
「頑張って男の勲章を公開して下さいとら。ワタシ、怖いので藤太郎お兄さまからいただいたタコさまをお守りとして側に置いて寝ますとら」
「ま、藤太郎くんのじゃ効かないかもしれないけどね」
「それよりもバットか何かないの? 攻撃した方が絶対いいよう」
「ダメ! そんなことしちゃかわいそうよ。あくまでも話し合いで!」
「わっ、分かった……」
今夜は藤太郎を窓に一番近い側に寝かせた。
風がひどく、窓がガタガタと音を立てて揺れていた。
藤太郎は、なかなか寝付けなかったが、やがて藤太郎も睡魔に負けて、ようやくみんなが寝静まった真夜中、午前二時頃のことだった。
【女は、女はどこじゃあああああああああああああああ!!!】
突然、まるで老婆が叫んでいるかのような激しいうなり声が聞こえてきた。
みんなは目を覚ました。
「あれ、もしかしてエビフライ女さんの声?」
「そうよ。この声は――」
「キャアアアアアアアアッ、ワタシ、もうダメですとら」
「ついに現れたのかあ。なかなか言い声出してるでしょう? 老婆役の声優さんとしても大活躍出来そう。姿見せないかなーっ」
「エビフライ女さあああああーっん、ここにかわいい女の子が四人(実際は三人)もいますよううううう!」
葵は大声で叫んだ。
「葵お姉ちゃぁん、やめてよおおおおおおお!」
「あっ、葵お姉さま、もしエビフライ女さまの耳に届いていたらワッ、ワタシたちの居場所がばれてしまいますとらあああああ」
その刹那、ガシャーンと窓が割れる音が部屋中に響き渡った。
【ここから声がしたな。ごきげんよう、おまいら!】
噂通りエビフライ女は、ガラスを割って、このおウチの中に侵入してきたのである。
ついにみんなの目の前にその姿を現した。
廊下に直立姿勢で立っていた。
【おっ、おっ、女、女の子が四人も、パヤパヤパヤ……】
エビフライ女はみんなの方を見つめて、興奮しながら声を発した。
「あわわ、あわわわわわ、つっ、遂にご登場ですとら」
「大丈夫よカプアスさん。じゃ藤太郎君、後はよろしくねっ!」
他の三人は寝室の隅の方にある押入れの中に隠れて見守る。
藤太郎は隣の和室を一気に駆け抜け廊下へ出て、エビフライ女と対峙した。
【お主が一番初めにウチの相手をしてくれるのか。嬉しいのう】
(この人? がエビフライ女さんか。図鑑の予想の姿通りだ。本当に姿だけを見るとあんまり怖くないな。話し合いをすれば本当にお友達になってくれるかも)
「こっ、こんにちはエビフライ女さん。ボクのお話を聞いて下さい」
【女の子なのに『ボク』、ますます良い!】
突然、エビフライ女はピョンピョン飛び跳ねながら藤太郎に襲い掛かってきた。
そして、藤太郎の上着を引き裂いたのである。
「うわぁ!」
さらにエビフライ女は上半身裸になった藤太郎の体の上に馬乗りになったのだ。
藤太郎の小さな乳首丸見えである。
【パヤパヤパヤ……貧乳。これもいい。萌える!】
エビフライ女は藤太郎の胸をペタペタ触り始めた。
「やっ、やめて下さあい、エビフライ女さぁん」
【嫌がる女の子、ますます萌える】
エビフライ女は悶える藤太郎の姿を見ると、さらに興奮が増したようだ。容赦なく触り続ける。
すゞは心配そうに藤太郎を見つめていた。
「お姉ちゃ~ん、藤太郎くんが襲われてるよ。助けなくていいのかな?」
「藤太郎君ならきっと大丈夫。私は何とか大人しく出来ると信じてるっ!」
「どうか説得して下さいとら」
「藤太郎く~ん、早く“アレ”を」
藤太郎は三人の声援を聞き、それを励みに勇気を振り絞った。
「エビフライ女さん。ボッ、ボクは、じっ、実は男なんです!」
藤太郎がそう強く言い放つと、エビフライ女の動きがピタリと止まった。
【……な……ん……だ……と……?】
エビフライ女は呆気にとられ、眼をパチパチさせていた。
「今からボクが証拠を見せます」
藤太郎はスクッと立ち上がり、下着をサッと脱ぎ下ろし仁王立ちとなり、ついにあの部分をエビフライ女に見せつけたのである。
