第2章 第4話
「ニャア」
彼女のなかに住んでいる子が、また目の前に現れていた。偽物でも物まねでもない、本物の猫の鳴き声が部屋に響く。
教室のときと同じだ。意識を支配されている。いまここにいるのは
「ええと、牧、じゃなくて白猫ちゃん?」
「アァウ」
甘えるように鳴いて、白猫のマキが頬をすりつけてくる。そのまま体を預けるように倒れこんでくるので、思わず抱きとめる。立ちあがって少し距離を置きたかったけど、結局ベッドにあぐらをかいて、壁に背を預ける姿勢に落ち着いた。
あぐらをかいた太ももに、マキが両手を乗せて交互に体重をかけてくる。ふみ、ふみ、と柔らかい効果音でも聞こえてきそうな動作。元は母猫のお腹をこんな風に押して母乳を出しやすくするための行動らしい。子供のころの記憶がいまも残っており、信頼を寄せる相手には見せるという。
どうやっているのか、人間の人体構造的には不可能なはずなのに、ごろごろ、と喉を鳴らすような音も聞こえた。ひねくれず解釈すれば、それもリラックスしているサインである。少なくとも敵意はないはず。
頬に頭をぶつけてくる。加減がなく、少し痛い。ぶつけてくる頭を手で受け止めて、そうっと撫でてやると、頭突きが止まった。撫でてほしかったらしい。
猫だ。完全に猫だ。しかもなぜか私に懐いてくれている猫。いまこの間だけは牧との間に人間的なしがらみはなく、そして絶好もしていない。躊躇なく可愛い、と思える程度には私もこの状況に麻痺してきている。
「でもこれ、牧も覚えてるんだよね」
見ている、という表現が正しいかもしれない。操縦桿を奪われた艦長はいまごろ、わなわなと震えながらこの状況を眺めているのだろう。
マキの頭を撫でるのをやめると、今度は腕を軽く引っかかれた。撫でるのを再開すると、また喉を鳴らし始める。そこにいるのは確かに猫なのに、触れているのは牧の体。彼女の言っていた表現とは別の意味だけど、なんだか、私までもぞもぞしてくる。
猫と戯れられるまたとない機会。かと言ってうかつなことはできないし、逆に無視し続けても体に生傷が増えていくだけだ。
撫でられることに満足したのか、マキが寄りかかる体を起こし、ベッドから四足歩行で降りていく。スカートがめくれてはだけるのも構わず、そのまま一直線に、本棚がある部屋の隅へ移動する。
近づいて乱れたスカートを直してやりながら、マキが眺める先を見ると、何に興味を奪われたのかがわかった。
「もしかして、これ?」
棚に指していたものを取り出すと、ニャアと鳴いて、わかりやすく反応を見せた。
ネコじゃらし。
私がつくったお手製のものだった。モップを整形してつくりなおした先端部分に、ジャージのひもをつけて、プラスチックの棒にくくりつけたもの。完成させたきり、まだ一度もどの猫にも遊んでもらえていない作品。
マキが右腕を伸ばし、飛びあがってくる。ものすごい跳躍力で、そのまま頭を天井にぶつけていた。運動能力まで変わるのか。まだ慣れない体らしく、マキは着地に失敗して派手に音を立てる。
マキはネコじゃらしに興味津津の様子だった。既製品ではなく、私のつくったオリジナルのおもちゃに。
「……遊ぶ?」
「ニィ!」
早くしろ、と急かされる。
「急かされているんだから仕方ないよね。逆らったら怒らせちゃうし。怒らせて暴走されて、怪我をするのは嫌だからね。うん、そうだ。これはもうほとんど脅迫されているのと同じなんだよ。私に選択権はないの。だからたくさん、もてなしてあげるしかない。聞いてるよね、牧? そういうことなので私は悪くないから」
理論武装完了。よし遊ぼう。
モップを床で動かしてやると、さっそくマキが飛びつく。中身は白猫でも、人の体なので動きが大きい。また別の方向にモップを動かすと、また飛びつく。マキが動きまわるモップを目で追い、顔を左右に動かす。腰をつきあげて、いつでも飛びかかれる格好。もうモップしか見えてない。
「うぐわぁ楽しい……っ!」
このネコじゃらし、やっぱりちゃんと猫に有効だったのだ。ついに日の目を見た。誰にも遊んでもらえず、喜んでもらえず、このまま大みそかの大掃除のときに勝手に捨てられる未来がくるのだとばかり思っていた。ああだめだ、嬉しすぎて泣きそう。
「それ、それ、それ、それ!」
「ニウウウ」
戯れの威嚇声を上げながら、マキが飛びつく。興奮しているのがわかる。私ももちろん、興が乗る。
「それえぇ!」
モップを振り回し、ひらひらと舞って、マキと一緒に踊る。新体操のリボンでも操っている気分だった。最高だ。ほかのおもちゃも試したい。絶対に試そう。というか新しくつくろう。きっと喜んでくれるはず。このままずっと家にいればいいのに。
「なにしてんの?」
踊りながら振り返ると、ドアの前で母が立っていた。
血の気が引いた。
血の気って本当に引くのだと知った。
母も母で、ドアを開けたことを後悔したような顔をしていた。実の娘に向ける目つきじゃなかった。
「お、お母さん。夜勤じゃなかったの?」
「いや日勤だけど」
「そう……」
「あれ、もしかして牧ちゃん? わあ久しぶり元気だった?」
マキは母のほうには目もくれず、私が床に落としたネコじゃらしに飛びついている。まずい早く母を追い出さないと。一言たりとも会話させてはならない。接触させればさせるほど違和感に気づき、そのことを母が牧のお母さんに報告しないとも限らない。
部屋に入ろうとした母をすぐさま押し返す。
「いまちょっと取り込み中だから! ダンス! そうダンス! ストレス発散にダンスしてたの。宮毛町を象徴する猫をモチーフにしたコンテンポラリーダンス!」
「ちょっとくらい挨拶させてよ」
「いま猫になりきるのに忙しいから! ほら見てあんなにクオリティ高い!」
やり取りを重ねながら、なんとか部屋の外まで押し返す。
「牧ちゃん、夕飯つくったら食べていくかな。揚げ物とかの予定だけど」
「食べると思うっ じゃあそういうことで!」
ドアを閉めて、念のために鍵もかける。ようやく力が抜けて、そのままドアにもたれかかり、座りこむ。
これでひと段落だ。少し強引だったけど、とりあえずピンチはしのいだ。
このあとはもう静かに過ごしていよう。ようやく冷静になれた。牧の人格が戻ってくるまで、なるべく興奮させないようにしないと。
「ん? あれ?」
やけに静かだと思い、そっと顔をあげた。
そこでまたもや血の気が引く。
マキの姿が、どこにもなかった。床にはネコじゃらしが寂しそうに放置されているだけだった。
「え、え、え、うそ。どこ? どこいった?」
風が頬に当たり、嫌な予感がした。おそるおそる視線を向けると、窓が開いていた。
窓に飛びついて顔を突き出す。見下ろしてすぐ、そこに叫びだしそうな光景が広がっていた。
民家の塀を、マキが器用に歩いていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます