第2章 第6話
週末、
牧が先に立ちあがって教室を出る。なぜ直接話しかけにこないのか。まわりくどさに溜息をつきながら、私も教室を出た。
空き教室で牧は机に腰掛け、足をぷらぷらと揺らして待っていた。
「なんでここ? いつもの屋上の踊り場じゃだめなの?」
「朝はあそこ用務員が掃除しにくる。ここの掃除は最後のほうだからいまは誰もこない」
「さては何度かここでサボってるな」
「失礼なこと言わないで。自習してるだけだから」
答えながら、牧が机から降りる。
そして私と向かい合い、つけていたマスクをあっさり外した。
風邪や体調不良が理由ではないことは、なんとなく察していたけど。
鼻のすぐ横に生えている、その長く白いヒゲに目を奪われて、私は言葉が告げられなくなる。
「叫ばないあたり、そっちもだいぶ慣れてきたじゃん」
「いや、まあ、それは……」
新しい部分の猫化。今度はヒゲ。どうやら表出の仕方には、まだまだバリエーションがあるらしい。猫耳や尻尾を見たときと同様、脳にがつんと衝撃がくる。そしてやはりというか、衝動を抑えられなくなる。
近づいて、手を伸ばす。
案の定というか、もちろん叩かれた。
「触らせてよ」
「嫌に決まってるでしょ。針を二千本に増やされたいの?」
「じゃあせめて写真を」
「それもだめ」
「写真くらいいいだろうが!」
「なぜそんな堂々と逆ギレできるの?」
牧の感情に呼応するように、ヒゲがぴんと張りだす。その反応を見てますます触りたくなる。だいたい二人きりにまでなっておいて、誰にも見つからない場所におびき寄せて、それで少しも触らせてもらえないなんて、生殺しもいいところだ。
「一応報告しただけ。
「そしたら、そのヒゲが治まったあとには……」
牧が警戒するようにうなずく。
「またあの白猫に意識を奪われる」
猫の一部分が表出している体を見られることより、本当に恐れているのはそっちのほうだろう。猫耳や尻尾、ヒゲなら最悪、コスプレで押し通せそうな気がしないでもない。だけど教室で最初に暴走したときみたいなことが起こると、用意しなければならない嘘がもっと複雑化していく。ちなみに教室はいま、数学教師と体育教師の交際関係についての話題でもちきりになっている。
「ヒゲが生えてくる前、今回ももぞもぞはあったの?」
うん、と牧が答える。
「このヒゲもたぶん今日か明日には消える。それでいいけど、意識を奪われるほうは一人じゃ対処できない」
目つきがそこで変わる。猫の目のように光り、見つめてくる。
「……もしかして呼び出したのって、ヒゲを見せることが目的じゃなかったりする?」
「これはどちらかというとあんたを釣るための餌」
牧は何か対策するための計画を立てているようだった。
そしてどうやら私も、それに協力することになっている。おそらくとても面倒くさいことだ。いつの間にか牧は立ち位置が変えていて、ドアの間にきれいに立ちふさがっている。私がうんと言うまで帰さない気でいた。
牧は計画の詳細を、こんな一言で始めた。
「今週の土日、ちょっと空けてもらえる?」
***
白猫のひげが取れたと連絡を受けたのは、土曜日の午後のことだった。準備を済ませて、自転車で家を出る。信号もほとんどなく快調に走り続けて、それでも牧のマンションに到着するまで二〇分ほどかかった。同じ町内なのに、私たちの家は東と南でほぼ両端に位置している。
エントランスのインターホンを押すと、外出用の格好で牧が出てきた。
「あれ、出かけるの?」
「一歌が泊まることをおばあちゃんに話したら、なんかつくれって、夕食用にお小遣いをもらった」
ちゃんと使いきるために、いまから出かけるのだという。
牧が明かした計画(対策)はシンプルで、ようは白猫に意識を支配されたときに自分を管理するものをそばに置いておくというものだった。
体の猫化が起こってから、次の内側を支配する意識の猫化がやってくるまでには、それほどスパンはない。牧が当初睨んでいた通り、おそらくこの土日にはやってくるだろう。だから今日は部屋に引きこもって、そのまま泊まりこみの予定だった。
「外出て大丈夫なの?」私が訊いた。
「まだヒゲが消えてすぐだし、平気だと思う。でもちゃっちゃと済ませよう」
歩きだそうとした牧が、私の乗ってきた自転車を見てすぐに足を止める。町内の買い物で速さを優先するならこれ以上の乗り物はない。カゴもついている。
「使ってく? 二人乗りで」
「だめ。法律違反になる」
「真面目だなぁ……」
それでも速さの誘惑にあらがえなかったのか、牧はそのままサドルにまたがりはじめた。丁寧に自分用に高さまで合わせだしている。やっぱり二人乗りをする気になったのだろうか。しかも漕ぐ側になってくれるというのか。
「じゃあ商店街までいくから、ついてきて」
「え、は?」
「一歌は走るの速いでしょ」
「並走しろと!?」
抗議の声を上げる。
「それ私の自転車なのにっ」
「うん、わかってる。大事に使う」
「そういう話をしてるんじゃない!」