「どっ、どうですか? エビフライ女さん。これで信じてもらえたでしょうか?」
【!】
エビフライ女は眼を大きく広げて驚き、咄嗟に藤太郎から距離を置いた。その様は本物のエビが敵から逃れるために後ろへ逃げる習性そのものだった。
【おっ、おのれえええええええ、この、エビフライ様を騙すとは小癪な……ぬっ、ぬおおおおおおおおおおおっっっ!!!」
エビフライ女は大激怒した。
【ゆ、る、せ、な、い】
エビフライ女は藤太郎のことを女の子だと思い込んでいたため、余計に憎しみの念がひとしおだったのである。眼が激しく光った。外にも稲光が走り雷鳴が轟いた。
「うわあん、ごっ、ごめんなさあいエビフライ女さあん」
藤太郎は助けを求め、一目散にみんながいる寝室の押し入れの方へ逃げた。
「葵お姉ちゃぁん、すゞちゃぁん、カプアスちゃぁん。助けてぇ」
【ぬおおおおおおおおおおお!!!】
エビフライ女は山姥のような形相で猛烈な勢いで跳ねながら追いかけてくる。
「お姉ちゃ~ん、ますます怒らせちゃったーっ」
「こっ、これは想定外だったわ。どうしよう」
二人は不測の事態に戸惑っている。カプアスは恐怖で言葉が一切出なかった。
「うわぁ、うわぁーっ」
藤太郎はみんながいる五メートルほど手前で襖縁に足を引っ掛け、背を向けて転んでしまった。
エビフライ女はすぐに追いつき藤太郎の背中を鋭い爪で引き裂いた。
「うわあああああああっ!」
その瞬間、藤太郎の背中から鮮血が飛び散った。背中に深い傷を負ってしまったのだ。
「いやあああああああ~! 藤太郎く~ん!」
「しっかりして藤太郎君!」
葵とすゞは押入れから飛び出て、とても心配そうに藤太郎の側に駆け寄った。
「いたいよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」
藤太郎は大声で泣き叫ぶ。
「わたし、トミお婆ちゃん呼んでくる!」
すゞはエビフライ女の目の前を振り切り、大急ぎで吹雪の中トミのおウチへ向かった。
「私は包帯で血を止めるわっ!」
葵はタンスから救急箱を取り出し、藤太郎に懸命の応急処置を施し始めた。
依然としてエビフライ女は興奮している。
【次こそは、本物の、女……】
葵の背後にエビフライ女が迫ろうとしていた。
カプアスは押入れの中で目の前の光景を目の当たりにしたショックから、ガタガタ震え続けている。だが、
「とっ、藤太郎お兄さま。これは、ワタシがお助けしなければならないとら。葵お姉さまの身も危ないとら。一か八かの賭けとら」
カプアスは再び言葉を発し、勇気を振り絞って押入れから出てきて藤太郎から貰った粘土で出来たタコに込められた魂を一心不乱に開花させた。
「紙粘土タコさま、どうか、どうか、変化してエビフライ女さんをおとなしくして下さいとら」
するとそれはたちまち本物の生きたタコに変身したのだ。
カプアスの長年封印された能力が再び目覚めた瞬間であった。
そのタコは吸盤を畳の上に吸い付かせながら、ゆっくりとエビフライ女の方へ向かっていった。
エビフライ女の鋭い爪が葵の体に手が届くあと一歩というところで、
【タッ、タコ!?】
それを目にした瞬間、急に顔が真っ青になったのだ。
【ウッ、ウチの天敵だ。参った。降参だ、降参だ】
エビフライ女は自ら負けを認める発言をしたのである。
そしてふと我に帰った。
【あっ、あ……ウッ、ウチ……】
エビフライ女は青ざめた表情のまま、山の方へと逃げていった。
それから程なくして、すゞがトミを連れて戻ってきた。
「藤太郎くん、トミお婆ちゃん連れてきたよ。もう大丈夫だよ」
「こんばんはトミお婆さん。藤太郎君を早く助けて下さいっ!」
「おう、葵さま、安心しな。オラがすぐに藤太郎さまを回復させてやるうぇ」
トミは藤太郎の側へ駆け寄った。
「あっ……、トッ、ト、ミ、お、ば、あ、ちゃ、ん。ボッ、ボ、ク、痛く、て、死ん、じゃい、そぅ、だ……よぉ……」
藤太郎は背中の激しい痛みで今にも意識が飛びそうになっている。
