第2章 第10話
社務所内の和室に通され、二人で待っていると、
「どうぞ。暑いから熱中症に気をつけてくださいね」
「あ、どうも……」
「ちなみにこの茶器は昨日買って届きました。お茶はまったく立てられません」
がくっ、と
「期待した? ねえ期待しました?」
「いや、まあ、はい」
私たちの反応を見て、くすくすと上品に笑う。仕草と性格がいまいち合わない。なんだこのお茶目なひとは。
出会ってまだ数分。神主の生水さんについていま分かっているのは、どことなくつかみどころのないひとであることと、そして何より――
「で、その肉球ですけど」
猫の呪いに、まったく動じないこと。
これと同じかそれ以上の不可思議な現象を、何度も見てきているかのような余裕があること。
なかでお茶でも、と誘われて、この部屋にやってきた一番の理由でもある。
「
「四回目です」牧が素直に答えた。
「そのあとすぐ、意識を取られたりすることはありませんか?」
「はい、あります」
やはり知っている。
牧の身に起こっていることを、完全に理解している。
横に座る牧の姿勢を、自然と前のめりになる。隠すこともすでにやめて、白猫の毛と肉球が生えた両手を堂々とテーブルに出している。
「この呪いのこと、知ってるんですか?」
「私は呪いではなく『祝福』と呼んでいます」
「祝福?」
どこかで聞いたことがあるような響きだった。どこでだろう。昔、牧と話したとき、同じような単語が話題に出た気がする。
生水さんは並べた茶器を丁寧にしまいはじめる。見せるだけ見せて、もう満足したのだろう。
「この町に長くいれば、誰もがこの手の話を一度は耳にします」
都市伝説。
この町に住む猫は時々、人を呪うことがある。
生水さんもやはり、宮毛町に長く住んでいる住人なのか。
「職業柄、私はその手の話について、人よりも多く見聞きしてきました。いくつか相談に乗ったことも」
懐かしむように生水さんがほほ笑む。
「でも、これが祝福なんですか?」牧が訊いた。
「最原さんのなかで、きっかけになるような出来事は思い当たりませんか?」
「ひとつあります」
聞かせてほしいというので、牧は一から話し始めた。お茶のペットボトルの表面についた水滴が、テーブルに落ちていく。することもないので口をつけると思っていた以上に喉が渇いていたことに気づいた。
話し終えると、穏やかな口調のまま生水さんは答える。
「確かに祭原さんにとっては苦労続きの日々かもしれません。ですが話を聞く限り、その白猫さんも故意に祭原さんと遭遇したわけではなさそうですし、何よりその現象が起きなければ、トラックに轢かれて亡くなっていたかもしれませんよ」
「それは、そうですけど……」
牧は自分の手もとを見つめる。その指先で、手のひらにあらわれた肉球をそっと撫でる。私はまだ触らせてもらえていない。
「祭原さんは、黒猫の話はご存知ですか?」
「黒猫。不吉な象徴とか、そういう話ですか」
「違うよ、むしろ幸福の象徴なんだよ黒猫は」
牧の言葉に思わず口を挟む。聞いたことない話だ、と私をいぶかしむように見つめ返してくる。
「奈爪さんのおっしゃる通り、黒猫は福をもたらす象徴とされています。よく黒猫が横切ると不幸が訪れるという話がありますね。あれは横切られることで不幸が訪れるのではなく、幸福の象徴から目を合わされずに横切られるから、幸福が逃げることによって不幸が訪れるといわれています」
「はあ……」
「利も害も、物事はとらえかたしだいです。それなら、前向きに『祝福』と受け取ってみてはいかがでしょう?」
ゆっくりと言葉を飲み込むように、間をおいて、いつになく真剣に牧は答える。
「……つまり、もう元には戻れないってことですか? 解決する方法はない?」
「いえ、ありますよ」
がくっ、と本日二度目の肩透かし。さっきまで、不治の病を受け入れといわんばかりの口調だったのに。このひとはいちいち翻弄してくる。
生水さんは猫の祝福について補足を始めた。
「不可思議な現象が起こる仕組みは単純で、この土地に眠る『ある力』が作用しているためです。その『力』を求めて、全国から猫が集まります。細かな説明は省きますが、その『力』は猫と特に相性がよく、猫を引き寄せやすい傾向にあります」
「宮毛町に猫が多いのは、それが理由ですか?」
私が訊くと、生水さんはうなずく。
「『力』は猫という器のなかに、アトランダムに入り込みます。力を持った猫はたびたび、常識では考えられない不可思議な現象を引き起こします。その子自身が力をコントロールできることもあれば、無自覚に暴走させてしまっていることもあります。そのあたりは千差万別で、そもそも自身に力が宿っていること自体に気づいていない子もいます。気づかないまま力が次の猫さんに移るというケースがほとんどのようですが、まれに人を巻き込むこともあります」
「それが今回の現象」牧がつぶやく。
「猫との一体化に限らず、幅広い種類の現象が起こりますが、このように元の仕組みはすでに分かっているので、ある程度の対策もできるようになってきました」
生水さんはそうやって結論を告げる。
「症状が進んでいると手遅れになりますが、最原さんの場合はまだ大丈夫だと思いますよ。だから安心してください」
解決策の手がかりが少しでも見つかればと思って、特に大きな期待もせずに訪れた宮体神社。来てみれば思わぬ収穫と、予想以上の進展があった。何事も行動に移してみるものだ。生水さんの言葉を借りるなら、これも何かの祝福かもしれない。
「ひとつ訊いてもいいですか?」私が手を上げる。
「どうぞ、ひとつといわずいくつでも。普段は特定の人としかあまりお話をしないので、退屈してます。いっぱいお話しましょう」
温和で上品な割によく笑うし、よくしゃべるし、よくからかう。話すたびに印象が変わる不思議なひとだ。
「生水さんは牧の身に起こってる現象について、どうしてそこまで詳しいんですか? こういうケースはほかにも何度もあったんですか?」
「めったにありませんが、経験がないわけではありません。むしろ猫さんたちが起こす現象のなかでは、私が一番よく知っているパターンです」
「めったにないけど、よく知ってるって、矛盾してませんか……?」
「確かに。言葉で伝えるよりも、お見せしたほうが早いかもしれませんね」
くす、と笑い、それから正座をといて立ち上がる。
生水さんは袴の紐をゆるめ、白衣のすそを出し始める。みるみるうちに胸元が露出し始めて、思わず目をそらす。私とは反対に牧は凝視したままだった。何かに圧倒されているような顔だった。
完全に脱げた白衣を片手で胸元に手繰り寄せ、それから背中を向けてくる。
「これがよく知っている理由です」
生水さんはもう片方の手で髪を持ち上げた。床につきそうなほど長い灰色の髪が幕のように上がり、とたんに隠れていたそれが、あらわになる。
生水さんの背中は、びっしりと灰色の猫の毛におおわれていた。
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