三章 共鳴する魂 /四 ふたつの魂【2】

「眠れない……」

 


 凜花は、ため息交じりに呟いた。

 聖のことばかり考えているうちに、とうとう空が明るみ始めてしまったのだ。

 風子の言葉によって自分の気持ちを自覚したのは、まだ数時間前のこと。

 なんとなくそうかもしれない……程度だった感覚が実感となった今、彼のことが頭から離れなくなっていた。



(つがいじゃなくても……私は聖さんのことを好きになったのかな? つがいだから恋したわけじゃなくて、聖さんだから恋をしたって思うのはおかしい?)



 彼女は『好きな人といれば、誰だってそんな風になりますもの』と言った。

 しかし、凜花にはまだよくわからなかった。



 凜花は恋をした経験がない。

 多くの人が幼い頃に経験するであろう淡い初恋も、学生時代の青春に溢れた恋も、凜花は一度もなかった。

 両親が亡くなる前のことはよく思い出せないが、その後はずっと孤独を抱えて生きてきたし、いじめに遭っていたのも大きな要因だろう。

 友人すらいなかったのだ。恋愛なんて、もっと遠い出来事のようだった。



 それが今や、凜花も恋情というものを知ったのだ。

 初めての感覚に戸惑うのも無理はない。

 幼い頃から経験したことがない感情に心を包まれて平常心を保てる人間なんて、そう多くはいないだろう。



(好きってこんな感覚だったんだ……)



 甘くて、くすぐったくて、けれど少しだけ心が疼くようで。ときには胸の奥がきゅうっと苦しくなって、それでも笑顔を見られるとドキドキして……。

 そんな風に忙しなく変わっていく感覚が恋だったのだ……と知り、気恥ずかしいやらいたたまれないやらで、昨夜から布団を被っては何度も悶えている。



「こんなの、聖さんに言えないよ……」



 風子の言う通り、聖は凜花が気持ちを伝えれば喜んでくれるのかもしれない。

 ただ、彼の前で言えるとは到底思えない。

 心の中で想うだけでこんなにも恥ずかしいのだ。

 本人を前にして伝えるなんて、羞恥の極みである。

 もしかしたら、あまりの恥ずかしさで倒れるかもしれない。



 またもや布団の中でじたばたと悶え、心拍が上がり始めた頃。


――凜花。


 誰かに呼ばれたような気がした。



「え?」



 恐る恐る布団から顔を出してみるが、室内には誰もいない。

 蘭丸と菊丸は起床の時間にならないと起こしに来ないし、桜火は凜花の部屋とふすまで繋がっている隣室にいるはずだ。



――凜花。



 凜花が半身を起こすと、また同じ声に呼ばれた。

 聞き覚えがないと思ったが、聞いたことがある……と感じる。

 なぜかはわからないのに、どうしても行かなければいけない気がした。



 しかし、凜花は勝手に動き回ることを許されていない。

 それが凜花のためであることは重々わかっていたし、最近は聖が定期的に連れ出してくれていたため、特に不満もなかった。



(桜火さんを起こすべきだよね……? でも、気のせいかもしれないし……)



 隣の部屋には彼女がいて、廊下には見張りがふたりいる。

 仮に声をかけても桜火は怒らないとわかっているが、勘違いだった場合は申し訳ないし、なによりもこんなことで大ごとになっても困る。



(屋敷の外に出なければいいよね?)



 凜花は静かに布団から抜け出すと、できるだけ音を立てないように庭へと続く引き戸を開け、そっと足を下ろした。



――行ってはダメ……!



