三章 共鳴する魂 /二 優しい微笑み【1】
天界での生活は、穏やかな日々が続いた。
自分の過去を打ち明けたあと、聖から昔に会っていたことを聞き、そして彼の言葉に癒されたことによって、凜花の心は確かに救われた。
つらい思い出はまだ消えないが、少しずつ薄らいでいっているのを感じる。
それは間違いなく、聖のおかげに違いない。
あの日から、彼に対する気持ちが変わり始めたことは自覚している。
聖の微笑みにドキドキして、彼を見られるだけで嬉しいと思うようになった。
けれど、聖が城に行ってしまうと寂しくて、蘭丸や菊丸と遊んでいても桜火が綺麗に着飾ってくれても、彼が屋敷にいないと思うとため息が漏れる。
いつしか聖と会えることがなによりも楽しみになっていた。
そのうち、凜花は彼の帰宅が遅い日にも起きて待つようになり、『いってらっしゃい』と『おかえり』を必ず伝えるようになった。
それが、今の凜花にとって幸福を感じられるひとときでもあった。
「凜花、紹介したい者がいる」
そんな日々を送るある日、城から戻った凜花のもとに聖がやってきた。
その後ろには、玄信と知らない女性がいる。見た目は三十代中盤くらいだが、彼女も龍なら外見はあてにならない。
「彼女は
風子と紹介された女性は、穏やかな笑みを浮かべた。
「はじめまして、姫様。お噂はお聞きしておりましたが、とてもお可愛らしい方ですね。お会いできて光栄です。どうぞよろしくお願いいたします」
「はじめまして、凜花です。よろしくお願いします」
風子が深々と頭を下げ、凜花は恐縮しながらも同じようにする。
ボブほどの黒髪には葉をあしらったかんざしが挿されており、着物は淡い黄色の生地に緑色の葉が描かれている。どちらもシンプルだが、彼女によく似合っていた。
「風子は城で料理係をしていたんだが、少し前に子を宿してな。玄信と一緒にいられる方がいいだろうから、こちらに住んでもらうことにした」
以前は、玄信も桜火も城にいたと聞いたことがある。
ふたりとも、城で臣下たちと寝食を共にしていたが、聖が凜花のために信頼の置けるふたりを屋敷に寄越したのだとか。
その際、風子にも屋敷に移ることを提案したところ、城の調理場を仕切っていた彼女は『仕事の引き継ぎを済ませてから参ります』と返事をしたらしい。
「風子が『臨月まではどうしても仕事を休みたくはない』と言うから、腹が大きくなるまでは屋敷内の食事を任せることにした。ここの料理頭には交代で城に行ってもらうため、風子には屋敷の食事を一任する」
「姫様のお好みのものを教えてくださいね」
「はい。ありがとうございます」
「それで、凜花」
聖は、風子と凜花の会話を聞いたあと、凜花に笑顔を向けた。
「凜花にも食事の支度を手伝ってもらおうと思うんだが、どうだ?」
「えっ!?」
「家事ならしてもいいと許可したが、誰にも仕事を与えてもらえなかっただろう?」
「う、うん」
「風子に事情を話したら、凜花の面倒を見ると言ってくれた。ただし、夕食の支度だけだが、天界のことを知るのに料理が少しは役に立つはずだ。もちろん、凜花次第だし、嫌ならしなくてもいい」
「やりたい! やりたいです!」
思わぬ提案だったが、凜花にとっては望んでいたこと。断る理由はなかった。
「あっ、でも……料理はそんなに得意な方ではないっていうか……」
施設にいたときには、皿洗いや片付けばかりで料理はさせてもらえなかった。
社会人になってからは節約のために毎日自炊していたが、料理アプリやSNS頼みだった。しかし、スマホがない今はそれができない。
「心配しなくていい。風子の料理の歴は相当なものだ。何人もの調理係を纏めていただけあって、教え方も上手いと好評だからな。ただし、ちょっと厳しいが」
冗談めかしたような聖に、風子が「まぁ聖様ったら」と眉を上げる。
「姫様に厳しくするはずがありません。きちんと優しくお教えします」
「そうか? この玄信を尻に敷ける者などなかなかいない。こんな堅物のつがいが務まるのは風子くらいだし、てっきり仕事でも厳しいかと思ったんだが」
「それはまた別の話です。だいたい、この人は私の言うことなんかに耳を貸しませんよ。聖様一筋ですから」
「ははっ、そう妬くな。玄信は昔からお前一筋だよ。それに、俺も風子になら安心して凜花を任せられる。玄信や桜火は反対ばかりするからな」
「あらあら。それでは姫様もお暇でしょう」
困ったような笑みを浮かべる風子に、玄信と桜火はバツが悪そうにする。
どうやら、ふたりにとって風子は手強い相手のようだった。
「お暇じゃないです」
「菊たちとかくれんぼしたりお花を摘んだりするです」
そんな中、蘭丸と菊丸が心外だとばかりに抗議をした。
「蘭たち、姫様と毎日たくさん遊んでるです」
「姫様、お暇にならないです」
「ふふっ、そうだったわね。ごめんなさい。お詫びに、明日の朝食にはふたりの好きなものを用意しましょうね」
「ハクの実!」
「雲飴!」
「それは朝食にはならないわね。ハクの実はもう旬が過ぎてしまったし、雲飴はお菓子でしょう?」
クスクスと笑う風子は、とても優しい雰囲気を醸し出している。
「姫様がお料理をしてくださる間、ふたりは修行に励みなさい。蘭丸と菊丸が強くなれば姫様をしっかりお守りできて、聖様もお喜びになるわよ」
「でも、玄信様は稽古つけてくれないです」
「いつも忙しいです」
「あら、それなら私が稽古をつけましょうか」
「やめろ」
不満げな蘭丸たちに風子が笑顔を向けたが、すぐさま玄信が止めに入った。
「風子は腹に子がいるんだ。こいつらの稽古をつけて、万にひとつのことでもあればどうする」
「子どもの稽古くらいでこの子はビクともしませんよ。あなたの子なんですから」
「それでも許さん。稽古なら私がつけるから、それでいいだろう」
「ですって。よかったわね、蘭丸、菊丸」
「はいっ!」
蘭丸と菊丸が嬉しそうに声を揃え、風子は満足げな笑みを浮かべている。
不服そうな玄信に、聖と桜火は笑いを噛み殺すようにして肩を震わせていた。
ここにいる者たちの力関係が一気に理解できた気がする。
堅物で気難しく取っ付きにくい玄信は、つがいである風子には敵わないのだろう。
彼女もまた、夫の扱いを心得ているようだった。
風子は、蘭丸と菊丸とも上手く接した上、聖に対しては尊敬の念を抱えつつも冗談も言えるくらい信頼し合っている。
桜火も、風子には弱いようだった。
「では、玄信も桜火も姫様を調理場でお預かりすることに異論はありませんね」
「……はい」
「聖様が決められ、風子が許可したのなら仕方あるまい」
まさに、お見事と言いたくなるような手腕だった。
誰ひとり反対する者はおらず、凜花はようやくささやかながらも役目を手に入れることができたのだ。
それは、凜花にとっては本当に嬉しいことだった。
なによりも、この屋敷で少しでも役に立てるかもしれないことに安堵していた。
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