第2章 第8話


 まきがもう寝るというので、テレビを消して隣の寝室へ向かった。引き戸を開けると、ベッドに勉強用の机と椅子、棚にクローゼットとシンプルなつくりの部屋が現れる。床には即席の布団が敷かれている。高さが違うとはいえ、ベッドとの距離がかなり近い。


 なかなか寝室に入ろうとしない私に、牧が首をひねる。


「私、ソファで寝てよっかな。あそこも寝心地良さそうだし」

「それじゃあ猫に意識奪われたとき、すぐに止めに入れないじゃん」

「それはまあ、そうだけど……」

「なに、布団嫌なの?」

「いやそうじゃないけど」


 もういいや、とため息をついて布団に移動する。そういえば牧は、久々に部屋に来たときも躊躇なく私のベッドに居座っていた。こういうところがおおざっぱというか、雑というか。私だけが変に意識して、馬鹿みたいだ。お風呂のときはすっかりテンションが上がってしまったけど、いまではすっかり冷めていた。気分がころころ変わるのは、いったいどっちだ、と自分に呆れる。


 牧はベッドでストレッチを始める。前に猫に意識を奪われて、あのあと筋肉痛になったらしい。今回はそれに備えて体をほぐしているのだろう。


「いまのところはどう?」

「予兆はない。けど、意識を奪われるときはそもそも、もぞもぞが来ない」

「そうだっけ」


 以前として、いつ来るかわからない状況。いまこの瞬間に代わるかもしれないし、明日になっても意識の強奪は起こらないかもしれない。

 ちょっと待って、とそこで疑問がわく。


「もしかして牧が寝てる間、私って見張って起きてなきゃいけないの?」

「安心して。わたしだって鬼じゃない。一時間くらいは許してあげる。そのためにわざわざ布団も用意したんだから」

「拷問か」

「わたしが起きたときにあんたが寝てたら、布団ごと外に放り出すからね」


 笑顔で一方的に言い放ち、牧は自分だけベッドに入り込んで眠る準備をてきぱきと進めていく。抗議する暇もなく、そのまま容赦なく部屋の明かりが落とされた。一気に一人きりになった気分だった。


 リビングでテレビでも観ていようかと思ったが、そばにいないという理由でそれも怒られそうな気がした。仕方なく布団に入り、知らない部屋の知らない天井を眺める。

 牧の家には何度か泊まりに行ったことはあるが、一人暮らしの牧のマンションに泊まるのは今日が初めてだ。というよりよく考えてみれば、部屋に入ったのも今日が初めてだった。カレーを無事につくり終えるのに集中していて気付かなかった。


「ねえ、牧」

「……何」

「枕の高さが合わない」

「お前寝る気だろ!」


 飛び起きて怒られた。一時間寝るだけだ、と言い訳をして、しぶしぶ枕の高さを調整するためのシーツをもらった。三回折りたたんで枕に重ねると、ちょうど良い高さになった。これで快適に近づいた。


「ねえ牧」

「今度は何」

「足の間にはさむ抱き枕もほしい」

「やっぱり寝ようとしてるだろ!」


 これは許可が下りなかった。一時間どころか一〇時間は寝てやろうと思ったが、叶わなかった。

 もういいから寝かせろ、と牧が寝がえりを打って背中を向ける。とうとう会話がなくなり、完全な沈黙が落ちる。


 窓のほうに目をやると、カーテンのレースの奥で、ぼんやりと月が浮かんでいるのが見える。完全にカーテンを閉め切らないのは、寝るときの牧の好みだ。部屋を完全に暗くしたくないと、泊まるたびにいつも言っていた。


「ねえ牧」


 もう返事はない。

 分かっていて、だから聞く。


「前に泊まったときのこと覚えてる?」


 ただよう沈黙に、一方的に満足して。

 また月の観察にでも戻ろうかと思ったそのとき。

 彼女の声が返ってきて、驚いた。


「わたしの家で泊まった。わたしの両親と四人で洋食のレストラン行って、夕食食べた日。そのあとスーパー銭湯に行った」

「……覚えてたんだ」

「絶交する二か月前だったしね」

「うん、そうだね」


 クラスが一緒になり、再会して、初めてその話題に触れたかもしれない。けどきっと、いつも心のなかではその単語が躍り続けていた。絶交。一言も話さないといわれたし、話しかけるなとも言われた。


「私が約束やぶって、牧が怒って絶交になった。待ち合わせ場所だった宮毛山中央公園の高台に、仮病して行かなかったから」

「……少し違う」

「え?」


 よく聞こえるように、牧のほうに顔を向ける。彼女はまだ背を向けたままだった。数秒待って、また答えがあった。


「高台にこなかったから、絶交したわけじゃない。いろいろムカつくことが、積み重なったからそうなっただけ」

「積み重なったって、何が?」

「うるさい。もういいよこの話」

「ねえ待って。どういうこと? 他に理由があるの?」


 もう少し聞かせて。そう先を続けようとしたとき、牧がとつぜん体を起こす。思わず私も布団から起きる。


 次の瞬間、牧はベッドからそのまま私に飛びついてきた。両腕をつかみ、縫いつけるみたいに布団に押し倒してくる。私がしつこく訊くので牧が怒ってそうした、というわけではなかった。


 手首を握ってくるこの力強さに覚えがあり、予感にかられて目を合わせると、やはりそこにいた。


「ニャア」


 白猫の、マキのほう。


 猫は例外なくすべて愛せる自信があるし、こんなことで嫌いになりはしないけど、この瞬間ばかりは、ちょっとタイミングが悪かった。牧からあと少しで聞けそうだった話は、結局これでうやむやになりそうだ。


「ニィィ」

「あはは、くすぐったいよぉ」


 首筋を舐められて、こらえきれずに笑う。あとでまた、頬を染めて叫ぶ牧を見ることになりそうだった。


とりあえず、これで仮説は立証された。

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