第2章 第5話
「ちょちょちょちょちょちょ待って待って待ってええぇぇ!」
エントランスを抜けると、マキがちょうど塀を降りるところだった。音のない着地で、一瞬だけ本物の猫に見えた。二階の窓から飛び降りたことといい、
「まずいってまずいって……」
靴下のまま四足歩行で通りを進んでいく。幸い、人間の骨格的にスムーズな動きができないらしく、本来の猫の速度と比べれば早くないし、白猫ちゃん自身もまだ牧の体を自由にコントロールできている印象はない。
待って、と何度か叫ぶがマキが止まる様子はない。夕方でこれから徐々に人通りも増えてくる住宅街。誰か一人にでも見つかれば、どんなことになるか。一番マズいのはマキが学校の制服を着ているということだ。きっとすぐに特定される。誰かが好奇心で動画でも撮っていたら? 不登校どころか、二度と外に出なくなるかもしれない。
マキが角を折れる。その先にあるのは公園だった。追いかけると敷地に入り、まっすぐ砂場に向かっていくところだった。猫と砂場と聞いて、反射的に連想する。
「まさか、トイレっ?」
そんなこと絶対にさせられない。事情を知らない他人が見たら、四つん這いの女子高生が子供たちの遊ぶ公園の砂場で用を足すところにしか見えない。なかに白猫が入っていたんです、と語っても裁判では不利だ。
駆け寄って近づくと、想定していたようなことは起きていなかった。トイレではなく、砂場にいる他の茶トラの猫と挨拶をしているところだった。お互いに鼻先を嗅ぎ合っていて、茶トラ猫も牧を人間として認識しているような様子はない。そのなかに猫がいることを、きちんとわかっているような、本物の猫同士の交流。
とはいえ、危機は去っていない。公園を抜けたすぐ向こうは商店街につながっている。あそこまで行けば本当におしまいだ。
公園内を見回すが、ひとはいなかった。いや二人いた。小さな息子の手を引いて母親が急いで出ていくところだった。目撃されていたらしい。大丈夫、まだ大丈夫。
気配がして振り返ると、猫が三匹、砂場に集まろうとしていた。牧を追いかけてきていたあの猫の群れの一部だった。
「ナァーオ」
マキが猫たちに気づいて、一声鳴く。調子の高い声。明らかに何か会話をしようとしているのがわかる。マキの声に導かれるように、猫たちが歩調を早める。何が始まろうとしているのかは分からない。けど、これ以上派手な光景が広がる前に、なんとかしなければいけないのは確かだ。
「マキ、ちゃん!」
呼びかけて、私が取り出したのは、さっきまで遊んでいたネコじゃらしだった。
気を引けるか自信がなかったが、マキはちゃんと私と、私の持つネコじゃらしに気づいてくれた。茶トラ猫との交流をやめて、ゆっくり近づいてくる。一歩、いっぽと手足を動かして、手のひらに砂利がつくのもいとわず、小さく鳴く。
「そう、そのまま、そのまま来て」
近づいてもらって、それからどうする? 抱えて帰るか? 抱えられるだろうか。たぶんできる。ぎりぎり可能なはず。背中に背負うよりは前に抱える格好になるだろう。それもなかなか際どい光景だが、砂場で猫の群れと何かのサミットを行っている光景よりはまだマシだ。
ネコじゃらしを振って揺らす。緩急をつけて、なるべく生き物っぽく。
マキが立ち止まり、腰をつきあげて、いよいよ飛びかかる姿勢になる。早く腰までめくれあがっているスカートを直させてほしい。
「来て!」
「ニャア」
収縮されたばねが解放されて伸びるように、マキが飛びついてきた。あまりの速さに反応が遅れ、握っていたはずのネコじゃらしの棒が衝撃で手から離れる。簡単に奪われてしまった。このまま咥えて、どこかに持っていかれでもしたらまずい。
躊躇せずネコじゃらしに気をとられているマキに飛びついた。おおいかぶさるようにすると、もがいて逃げようとする。ぐう、ぐぐう、とくぐもった声を上げる。数回抵抗されたのち、何とか抱え上げることに成功する。
「よしこのまま――」
目が合って、そこで言葉が止まる。
その瞳の奥に、人間的な正気が宿っているのを、すぐに察知した。
耳や頬が一瞬で赤くなっていく。この反応を私は前に目にしていた。
「も、戻った? マキじゃなくて牧に戻った? ええと、それじゃあ、とりあえず叫ばないでもらえると助かる」
「ひぎゃああああああああああ!」
耳の近くでもろに絶叫を食らってしまう。ばたばたと猫以上に激しく暴れて、たまらず体勢を崩して、一緒に転ぶ。集まりかけていた猫の群れもそこに白猫がもういないことに気づいたらしく、一目さんに散っていった。
牧は羞恥のうめきをあげながら、その下に親でも埋まっているみたいに、地面を拳の側面で叩き続ける。そのうちすすり泣きも聞こえてきた。普段は飄々としているのに、追いつめられるとこうして、一気に外面が崩れる。