「藤太郎さま、この薬草を使えば一瞬で傷口が消えるうぇ」
トミは藤太郎の背中に薬草の一種であるオトギリソウを押し当てた。するとトミの言っていた通り、藤太郎の背中の傷はみるみるうちに跡形もなく消えていった。
「あれ? なんか急に痛みが無くなったよ。ありがとう、トミおばあちゃん」
藤太郎は一気に回復して、自力で立ち上がることも出来た。
「良かったね藤太郎く~ん」
「本当にトミお婆さんの腕は神業ね。これ、ごく普通の薬草なんでしょう? これだけでここまで急速に完全回復させられるなんて他の人、お医者さんでも絶対出来ないよ」
「いやいやあ、それほどでもないうぇ」
トミは少し照れていた。
「ところでエビフライ女さんはどこへ行ったのかしら?」
「あ、いつの間にか姿を消してるう」
「あ、そういえばいなくなってるね。そして新しくタコさんがいるね。もしかしてエビフライ女さんが変身した姿?」
「あんな所にタコさんがあ」
「いつの間に……。私、今気付いた」
「藤太郎お兄さま、葵お姉さま、すゞお姉さま。残念ながらエビフライ女さんは逃げてしまったとら。ワタシが藤太郎お兄さまから戴いた紙粘土のタコに、ワタシの能力を使って魂を込め、本物の生きたタコのようにさせたら急に尻尾を巻いて後ろ向きに飛び跳ねながら逃げていってしまいましたとら」
「そうか、残……それよりカプアスちゃん、ついにうまくいったんだ。おめでとう! 私、藤太郎君の血を止めることに夢中で全然気付けなかったの。ごめんね。カプアスちゃん」
「ボクも背中がとっても痛くて、周りを気にする余裕が全くなくて、タコが現れたことに今まで気がつかなくてゴメンね」
「いえいえ、ワタシの自己満足で十分ですとらよ」
「やっぱカプアスちゃんはすごいよ。凶暴になっちゃったエビフライ女さんをあっという間に大人しくさせちゃったんだから」
「これも藤太郎お兄さまの工作物あってできたことですとらから」
カプアスは頬をポッと赤く染めて照れていた。
「わたしは見てないから分からないけど、こうしてここに本物のタコさんがいるってことは変身させられたことが証明されてる証拠だね」
カプアスの功績はちゃんと形として残っていたのである。
そのタコはすゞが捕まえ、水槽に入れた。新しいペットとして飼うことにしたようである。
「ところで、エビフライ女とか言っておったな。あの幻の妖怪の姿を遂に目撃したのかうぇ。霊媒師でもあるオラですら不可能だったのにそれは見事なことだうぇ。そのお方は、まだ屋根の上におるみたいだうぇ。この場所からは姿が見えないが分かるうぇ。オーラが出ておる。なにかすごく反省してる様子だうぇ」
トミは軒下から叫んだ。
「おおい、降りてきな。オラも貴方さまにお会いしたいうぇ」
するとエビフライ女は怯えながら屋根からピョンッと飛び降り、再び姿を現した。
【そちらの男の方は藤太郎さんと申していましたね。ウチ、極度に興奮してしまい、あまり記憶にないとはいえ、藤太郎さんにとんでもないことをしてしまいました。もうウチを焼くなり揚げるなり好きにして下さい!】
エビフライ女は藤太郎にそう強く言い放った。
「ボク、エビフライ女さんに止めを刺すことなんて出来ないよう。だってボク、エビフライが大好きなんだもん。傷のことなんかもう全然気にしてないよ。エビフライ女さんも、もう気にしないで」
「私は藤太郎君を傷つけたことでエビフライ女さんにお尻ペッチンしてたっぷりお仕置したいとこなんだけど、かなり反省しているようだし、藤太郎君も気にしてないようだし。それに私もエビフライが大好きだし、そんなことは出来ないよ。ガラス代も弁償しなくて結構よ」
「わたしも出来な~い。わたしもエビフライが大好きだから」
「ワタシもですとら。エビフライもエビフライ女さんも大好きですとら」
【でもウチ、数多くの女の子たちに酷いことをしてきたのに……】
エビフライ女は嬉しさからか大粒の涙を流した。
「ところでエビフライ女さま、ちょっと気になったんじゃがもしかして――」