 頭の奥で微かに誰かの叫びが聞こえた気がするのに……。


――凜花。


 愛おしそうに切なそうに呼ぶ声に、どうしてか引き寄せられてしまう。



 凜花は息を潜めるようにして足を踏み出し、声がする方へと歩いていく。

 門の傍に着くと、臣下がふたり立っていた。



「姫様、こんな時間にどうなさったのですか!?」



 屋敷の門には、外側と内側に見張りがふたりずついる。

 声に夢中になるあまり失念していた凜花は、ふたりのギョッとしたような顔を見ながら咄嗟に言い訳を探した。



「えっと……眠れなくて……」


「早急にお戻りくださいませ」


「風に当たりたいのでしたら、桜火様とご一緒に」


「すみません……」



 申し訳なさそうにしつつも苦言を呈したふたりは、困り顔をしている。



「ひとまずお部屋にお戻りくださいませ。私が付き添います」



 見張りのひとりに促されて小さく頷いた直後。


――凜花。


「ぐあっ……!」


 ひと際はっきりとした声が耳に届き、それとともにうめくような声が聞こえた。



「何事だ!?」



 凜花を見ていた臣下たちが門の方へ向く。

 その瞬間、目の前が真っ赤に染まった。

 門が火に包まれたことを理解したのは、一拍遅れてからのこと。



「何奴!?」


「ここが聖様の屋敷と知っての狼藉か!」



 燃える門が崩れ落ちるさなか、炎の中からひとりの男性が現れた。

 まるで炎に燃えるような真っ赤な長い髪、鋭い目、そして四本爪の龍の右手。

 男性が凜花の前に立つ臣下たちを火で薙ぎ払い、ふたりのうめき声が上がる。

 それを気にも留めない様子の彼は、凜花の前まで歩いてきた。



「っ……!」



 両脚が強張り、後ずさることもできない。

 頭の中で鳴り始めた警鐘とともに、心音が大きくなっていく。



「はじめまして、凜の生まれ変わりのお嬢さん。お会いできて光栄だ」



 向けられた声音はどこか優しくもあるのに、凜花は本能的に恐怖心を抱いた。



「俺は火焔かえん



 冷酷な瞳が微かに弧を描いたが、凜花の体は震えていた。



「聖から凜を奪った龍だ」



 そんな凜花に追い打ちをかけるように、火焔がうっすらと笑みを浮かべる。

 刹那、凜花はさきほど自分を引き止めた声は凜だったのだ……と悟った。



「……ッ」



 呼吸も上手くできないままに、なんとか足を半歩下げたけれど。


「おっと」

 彼が龍の手を凜花に向けると、一瞬にして凜花の周囲が炎に囲まれた。



 逃げ場を失くした凜花は、恐怖心に襲われながらも火焔と対峙するしかない。

 傍にいる臣下たちは、ピクリとも動かなかった。



「お嬢さん、俺は聖の座が欲しいんだ」



 不敵な笑顔が、凜花を追い詰めていく。



「お前を凜と同じようにしてやれば、今度こそあいつを殺せる」



 その言葉の意味を噛み砕くよりも早く、凜花を目がけて大きな炎が飛んできた。

 反射的に目を閉じそうになった凜花だが、その瞬間に激しい光に全身が包まれ、凜花の身を守るように炎を弾いた。



「……これは凜の魂の光か」



 彼が苦々しそうに顔を歪め、嘲笑を零す。



「千年経ってもなお、あいつを愛しているのか。……哀れな女だ」



 蔑むようでいて、その声色はどこか悲しそうでもあった。

 しかし、思考が追いつかない凜花の視界には、再び炎を生み出す火焔の姿が映る。

 炎はさきほどの比ではないほどに大きく、恐らく今度こそ逃げられない。



 大きな恐怖と絶望に包まれたとき。


「凜花!」


 聖の声が聞こえ、空から下りてきた彼によって舞い上がる炎の中にいる凜花の体が抱きとめられた。



「久しぶりだな、聖」


「火焔……! 貴様……!」



 聖の右手が龍の皮を纏った五本爪になり、火焔に向けて火を放つ。



「また会おう」



 それは火焔が生んだものよりもずっと大きかったが、炎は火焔に当たる前に彼が姿を消した。



「あのとき、俺にとどめを刺せなかったことを後悔するがいい」



 どこからか響いた声が、霧に紛れるように消えていく。

 凜花の目には、倒れた四人の臣下と燃え残った門が入ってきた。



 駆け付けた玄信と桜火の表情は厳しく、玄信は悔しげに顔を歪めた。



「凜花」



 頭上から降ってきた声に、凜花の体が強張る。



「ぁ……ッ、っ……ごめん、なさっ……」



 恐怖心でいっぱいの凜花は、声を震わせながら滲む視界に聖を映す。



「無事でよかった……」



 彼は凜花を責めもせず、ガタガタと震える凜花をそっと抱きしめた。



「ごめんなさい……。私……呼ばれて、っ……勝手に……」


「いいんだ。怖い思いをさせてすまなかった。もっと早く駆けつけてやれなくてすまなかった」



 悪いのは、聖の言いつけを守れなかった凜花の方なのに、彼は凜花を責めるどころか自責の念に駆られているようだった。



「だが、二度とひとりで行動しないでくれ……」



 泣きそうな聖の声が、凜花の胸の奥を締めつける。

 彼はきっと、凜を失ったときの恐怖心と絶望感を思い出したに違いない。

 そう感じた凜花は、涙を零しながら何度も頷き、謝罪の言葉を繰り返した。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る