三章 共鳴する魂 /二 優しい微笑み【2】

 翌日から早速、凜花が夕食の支度を手伝うことになった。

 凜花は、これまで調理場に入ったことはなかった。そのため、バラエティー番組で観た一流料亭のような台所に目を真ん丸にして驚いた。



 料理係たちはみんな、恐縮するように凜花の様子を窺っていた。

 なんとも言えない空気を感じながらも、凜花が控えめな挨拶をする。料理係たちはどこか余所余所しかったが、主人のつがいと働くのだから仕方がない。



「ほらほら、あなたたちは自分の仕事をしなさい。あまり見られていたら、姫様が緊張なさるでしょう。姫様には私が仕事をお教えしますから、あなたたちは普段通りの仕事をすればいいんですよ」



 こんな状況でも、風子はみんなを上手く纏め上げていた。

 昨日の光景と似ている気がして、凜花が小さな笑みを零す。



「よかった。姫様、あまり緊張なさっていないようですね」


「あっ……すみません」


「あら、いいんですよ。お仕事をお教えするには気安く話しかけていただける方が助かりますし、聖様からも姫様が楽しめるようにと頼まれていますから」


「えっ?」


「ふふっ、本当に愛されていらっしゃいますね」



 彼女に柔らかい笑顔を向けられて、凜花は気恥ずかしくなった。

 なんだか身の置き場がないような羞恥心を抱いたが、ここには仕事をするためにいるんだ……と自分自身に言い聞かせる。



「あの、私はなにをすればいいですか?」


「姫様、包丁を扱ったことはございますか?」


「はい」


「では、ひとまず芋の皮を剥いてください」



 包丁を手渡され、凜花は少しばかり戸惑う。



「……ピーラーなんてありませんよね?」


「ぴぃらぁ?」



 風子は聞いたこともないようで、きょとんとして首を傾げた。



「あ、うーんと……野菜の皮を剥くための道具です。取っ手がついてて……刃を当てながら撫でるようにすると、皮が剥けて……」



「まぁ! 下界にはそんなに便利なものがあるのですね!」


「え? は、はい」


「それがあれば下拵えの時間が短縮できそうだわ。今度、聖様にお願いして、道具屋さんに作ってもらおうかしら。姫様、下界には料理のための道具が他にも色々あるのですか?」



 感激したような彼女に、今度は凜花がきょとんとする。



「は、はい……。うーんと、フライパンとか蒸し器とか……あとは型抜きとか」


「どれもきっと便利なのでしょうね。とっても興味深いです。今度、もっと聞かせていただけませんか?」


「それはもちろん……。でも、下界の話ってしてもいいんでしょうか?」


「え?」


「えっと……ここでは聖さん以外の人に下界のことを訊かれたことはないので、てっきり禁句なのかと……」


「そんなことありませんよ」



 しどろもどろ告げれば、風子が優しい眼差しで凜花を見つめた。



「みんな、姫様とお話してみたいと思っています。ですが、聖様のつがいとなれば、そう簡単に口を利くことは許されません。聖様はそんな風に禁じる方ではありませんが、臣下たちの間では暗黙の決まりのようになっていますから」


「そうだったんですね……」


「姫様の世話役の桜火は、ここではそれなりの地位があります。そして、ご存知かもしれませんが、玄信は聖様の右腕です。蘭丸と菊丸は特別に守護龍として任務を命じられていますが、他の臣下たちにとって姫様は気安く話せるお方ではないのです」



