四章 龍神のつがい /一 龍の伴侶になるということ【1】

 聖に連れられて部屋に戻った凜花は、彼に眠るように告げられた。



「凜花が眠れるまでずっと傍にいる。だから、心配しなくていい」



 平常心だったのなら、羞恥が先走ったかもしれない。

 けれど、恐怖心がまだ消えない凜花にとって、聖が傍にいてくれることがなによりも心強かった。



「本当にごめんなさい……。聖さんが来てくれなかったら、私……」


「もういい。俺は怒ってなどいないから謝らなくていいんだ」



 布団に入った凜花の右手を、彼が優しく握りしめてくれる。

 凜花は安堵感が広がっていくのを感じ、再び口を開いた。



「聖さんが来てくれる前にね、光に包まれたの」



 これはどうしても伝えておかなくてはいけない気がした。



「その光が炎から守ってくれた。あの人は……凜さんの魂がそうしたんだって」


「……ああ」



 聖が静かに頷き、凜花の手をギュッと握り直すようにする。



「凜花のもとにたどりつく直前、凜の魂を強く感じた。きっと、凜花を守ろうとしたんだろう」


「……凜さんはどうして私を守ってくれたのかな」



 凜花の唇から零れたのは、素朴な疑問だった。

 火焔の言葉をそのまま受け止めるのなら、まだ聖のことを愛しているから……ということなのかもしれない。

 しかし、凜花からすれば、凜が凜花を守る理由が腑に落ちなかった。



 もし自分なら、聖に新たな恋人ができたとしてその女性を守ろうとするだろうか。

 きっと、できない。

 まだ嫉妬がどういうものかはよくわからないが、少なくとも彼の恋人を守るような振る舞いはできない気がする。



「凜にとって、凜花は自分自身なのかもしれない。だから、凜花を守ったというよりも、自分自身を守るためでもあったのかもしれないな。なにより……」



 聖の眉が下げられ、瞳に悲しみと怒りが滲む。



「二度もあいつに殺されるなど、凜だって受け入れられるはずがない」



 凜がどんな風に亡くなったのかは、夢で見たときに聞いた話でしか知らなかった。

 聖や火焔の話ぶりから、火焔が凜を炎で焼き尽くした張本人であることは間違いないのだろう。

 凜にとっては、大きな未練が残る最期だったに違いない。

 そう考えれば、聖の話にも納得できた。



「もう眠るといい。話は休んだあとにしよう」


「うん……」



 凜花は、おずおずと繋いでいる手に力を込めてみる。

 すると、彼が優しい笑みを浮かべた。



「大丈夫だ。ゆっくり休め」



 小さく頷いた凜花の瞼が、少しずつ重くなっていく。

 一睡もしていなかったせいか、そのまま程なくして意識が途切れた。




 凜花が目を覚ましたのは、外が夕焼けに染まり始めた頃だった。

 傍には聖の姿はなく、握られていた手は冷たい。

 代わりに、蘭丸と菊丸が凜花の両側ですやすやと眠っていた。

 ふたりは上半身だけ凜花の布団に乗せ、下半身は畳に投げ出している。



「目を覚まされましたか?」



 凜花がゆっくりと体を起こすと、桜火の声が聞こえてきた。



「桜火さん……」


「なにか食べられるのでしたら軽食をお持ちします。それとも、湯の用意ができておりますが、体を温められますか?」



 優しい声音に胸の奥が痛む。



「あの……勝手なことをしてごめんなさい……」



 凜花が頭を下げると、彼女が困り顔でため息を零した。



「まったくです。姫様になにかあったらと寿命が縮む思いでした」


「ごめんなさい……」


「ですが、まずはご無事でなによりです。お説教は聖様にしていただきますが、今後はひとりで行動なさらないでくださいね」


「はい」



 たしなめるように言いつつも微笑んだ桜火に、凜花が反省の色を浮かべて頷く。

 彼女は「お腹は空いていませんか?」といつものように訊いてくれた。



「平気です」


「では、少し体を温めましょう」



 桜火に促されると、蘭丸と菊丸が目を覚ました。



「姫様!」


「もう大丈夫ですか?」


「うん。心配かけてごめんね。ありがとう」


「蘭丸、菊丸、姫様は湯浴みに行かれますから、お前たちは別の仕事に――」


「蘭もお供するです」


「浴室の前で待つです」



 彼女の言葉を遮ったふたりは、先陣を切って廊下に出る。



「紅蘭様!」



 直後、桜火が声を上げ、廊下の向こうから歩いてくる紅蘭の姿が目に入った。



「っ!」



 紅蘭は凜花を見るなり右手を振り上げたが、怒りに震えながらもその手を止めた。



「……本当は今すぐに殴ってやりたいわ」



 恐らく、彼女は今朝のことを耳にしたのだろう。



「あんたひとりの身勝手さでこんなことになったのよ!」



 怒りの目を向けられる中、玄信が慌てたように走ってきたが、それよりも早く紅蘭の声が響き渡った。



「いい? 龍にとってつがいは唯一無二の存在で、どんなことがあっても何物にも代えがたいものなの。それは裏を返せば弱点にもなりうるということ。下手をすれば、龍にとって致命傷にもなることなのよ!」



