第2章 第1話
登校前の朝八時半。いつもなら早めに家を出て、
「さーいはーらさーん、あーそーぼー」
「それでわたしが出ていったら逆に引くだろ。あんた引くだろ」
「出てきてくれるなら正直もうなんでもいいよ……」
エントランスでインターホンを押して、登校を説得するも、切られる。もう三往復はこのやり取りをしている。一往復ごとに一匹の猫と戯れる時間があったかと思うと、やるせない。いまのこの状況は、物影から怯える猫をなんとか日向に出そうと奮闘しているのに似ている、と自分のモチベーションを上げるために想定してみるけど、少し難しい。
「今日も登校しないから。あんたはもう行って」
「なんかあったら怖いから一緒に登校してって言ったの、そっちじゃん」
「だからやっぱりやめたって言ってるの」
例の教室での騒動のあと、
翌日、牧は学校を休んだ。何度か連絡を入れていて、返事があったのは夕方だった。明日の登校に付き添ってほしいという内容。そしてこのストライキである。
「ちゃんとフォローはしといたよ。牧は発熱してうつろになって暴走したって、先生にもクラスメイトにも言ってるから。だから早く行こうよ」
「昨日あの国語の先生から電話があった。『何か悩みがあったら聞くぞ』、って。もう少しで全部ぶつまけてやろうかと思った。助けた白猫に恩を返されるどころか取りつかれて呪われましたー、って」
「言ってないよね」
「言うわけないでしょ」
教室での牧の豹変。突然生えた猫耳に、そして消えた白猫。どうやってか、牧のなかに入り込んでそれが表に出てきたのだとしたら、合点がいく。荒唐無稽だと断じるにはすでに、目の前で色々と起こり過ぎている。猫のように眠ってすぐに忘れられたらよかったけど、人間はそれほど器用にできていない。
「こんなこと誰にも言えない。これからだって隠し通さないといけない。治し方だってまったくわからないし、そんなものないかもしれないし、ああもう無理、絶対無理。ひとりでこんなのどうにもできない」
「私がいるじゃん」
気づけば即答していた。
そう答える資格があるのかどうか、考えもせずに。自分でもどうしてそうやって答えたのか分からなかった。彼女を早く説得したくて思わず出た、ということにしよう。
沈黙があって、やがてインターホンが切れた。少し待ってもやってくる様子がなかったので、四度目を押そうとしたとき、エントランスの突き当たりにあるエレベーターが下降を始めた。制服とパーカーを合わせたいつもの格好の牧がでてきて、エントランスのドアを抜けながら、私の存在などないみたいに横を通り抜けていく。華麗なスルーを食らっても、その程度は宮毛町の猫たちに毎日鍛えられているので気にしない。
「制服、着てたんじゃん。やっぱり登校する気だったんだ」
「いま着替えたの」
「ものの一分で?」
「ものの一分で」
ふうん、ものの一分で。なるほど、ものの一分で。そうかそうか、ものの一分で。何度もつぶやいてると殴られた。
逃げながら、いやあものの一分で、すごいなあものの一分で、立派だよものの一分で、としつこく続けると、見事に怒って追いかけてきた。そのまま二人で走って学校を目指す。これなら間に合いそうだ。
そんな私たちの横を、何かに急ぐ茶色の野良猫が、悠々と追い越していった。
***
牧が教室に入ると同時に、ほんの一瞬だけ、クラスメイトたちがそれぞれの話題を止めてこちらに意識を向けたのがわかった。すぐに元の喧噪に戻るけど、そうするとより一層、間に挟まった沈黙が溝のように強調されてしまう。私でさえ感じ取れたのだから、本人はより鋭くそれを受け取っているはずだ。
牧は私から離れて、そのまま自分の席にまっすぐ向かっていく。話しかけるクラスメイトは誰もいない。あの騒動があろうがなかろうが変わらない光景ではあるけれど、やはりそこに含まれた意味や印象は大きく異なる。
