第2章 第2話

 はしゃいだ話し声とともに、トイレに入ってくる女子生徒たちの気配があった。


 二人で顔を見合わせる。まずい。尻尾を隠す余裕はない。バレたらどんな顔をされるか、あるいは何と言われるか。このままでは教室の二の舞で、まきがますます不登校になる。


 気づけば牧の腕をつかみ、個室に飛び込んでいた。


二人でおさまり、ドアの鍵をかけるのと同時に、女子生徒たちがなかにはいってきたのがわかった。気配から察すると三人らしい。洗面台の前で化粧を整えるために来たらしく、そのままドアをはさんだすぐ向こうで談笑を始めた。


 牧と顔を見合わせる。距離が近く、お互いに顔をそらす。少しでも体を動かせばお互いのどこかに当たりそうで、身じろぎは厳禁だった。このままやり過ごすしかない。決して微動だにしてはいけないし音も出してはいけない。あ、くしゃみでそう。


「(あほか!)」


 小声で怒鳴るという器用なことをしながら、牧が即座に私の鼻をつまんでくる。驚いて肘を壁にぶつけて、結局、ごつんと、音が響いた。外にいる女子生徒が一瞬だけ会話を辞めたが、すぐにまだ談笑が始まる。


 よく考えれば鍵のかかった個室に人がいるのは自然なことだし、完全に音を出してはいけないわけでもない。牧も同じタイミングで気付いたのか、私の鼻こうを開放してくれた。とたんに流れ込んできた埃か空気か分からないものに刺激されて、耐えられずくしゃみを放った。


「はっけよい!」


 相撲の行司みたいな声が出て、我ながらびっくりした。たぶん土俵で実際にいまの声を流しても、力士たちは試合を始めてくれる気がした。


 くしゃみに気づいて、女子生徒たちがまた会話を止める。そしてまた再開される。早く出ていってほしい。授業が始まる直前までそこにいるつもりだろうか。


 そしてツボに入ったのか、牧が口に手を当ててうずくまりはじめていた。肩を小さく震わせて、必死にこらえている。悪いことしたなぁ、と逆に私自身はいたって冷静だった。


 女子生徒たちの談笑が終わる気配はない。することもないので牧をあらためて観察する。昔から変わらないパーマのかかった短い黒髪。灰色のパーカーのフードには、猫のシルエットがかだどられた髪留めが留められている。中学時代も、いつもそこにつけていた。身長は私のほうが少し高い。頭頂部がぎりぎり見えるか見えないか。こうしてまっすぐ立つと、少し見下ろす格好になる。


 一年半だと、あまり容姿は変わらないのかもしれない。

ただ一点、スカートのなかから伸びるその部分だけにのぞいては。


 いまも尻尾は動き続けている。たまに止まったかと思えば、何かを探るみたいにまた揺れ始める。牧は笑いをこらえるのに忙しくて、私の視線に気づいていない。好奇心がやはり膨らんできて、それがどうにも抑えられそうにないことにも、気づいていない。


 一秒だけなら。

 一瞬だけなら。

 いまならバレないかなと思い、そっと手を伸ばした。


「んひっ!」


 尻尾の先をつまむと、牧が甲高い声をあげた。驚いてさっと見下ろし、私の手にようやく気付く。口元に手を当てたまま、睨んでくる。この前生えてきた耳同様、やはり感覚はあるらしい。そしてすごい。触ってもやはり、本物の猫の尻尾だ。


「(こらおい!)」

「(そのまま口、押えてて)」

「(何言って……っ!)」


 動く尻尾を追って、やさしく掴み、撫でる。無意識の動きなのか、ぴん、と牧がつま先を上げ始めた。いったいどんな感覚が襲っているのだろう。もっと触ったらどうなるのだろう。この前みたいにあっさり取れるのだろうか。いや、結局あれは取れたわけじゃなくて牧の体に戻ったということなのか。


 ああ知りたい。もっと知りたい。

 ここにいるのは確かに牧だけど、同時に彼女は猫でもあった。こんなに自由に猫に触れる時間があっていいのだろうか。


「(ちょっと、あんた本当いいかげんに……)

「(ごめんもう我慢できない)」

「……っ! ……っ」


 尻尾に触れる手をつかんで、牧が止めようとしてくる。腕力では負けない自信があったので、無視して強引に続ける。触るたびに向こうの握力が抜けていくのが分かった。


「ん、く……」


 牧の体に熱が帯びる。彼女の手が制服のすそをつかんできて、その震えが伝播する。身をよじって交わそうとするが、狭いトイレの個室に逃げ場はない。


 トイレの蓋に座りこませて、そのまま押さえつける。牧の熱を浴びているせいか、しだいに本来の目的とはまったく別の、妙な嗜虐心が芽生えていた。止まらない。自覚しているのに手が止まろうとしない。尻尾を触るとまた牧が反応する。そして――


「ひ、いうっ!」


 悲鳴に似た牧の声が、響き渡る。焦った私が壁やドアに体をぶつけてしまい、さらに鈍い音が続く。


 とうとう、女子生徒たちが完全に会話を止める。ドア越しでも視線を浴びているのがわかった。女子三人の声が聞こえてくる。


「ねえ、これもしかしてさ」

「え、うそ、朝から?」

「すご。元気。めっちゃ思春期」


 くすくすと笑い、間違った察し方をしながら、女子生徒たちは去っていった。足音が完全に遠のいて気配がしなくなるまで、私たちは個室のなかに閉じこもっていた。


 ドアを開けて最初に出たのは牧だった。外に出る頃には私もすっかり我に返っていた。できればこのままドアを閉じて距離を置きたかった。


 牧は背を向けたまま何も言ってこない。うつむいているので、鏡越しでも表情が分からない。おそるおそる、声をかける。


「あの、祭原さいはらさん?」

 喋らない。

「いやなんていうか、その、ごめん、また抑えられなくて……」

 喋らない。

「自分でもおかしいなぁとは途中思ったんだけど」

 喋ってくれない。

「すみません何か言ってくださいお願いします!」


 全力で頭を下げる。足りなければ土下座の準備もできていた。見ると、スカートのなかから伸びる尻尾が、かすかに揺れている。


 振り返る気配があって、そっと顔を上げると、牧と目が合った。

 絶交中でも見られなかったような冷淡な顔を浮かべながら、そして一切の冗談の雰囲気を感じさせない本気の口調で彼女が言った。


「とりあえず買いにいこうか、針」


  ***


 結局、牧は下を体操着のジャージに着替えて、そのなかに尻尾を隠すことで一旦問題を解決させた。教室に保管してある体操着は私が持ってこさせていただいた。授業も受けられる気がしないということで、そのまま早退することになった。精悦ながら私も同行させていただいた。


 帰り道にコンビニに寄って昼食のお弁当をご提供させていただいた。スナック菓子とジュースも差し上げた。針が用意できたら連絡するというお言葉をいただいて、その日は解散となった。泣きたいけど我慢した。


 夜、彼女からご連絡をいただいた。メッセージを開くと、このような文言だった。


『尻尾がさっき消えた。気分が良いので、針は保留にしてやる』


 余計な顔文字やスタンプを送らず、シンプルに「ありがとうございます」と返信して、牧とのチャット画面を閉じる。それからスマートフォンを置いて部屋で吠えた。


 よっしゃ助かったぁ!

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