 普段なら、きっと玄信や桜火が紅蘭を止めただろう。

 しかし、ふたりは眉を寄せて黙り込み、紅蘭を止めようとはしなかった。



「聖も同じよ。たとえ龍神であっても、つがいの大切さは他の龍と変わらない。ましてや、聖は過去に凜を失っているのよ! なにかあったときには、聖は自分の命に代えてでもあんたを守ろうとするわ!」


「紅蘭様、姫様をいじめちゃダメです!」


「聖様は、姫様は悪くないって言ってたです!」



 玄信と桜火に代わり、蘭丸と菊丸が必死に凜花を守ろうとしている。

 ただ、蘭丸たちの言葉が紅蘭に効果がないのは、誰が見ても明白だった。



「それがどういうことだかわかる?」


「紅蘭様、やめるです!」


「姫様だって、つらいです!」


「聖がいなくなれば、間違いなく天界の均衡は崩れる。あんたの浅はかな行動ひとつで、聖だけじゃなく天界そのものを大きく揺るがすことだってあるの!」



 必死に止める蘭丸と菊丸を余所に、彼女は叫ぶように言い放った。

 怒りをあらわにする紅蘭の気は、まだ済んでいないのだろう。



「玄信も桜火も、この子を甘やかしすぎよ。この子が人間だからって、聖と同じようにどうせなにも教えてこなかったんでしょう? あんたたちにも責任はあるわ」



 それでも、彼女は吐き捨てるように言い置き、踵を返した。

 一言も言い返せなかった凜花を、蘭丸と菊丸が悲しそうな瞳で見上げている。

 無言のままの玄信と桜火の態度が、凜花をより追い詰めた。



「……紅蘭様のおっしゃる通り、我々にも非があります」



 静まり返った廊下に響いたのは、玄信の悔しげな声だった。



「聖様のご命令に背いてでも、もっと早くに色々とお話して姫様につがいとしての自覚をお持ちいただくべきでした」



 彼の表情に厳しさが覗き、張りつめていた空気がさらに強張る。



「聖様は姫様が人間であることを踏まえ、『天界や龍のことは必要以上に耳に入れるな』とおっしゃられておりました。しかし、やはりそれには反対するべきでした」



 玄信の言葉からは、聖の優しさが感じられる。

 けれど、今の凜花にはそれが痛かった。



「私の顔の傷は、あの男……火焔につけられたものです。凜様の亡きあと、天界では大きな争いが起こり、私は致命傷とも言える大怪我を負いました」



 玄信は息を吐くと、おもむろに続けた。



「龍は爪の数により、その強さが現れます。私や桜火、火焔は四本、聖様は五本。龍の中で五本爪を持つのは聖様だけですが、四本爪の龍は少なくはありません。その中でも火焔の強さは別格です。聖様であっても油断はできません」



 彼の口から語られるのは、凜花が知らなかった天界の過去。



「凜様を殺した火焔は、我々にもその爪を向けました。あのとき、聖様は我々を庇って戦ったことによって深手を負い、火焔を取り逃がしてしまいました」



 それは、想像よりもずっと痛ましい事件だったに違いない。



「今の聖様はあの頃よりもずっとお強いですが、火焔だって当時のままとは限りません。いや、きっともっと力をつけているでしょう。そうでなければ、わざわざ屋敷にまで現れるはずがないのです」



 緊張感で喉が渇いていく。



「被害があの程度で済んだのは、ここが聖様の結界によって守られているからです。火焔が片手しか龍の姿になっていなかったのも、結界のおかげです。しかし、それでも屋敷に攻撃できたということは、火焔もそれだけ強くなったということです」



 凜花の中には、今朝の恐怖心がまた蘇ってきた。



「ですから、どうか今一度ご理解ください」



 玄信は荘厳な口調で告げたあと、紅蘭と同じようなことを語った。



 龍の伴侶になるということは、その龍にとって大きな弱みになること。

 聖は龍神であり、その座を狙う不貞な輩がいること。

 凜花はそういった者たちから狙われる対象であり、必然的に聖の弱点になってしまうこと。



 そんな話をした玄信が、凜花を見据える。



「我々龍には、聖様が必要です。聖様になにかあれば、天界には今のような平穏がなくなってしまうかもしれません。そのためにも姫様には覚悟を決めていただきたい」


「覚悟……?」



 ようやく言葉を発した凜花に、彼が大きく頷く。



「龍の伴侶になる覚悟、そして龍神のつがいになる自覚をお持ちください。それができないのであれば、ここを……天界を去ることも視野に入れていただきたい」



 普段から厳しい彼の表情が、いっそう厳しさを纏う。



「出過ぎた真似をしてしまい、申し訳ございません。私がこんな風に申し上げたことを聖様にお伝えいただいても構いません。覚悟の上で申し上げましたので」



 頭を下げた玄信の厳しさは、聖への尊敬や深い思いがあるからこそ。

 それをわかっている凜花は、聖に言いつけようなんて考えなかった。



 浅はかな今朝の自身の行動を、いっそう深く悔やむ。

 凜花の脳裏には紅蘭と玄信の言葉がこびりつき、こうなってようやく事の重さを自覚したのだった。


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