トミは初めて目にしたエビフライ女の顔をじっくりと覗き込んでみた。
「……おお、カンコちゃんじゃあないか! 面影があるうぇ」
「え? もっ、もしかして、トミって言ってたけど、女学校時代の同級生のトミちゃん?」
「そうだうぇ。そうだうぇ。久しぶりじゃないか」
「トッ、トミちゃあああん」
二人は抱きあって泣き合って、旧友との相当久しぶりの再会を大いに歓喜した。
「トミお婆さんとエビフライ女カンコお婆さんは同級生だったのね」
「運命の再会だね」
「なんという奇跡的な出来事とら」
「トミおばあちゃん、旧友とまた巡り合うことが出来て本当によかったね」
「まさか、こんな形でまたカンコちゃんに出会うことが出来るとは思わなかったうぇ。あの頃に若返ったような気分だうぇ」
エビフライ女は改めてご挨拶する。
【みなさんに自己紹介します。ウチの本名は阿仁實子。生まれは神戸なの】
「ボクと同じ出身地だあ!」
【藤太郎さんも神戸なのですか。同郷で嬉しい限りです。ウチは尋常小学校に入学した頃に富山に引っ越したの。それからは毎日が地獄だった。よそ者と言われ、学校や地域のみんなから、特に男の子から酷くいじめられて毎日が本当につらかったの。先生も助けてくれるどころか加担してたの】
「今は妖怪としても疎外されているし、とてもかわいそう」
「気にしないで葵ちゃん。この後ね、とてもいい事が起きるの」
實子は話を続ける。
【そんな時、ウチに優しく接してくれたのがトミちゃんだったの。お友達にもなってくれて、ウチとトミちゃんとの友情はだんだん深く結ばれていったの。やっぱり女の子同士っていいなって思うの】
「オラの方こそカンコちゃんみたいな素敵な女の子に出会えて良かったうぇ。趣味が合うってのが何よりも深い絆の要因だったうぇ。オラとカンコちゃんは、当時にしては珍しく大学進学を目指してたうぇ。それで学問のこととか語り合うのが日課だったうぇ。中間子は本当に存在するのか、湯川の予言は本当に正しいのかで意見が分かれてすぐに仲直りしたけど喧嘩したこととか、いい思い出ばかりだうぇ」
「トミおばあちゃんとカンコおばあちゃんは難しいことをやってたんだね」
【ウチとトミちゃんはアインシュタインさんや湯川秀樹さんに憧れて女の子なのに物理学科を目指してたもの。だけどやがて戦争が始まってしまい、終戦間際のうちの誕生日でもある八月二日に起こった富山大空襲でウチはあっけなく死んでしまったの】
「オラ、誕生日プレゼントにカンコちゃんの大好物であるエビフライを食糧難でもめげずに用意してたうぇ。渡せなくなって本当に悲しかったうぇ。あの時は黒コゲになったカンコちゃんを抱きしめて、何度も蘇らせようと試みたんうぇ。オラは悔しく悔しくて、自分の無能さを実感したうぇ。そこでオラは医者になろうと決意し、結局は医学部に入ったうぇ」
【死んじゃったウチなんかのために!? 嬉しいよトミちゃん】
「カンコちゃんの遺灰は、大好きなエビフライがたくさん食べれるようにと願って、海に流してあげたうぇ」
【それが、ウチがエビフライ姿の妖怪になることが出来た一因なんだね。もう一つはトミちゃんのことを強く想うあまり、死に切れなかったというものあると思うの。妖怪になってからはこの辺りをずっとさ迷ってるよ。トミちゃんを求め続けて――。ウチ、ずっとトミちゃんを捜し求めていたけど、やがて諦めが付いて、今度はトミちゃんみたいな優しい女の子たちを強く求めるようになったの……】
「――それが、カンコお婆さんが女の子たちを大好きになった理由なんだね~」
【そのとおりなのです。でも今、ウチの目の前に本物のトミちゃんがいる。これでもう満足したよ。ウチが妖怪の姿になってもあの頃のまま愛してくれて本当に嬉しいの】
「妖怪になってもカンコちゃんはカンコちゃんだうぇ。お互い年をとってしまって、オラも妖怪みてえなしわくちゃの顔になってしまったうぇ。オラ、またもう一度あの頃の姿に戻りたいうぇ」
「ウチもだよ。トミちゃん」