 彼女の言葉は、凜花自身も感じていたことではあった。

 蘭丸と菊丸はともかく、ここでは他の臣下に色々と命じている玄信と桜火ですら、凜花に気安く話しかけるようなことはない。

 特に、ずっと傍にいる桜火は、あまり他の者を寄せつけようとはしなかった。

 凜花の部屋には、相変わらず聖が許可した者以外が入れないこともあいまって、臣下たちとはそうそう会話をする機会もないのだけれど。



「でも、姫様がお話になられたいのでしたら、遠慮なく話しかけてみてください。みんな、最初は戸惑うかもしれませんが、きっと姫様のお人柄に惹かれると思います」


「そんな……」


「あら、姫様。私はもう、姫様のお人柄に惹かれていますよ」



 風子が社交辞令を言うような女性ではないのは、昨日でなんとなくわかった。

 けれど、自分自身のどこを見てそう思ってくれたのかがわからず、凜花は困ったように笑みを浮かべることしかできなかった。



「さぁ、お仕事を始めましょう。ぴぃらぁとやらはありませんので、包丁で皮を剥けますか?」


「頑張ってみます……!」



 平成生まれで、令和の時代を生きてきた。

 そんな凜花にとって、ピーラーは当たり前にあったもの。

 包丁を使って野菜の皮を剥いたことはなかったが、彼女が丁寧に教えてくれたおかげでなんとか芋の皮を剥くことができた。



 芋とはいっても、レタスのような黄緑色の皮で、ナスのような形をしている。凜花が知っている芋とは全然違い、これが芋だと言われなければわからないだろう。

 驚きはしたものの、初めて入った調理場では知らなかった食材をたくさん目にし、それだけでも楽しかった。

 凜花が剥いた芋の皮は分厚く、風子からは「これから頑張りましょう」と笑われてしまったが、彼女と過ごす時間は凜花を明るい気持ちにさせてくれた。




「調理場での仕事は楽しいか?」


「うん、とっても!」



 凜花が仕事を与えられてから半月。

 聖からの問いに、凜花は笑顔で答えた。彼も安堵したように微笑む。

 最初は分厚く剥くことしかできなかった野菜の皮も、日に日に薄く剥くことができるようになってきた。



 しかし、風子の話ではもうすぐピーラーが完成するのだとか。

 彼女はあの日に言っていた通り、早々に聖に頼んで道具屋を呼び、ピーラーを作るように依頼した。

 その際、凜花は説明を事細かくさせられた。ピーラーを知っているのが凜花しかいないのだから、それは仕方がない。



 ところが、風子は下界で使っていた他の調理器具のことも尋ねた上、道具屋にそれらも作るように言い渡したのだ。

 これには、説明させられる凜花も作らされる道具屋も、さすがに参った。



 とはいえ、そんなに簡単に完成するわけでもないため、ひとまずピーラーができるのを待ち、それから他の道具について相談することになった。

 彼女は、ピーラーの完成を待ちわびている。

 道具屋は困惑しながらも、大口の仕事だと喜んでいるようでもあった。



 それに、凜花が話す調理器具に興味を示したのは風子だけではなく、料理係たちもみんな少しずつ興味を持ち始めた。

 おかげで、いつしか自然と料理係たちと会話ができるようになっていた。

 もっとも、風子がさりげなく凜花の話をみんなに聞こえるようにしていたことには気づいている。

 仕事だけではなく会話のきっかけまで与えてくれた彼女には、感謝しかない。



「やはり、風子に頼んで正解だったな」


「うん。風子さんはもちろんだけど、聖さんのおかげだよ。本当にありがとう」



 聖が瞳で弧を描く。



「凜花が喜んでくれるのなら、これくらいお安い御用だ。むしろ、もっと早くこうしてやれたらよかったんだが、時間がかかってすまなかった」


「ううん。風子さんが仕事熱心な人だってことは、この半月でよくわかったから。お城の仕事を置いてこられないのも当然だよ」


「玄信も風子も、夫婦揃って仕事好きだからな。あのふたりは休むということを知らないんだ」


「それは聖さんもでしょ?」



 凜花の言葉に、彼が片眉を上げてどこか不服そうにする。



「バカを言え。俺は仕事より凜花と過ごす方がずっといい。できることなら、仕事のことなど考えずに凜花と毎日一緒にいたいくらいだ。あんな奴らと一緒にするな」



 聖が無責任な人ではないことは、もう知っている。

 けれど、その言葉が嘘ではないこともわかっていた。



「そんなことしたら困る人がたくさんいるでしょ」


「そうだな。天界の治安を守るためにも俺が責任を放棄することは許されない。だが、凜花と四六時中を共にしたいと思っているのは本心だ」



 真っ直ぐな想いを向けられて、凜花は心がくすぐったくなる。

 さらにはふわりと笑いかけられて、胸の奥が甘やかな音を立てた。

 彼から目が離せない。

 覚えたての感覚に戸惑うばかりで、どうすればいいのかわからない。



 それでも、凜花はもうとっくに気づいている。

 聖に心が惹かれている――と。



 彼の優しい微笑みを前にすると、胸の奥がきゅうっとなる。

 嬉しいのに微かに苦しくて、幸せなのにわずかに切なくなる。

 そして、聖ともっと一緒にいたい……と思うのだ。



 ただ、つがいになる覚悟を決めるには、もう少しだけ勇気が足りない。

 彼の傍にずっといたいと思う気持ちは、確かに心に強くあるのに……。つがいの契りを交わすということの重さに向き合うのは、まだ上手くできずにいた。



 そのことに罪悪感を抱えることもあるけれど、聖は決して急かしてこない。

 彼は、自分の想いを隠すことはなかったが、凜花の心が決まるまで待ってくれるつもりでいるようだった。

 それを知っているからこそ、凜花の中には焦りが芽生え始めていた。


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