第2章 第9話
五月も半ばを過ぎて、気温も最近は高くなってきている。階段を登り切って山頂につくころには、少し汗ばんでいた。数歩遅れてやってくる牧は、私よりも息を切らしているのに、なぜか私よりも汗をかいていない。そしてどんなに暑くなっても、やはりパーカーを手放そうとはしない。今日はノースリーブタイプを着ている。
階段を登りきってすぐ、鳥居越しに振り返れば町がきれいに一望できる、とはならないのが宮体神社の惜しいところだ。あいにく木々が生い茂っていて、景色は開けていない。町を見渡したいときは、鳥居から社務所側に少し移動する必要がある。そなえつけられたベンチが目印で、そこからは木々に邪魔されることなく一望できる。山頂といってもそれほど広い場所ではなく、日向よりもむしろ木影が多い。
「白猫を助けて、そのあと牧はどこにいたの?」
こっち、と牧が案内するほうについていく。神社のちょうど真裏に移動し、転落防止の柵の近くに生えている木の根元を指さした。周囲に生えている木々と比べてもこれといった特徴のない木だった。もっとひときわ幹が太いとか、神秘的な雰囲気を出してくれる木の根元とかだったら調べ甲斐がありそうだったが、いまのところは尺取り虫が一匹、一生懸命昇っているのを見つけただけだった。
牧はこのあとまっすぐ山を下り、そしてふもとのお堀の水面で、自分の頭に猫耳が生えているのを知る。
「なにも見つからないね」
「見つけるべきものが分からないんだから、見つかるわけない」
それもそうだ。
牧が続ける。
「で、このあとどうするの?」
「とりあえずお祈りしとこうか。することないし、暇だし」
「あんたは時々ナチュラルに失礼なときがある」
こんな会話を聞かれていたら、確かに神様もそっぽを向いてしまうかもしれない。宮体神社にはそもそもあまりこない。登るのが面倒くさいという以上に、このあたりにはなぜか猫が寄り付かないからだ。たぶん、お堀に囲われているからだと思っている。水が苦手な猫は多い。宮毛町で唯一、猫のいない場所といってもいいかもしれない。
本堂に向かって立ち、おさい銭箱の前で小銭を投げる。鐘を鳴らす係を牧にゆずって、二礼二拍手一礼。
私が一礼して終わると、横の牧はまだ手を合わせている最中だった。熱心だなぁ、と心のなかで笑おうとして、とたんに頬がひきつった。
彼女の手の甲から、白い毛が生え始めていた。猫化の進行はさらにすすみ、あっという間に手の表面を覆う。
「ま、牧」
声をかけられて不機嫌そうに牧が目を開ける。そして自分の手に起こっている変化に、ようやく気付く。もぞもぞは今回、機能しなかったのか。
ぎゃ、ぎゃ、ぎゃ、と牧がうめく間も進行し続ける。最後の大きな変化は手のひらに起きた。ぷくっとした桃色の膨らみが浮かび上がってくる。肉球だった。両手の平が肉球におおわれると、ようやく猫化が治まった。
「あんたが失礼な態度取るからこうなったんだ!」
「ぐ、偶然だって」
「神様がお怒りになったんだ!」
「牧だってここに祀られてる神様のこと知らないくせにっ」
「ヤマモトタケルの尊とかそんなのだよ!」
「誰だよヤマモトタケル! そのへんにいそう!」
「あんたこそどうせ知らないでしょうがっ」
「ヒミコとかそんなのでしょ」
「馬鹿すぎて吐きそう!」
このやり取りを見られたら、私たちどころかこの町さえ見離して神様がいなくなりそうだった。
殴りかかる牧をおさえて、ちゃっかり肉球に触ってみたが、やっぱり本物の猫のそれだった。手の甲も完全にではないが、全体の三割くらいが白猫の毛でおおわれている。指先も変わっているかと思ったが、牧自身の指のままだった。そして今回は何より、猫化が起こる瞬間を初めて目にした。ああ、動画を撮っておけばよかった。
「祀られているのは、
完全にふいをつかれて、私と牧は同時に振りかえる。
そこに一人の女性が立っていた。
白い着物に、紫色の袴。竹箒を抱えたまま、こちらに微笑んでくる。何よりも目を引くのは、雪空のような色の髪。砂利の敷かれた地面に、あと少しでつきそうなほど長い。
「波雁壇王稲荷というのはこの土地に繁栄をもたらした神様で、その眷属は猫でした」
女性の声は不思議と、一音いちおんがはっきりと耳に届いてくる。どこまでもすき透っていて、聞くたびに体が穏やかに冷やされていくような、そんな声。
「申し遅れました。宮体神社の神主を務めている、
同じようにお辞儀を返す。牧は振り返ったとき、パーカーのポケットにとっさに手を隠していた。その手は出せないので、少し失礼な所作になってしまう。
神主の生水さん。頻繁にではないものの、この神社には一応、初詣や夏祭りで毎年来ている。それでもいままでこんな奇麗なひとを見かけたことはなかった。会っていれば、その特徴的な髪の長さと色ですぐに覚えるはずだ。こんなひと、本当にいただろうか? いつからここの神主をしているのか。もしかしたら、つい最近やってきたのもしれない。
「ところでそれ」
と、生水さんが牧のほうを指さす。ぴくり、と一瞬だけ牧が跳ねる。身構えたのは当然で、その指はまっすぐ、牧のパーカーのポケットを指していた。
生水さんはこちらの緊張をほぐすように穏やかな笑みを浮かべながら、少しも動じることなく、言ってきた。
「とても素敵な肉球ですね」
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