「カプアスちゃん、トミお婆さんとカンコお婆さんを若返らせることは出来る?」
「少し難しいことですとらが、お二人が持っていた若い頃の魂を開花させることが出来れば一時的なら可能だと思いますとら。挑戦してみるとら。戦争で悲惨な思いをされたお二人に最高の幸せをお届けしたいとら」
カプアスは二人の肩に手をあて、渾身の力で祈りをこめた。すると二人は光を放ち、当時の若々しい少女時代の姿へと若返ることができたのである。
「カンコちゃん、若返ってるうぇ!」
【トミちゃんの方も!】
二人は姿も心も完全に少女時代に戻り、当時の思い出話に浸っていた。
三十分ほど経ち、二人とも元の姿に戻った。
「こんな楽しいひと時をきのどくなございます。カプアスさま」
【ウチもなんとお礼を言ってよいやら】
二人はカプアスに深く感謝した。
「では、そろそろお暇させていただくうぇ。長居してすまなかったうぇ。カンコちゃん、また会おうな」
トミは自分のおウチへと帰っていった。
【ウチも、もう海に帰らなくては朝になってしまいます。あの、こんなにみなさんにご迷惑をかけて大変申し上げにくいことなのですが、最後に一つだけお願いがあるのです。お風呂に入らせて下さい】
「もちろんいいわよ。ゆっくりくつろいでね」
葵は案内した。實子は、脱衣所で服(衣)を脱ぎ始める。
「カンコお婆ちゃんは、衣は脱いで入るんだね」
【はい、藤太郎さん。これは服みたいなものですから。衣は差し上げます。みなさんで召し上がって下さいませ】
「いいの?」
葵は早速その大きな衣に飛びつき、齧って食べてみた。
「美味しい、この衣。無駄な油っぽさがなくてパリパリサクサクしてて」
「お姉ちゃんさすが、エビフライには衣まで目がないね」
「こんなにお喜びになられてウチ、大変嬉しいです」
「エビフライ女さん、もといカンコお婆ちゃんは、本当に噂通り帰る時にお風呂に入るんだね」
【はい、温泉に浸かって、そこから海へとワープするのです。それではみなさん、またどこかで会いましょう。ごきげんよう!】
午前四時過ぎ、實子は露天風呂から姿を消した。
「本当に、心優しい妖怪さんね」
「萌えキャラだったね」
「MOEは偉大な日本文化ですとら」
「ボクの唯一のお気に入りの妖怪さんだあ。他の妖怪さんはやっぱり怖い。さあ、これで安心して眠れるね」
「私、もう少しだけ温泉を眺めてたいの。みんな先に戻ってて」
「お姉ちゃん、實子おバアちゃん別れ惜しいんだね」
三人は寝室に戻り、葵は湯船の中を眺め続けていた所、突然、ゴボゴボゴボ……と音をたてて、風呂のお湯が渦を巻いた。
【プハーッ!】
なんと實子は再びお湯の中から姿を現したのだ。
【忘れてた。これ、お土産です。海の中で拾った物です】
葵は實子からのお土産を受け取った。
「律儀にお疲れ様ですカンコお婆さん。これも噂通りですね。ちょっと待ってて下さい」
葵は何かを取りにいった。
二分後、
「お待たせしました。私からもお土産です。私手作りの茶饅頭。水にぬれないようしっかり梱包しました。こし餡が入ってて、とても美味しいですよ。ぜひ召し上がって下さいね」
それを目にした瞬間、實子の顔がほころんだ。
【ウチ、お饅頭のような、包み込んで作る甘いお菓子も大好きです。エビフライに通じるものがあるのです。戦争中、防空壕の中に入って不安な思いをしていた時も、こんなお菓子を食べると不思議と心が落ち着いてきたのです。やはりこれは中身を包み込むことで、いつ爆撃されるか分からない外の危険からウチを守ってくれるということが、形を見ると思い浮かばれてくるからなのでしょう。では、最後にごきげんよう】
實子は今度こそ本当に別れを告げたようだ。
葵は早速貰った包みを開けてみた。
「あら、お写真がいっぱいね。戦前の写真から最近のまで……。あれっ? この何枚かのかの白黒写真、もしかして酉之助和尚さんの若い頃の? なんか面影があるし――」
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