やり取りをしているうちに隙を突かれ、走り出してしまう。納得がいかない。しぶしぶ、夕食代を出してもらうのだからと言い聞かせて、おいかけることにした。
容赦のない自転車の速度に合わせながら、走って一〇分ほどで、商店街のある大きな通りにでる。牧も自転車から降りて歩きはじめる。
「帰りは私が漕ぐからね」息を切らしながら言う。
「わかってる。もちろん」
とびきりの笑顔で返してくる。絶対嘘だった。
目的地のスーパーマーケットにたどりつき、自転車を停める。近くには地元民がよく使うドラッグストアやコインランドリーもあり、同じ商店街の通りでも、観光客が訪れるエリアと器用に分けられている。周囲のひとたちの服装も、電車や車を利用して訪れるようなきれいな外向きの雰囲気ではなく、あくまでも自宅から数百メートル圏内というような格好だ。観光地に住むというのは、今日みたいに人混みが多くて移動が不便なこともあるけど、私は遊びにきた遊園地にずっと帰らなくていいと言われた気分になるので、どちらかといえば楽しいという感情が勝つ。
「ほら、ボーっとしてないで行くよ」
「ごめん」
牧に促され、スーパーマーケットに入る。出入口でまっさきにカゴをつかんだので、私はカートを引っ張ってきた。牧が無言でカゴをおさめる。
「そもそも何をつくるの?」
「カレー」
「オーソドックスだね」
「この前、食べられなかったから」
数秒かけて、ああ、と思いだす。猫耳をつけて来訪してきたとき、帰りに食べていくかと誘ったことがあった。あのときの牧は、お祖母ちゃんが用意しているからと、断って帰っていった。
「奈爪家のカレーは美味しいし」
「へえ、ふうん」
「にやつくな、気味悪い。あんたを褒めてるわけじゃない」
「あんまり失礼なこと言うと、特製ルーの作り方教えないよ。あれは醤油とハチミツを使うけど、割合も決まってるし、どのメーカーのものを使うかも重要なんだから」
ふん、と鼻を鳴らして牧がカートを引いて移動する。野菜やカレーのルーが置かれたコーナーを無視して、そのまま調味料の棚に移動し、見つけた醤油とハチミツを手早くかごに入れていった。奈爪家が使うものと同じメーカーだった。唖然と口を開き私に、淡々と言い放ってくる。
「何回食べたと思ってるの」
確かに小学校から数えたら、何度も遊びにきてるし、一緒に食べてもいる。泊まりだって今日が初めてではない。家族ではない誰かが、自分の家で使う調味料を知っている。幼馴染みとは、そういう相手のことを言うのだろう。
「ふうん。覚えてたんだ」私が言った。
「だから、にやつくなってば」
「にやついてないし」
「わたしを不快にさせた罰として帰りもあんたが走りだから」
「そうはさせるか!」
やり取りをしながら、カゴにカレーの具材を集めていく。レジに向かう間に牧がいくつかお菓子やジュースを放りこんで、そのまま会計した。お金は出してもらっているので、袋詰めは私がやると引き受ける。自分が食べるお菓子とジュースは持つ、と牧はカゴから私物だけ引き上げ始めた。
「あれ、一歌。と祭原さん?」
声のした方を向くと、エコバックを抱えた
「奇遇だね」
手を上げて挨拶を返す。牧は隠れるように、そそくさと私の背中に移動する。トイレ、と後ろでつぶやいて、そのまま行ってしまった。
「二人で買い物来てたの?」
「うん、そんなとこ。ちょっと牧の家に泊まりに」
「幼馴染とは聞いてたけど、本当に仲良しなんだね」
「どうだろ。ついこの前まで絶交してた認識だったけど」
「それじゃ、仲直りしたってこと?」
「んー、なんか、確認してない」
「なにそれじれったい。初恋中の乙女か」
桜ちゃんに笑われる。嬉言われれば近いかもしれない。手だけは何度かつないでいるけど、付き合っているか確認してない、そんな関係の男女。そして桜ちゃんは笑うだけで、絶交している理由までは踏み込んでこない。その距離感に助かっている。
「でも、一歌がうらやましいな。
「秘訣って言われても……」
「みんな知りたがると思うけどね。祭原さんと仲良くながってるひと、男女問わずクラスにいっぱいいる印象」
「そうなの? この前教室で、あんなに暴れたのに?」
「確かに引いちゃった子もいたけど、熱が理由だったんでしょ? 逆にミステリアスさに拍車がかかって、人気上がってるんだよ」
本人に聞かせたらどんな顔をするだろう。
少なくとも、いまよりは学校に行きやすくなるのではないか。良いニュースとともに今日はカレーが食べられそうだ。
「秘訣はよく知らないけど、まあ、手綱を握ってるのは確かかもね」
ふふん、と気持ち良く鼻を鳴らす。
「よかったら紹介してあげようか?」
「あ、うん。それは嬉しいんだけど……」
「なに?」
「祭原さん、もう外にいる」
桜ちゃんが指さす窓の外を見ると、唖然とした。牧が自転車に乗って颯爽と去っていくところだった。
手綱を引きちぎられた無様な人間だけが取り残されて、思わず叫んだ。
「あんにゃろう!」
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