「もうだめ、殺して……もういっそ殺して……」
「大丈夫、まだ大丈夫。商店街とかには行ってないし人目も奇跡的についてない。セーフだよ、よかったねぐえええええ」
首を絞められた。
なぜか私が殺されそうになっていた。もがいて手を外そうとするが解放してくれない。あ、これ本当に殺そうとしている。
「忘れろ忘れろ忘れろ忘れろぜんぶ忘れろ!」
「じぬ……」
「あんたが死ぬか私が死ぬしかもう道はないの!」
ころころと態度や表情が変わる、その様子は、まるで猫だった。
***
牧は昼から登校してきた。さすがに今日は休むのかなと思っていたが、遅刻を気にする様子もなく、淡々と席につく。それからいつもの、気軽に声をかけづらい、凛とした美人の雰囲気をつらぬきはじめる。一周まわってもはや笑える。
話しかけるタイミングもなく放課後を迎える。早々に教室から出る牧を追いかけて、階段の前で呼びとめた。相変わらず不機嫌そうな顔だけど、前よりも抵抗なく、振り向いてくれるようにはなっていた。
「ちょっと話せる?」
「五時からお祖母ちゃんと買い物があるんだけど」
「数分でいいから。分かったことというか、気づいたことが一つある」
牧は数秒考えたあと、階段をのぼり戻ってくる。そのまま顔を上に向けるので、意図を理解し、彼女のあとについて屋上の踊り場まで移動した。
牧のいない午前中にこれまでの出来事を整理して、私なりにひとつ仮定を立ててみた。とりあえず筋が通っていることのように思えるし、今後の牧の助けにもいくらかなるはずだ。だから報告するなら早いほうがいいだろうと、一見は素行不良の生徒だけどお祖母ちゃん想いとかいう、露骨な高感度上げをしている彼女を呼び止めた。
屋上の踊り場でメモしたノートの紙切れを見せる。書かれた内容を読み上げていく。
「牧が抱えてるその猫の呪い、出現の仕方に順序があるんじゃないかって思うの」
「メモまで書いたのか。で、順序って?」
「最初はまず猫耳が生えてきた。その次に教室で意識を奪われた」
私の言葉に続いて、牧がメモを読み取る。
「んーと、その次に尻尾が生えて、また意識を奪われた」
「そう。だからつまり、いまのところは必ず交互に現象がやってきてる」
「なるほど。もしくは白猫が意識を奪う予兆として、体の一部が猫になる現象が起こる」
これまでの現象を整理するなら、その過程が成り立つ。法則を確定させるにはまだ少し回数の根拠が足りないけど、検証してみる価値はある。
牧がメモに目を落としながら続ける。
「最低なこの呪いにいま言ったルールが当てはまるなら、次にやってくるのは、体の一部が猫になる現象」
「また尻尾が生えるのかもしくは猫耳か。それとも新しいどこかか」
「いいんじゃない? 間違ってないと思う」
やけに他人ごとな感想を漏らしながら、牧はメモを乱暴に畳んで、ポケットにしまう。昔からものの扱い方が雑な印象で、小さなメモ用紙ひとつとってもその様子が垣間見える。過ごした時間が接着剤となって、気質や性格は簡単には本人からはがれ落ちない。
「いいんじゃないって、反応薄いなぁ。大発見だと思ったのに」
「前も言ったけど、最近は少し慣れてきた。わたしも冷静に対処できるようになったきたし、いまさら法則が分かってもね」
「祭原さん、冷静に対処できるひとが他人の首を絞めたりはしないと思うの」
「もう謝ったじゃん」
「いやいやいやいやいや一言も聞いてませんが」
食い下がる私に、しっしと追い払うような仕草。なんという失礼な態度。決めた。このこのやり取りが終わるまでに絶対に高感度を下げてやる。
「ちゃんと謝るまで帰さない」
「だから謝ったってば。あんたと会ってからわたしが今日話した言葉の頭文字を取ったら、『ごめんなさい』になるから」
「…………分かるかそんなテクニカルな謝罪!」
確かに言っていた。五時から、と言っていたところから、いいんじゃない? のくだりまで、頭文字を取ると確かに謝っている。やけにまどろっこしい表現や答え方が多いなとは思っていたけど。そこまでか。そこまでして私に正面から謝りたくないのか。
「用事ないならもう帰るけどいい?」
「ぐ、ぬうう」
階段を先に降りて帰ろうとする。追いかけようと思ったけど、見苦しさを重ねてしまう気がして、今日はあきらめた。
姿が見えなくなる直前、振り返らずに表情を一切見せないまま、牧は最後にこう残していった。
「でもまあ、一応ありがと……」
ずるい答え方だった。
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