クールで人を寄せ付けず、考えていることがほかの人より一段階上にいるような、クラスに一人はいる大人びた女子高生。であればよかったけど、いまの牧は机に躊躇なく飛び乗り、にゃあ、と猫の声を出し、私の頬を甘えた顔で舐める、クラスに類例がない希少な女子高生にアップグレードされている。
昨日、牧が休んでいたとき、一度も話しかけてこないクラスメイトたちに質問された。牧との関係をそっと尋ねる質問や、なかにはお酒でも飲んでいたのかとか、もっとやばいものをやっていたのかとか、そういう直球な質問を投げてくる生徒もいた。事を大きくして不安にさせたくないから本人には言ってないけど、騒ぎを聞きつけた担任の先生にも呼び出されて、いくつか訊かれた。
態度を唯一変えないでいてくれたのは、
「おはよう桜ちゃん」
「おはよう。今日は
「うん。一緒にきた」
「
「個人情報漏れるの早いなぁ。きっとすごい突風だったんだろうな」
呑気な受け応えをしすぎたのか、心配そうに桜ちゃんが溜息をつく。
「こういう言い方は祭原さんに失礼になるかもしれないけど、一歌までクラスメイトの好奇心のとばっちりを受けてる気がする」
「大丈夫だよ。またすぐ別の話題に変わる。みんな退屈で、何かに盛り上がりたいだけだから。って、ワイドショー観ながらお母さんが言ってた」
「まあ真理かもね」
そのあと、部室に忘れ物をしたと言って桜ちゃんは教室を出ていった。牧のほうに視線を戻すと、さっきとまったく同じ姿勢でスマートフォンをいじっていた。飄々と、淡々と、顔色一つ変えず。エントランス前でさんざんごねて、取り乱していた人と同じとは、とても思えない。
動揺しているかと思ったら、冷静で。凛としていたか思ったら、怯えていて。登校しないかと思ったら、あっさり出てきて。さっきまで話していたかと思ったら、無視されて。絶縁中だと思ったら、家にあらわれて。あべこべで、ひねくれもので、気分次第で。本人の前では絶対に言わないけど、そういう昔から持っている彼女の猫的な気質が、あの白猫を引き寄せた一因であるような気もする。
どうしてこんなことが起こったのか。なぜいまも起こっているのか。どうして牧だったのか。これを解決し、元通りにする方法はあるのか。ぜんぶまだ、定かではないけど、それでも生活は続けなくちゃいけない。終わりが明確ではないなら、余計に。
登校するし、授業も受けるし、たまに先生に怒られたり、やりたくない委員会の仕事をしたり、帰って疲れて寝て、見なくてもいい配信動画を見て、ご飯を食べてお風呂入って寝て、起きてすぐに嫌なことがあったり嬉しいことがあったり、そういう生活をなるべく保つのが、いまできる唯一の対処法だと思う。
そのための手伝いなら、私は牧にしてあげられ――
「ておおい!」
気づけば席からいなくなっていて、前のドアから教室を出ていくところだった。カバンをかついで、見た瞬間に帰るつもりだとわかった。
急いで牧を追いかける。牧、と呼んで肩に手をかけようとしたが、素早く交わされた。私の手に菌でもついているような、それはそれは見事な交わし方だった。
「ちょっと、どこいくの」
「トイレ。ついてこないで」
「なんでカバン持ってトイレ行くの」
「化粧直すから」
「そもそもトイレ逆方向だし」
ぴた、と止まり、それからムキになったのか、本当にトイレがある方向に歩き始める。このまま放っておいたら帰る。絶対に昇降口を目指してしまう。教室では飄々とした顔をしてたが、早くも限界だったようだ。
「気持ちは分かるけど、もうちょっと頑張ってみようよ」
「分かるわけない」
牧は足を止めず、続ける。
「あんたに気持ちが分かるわけない。自分の体に自分以外の何かがいて、それがいつ出てくるか分からない不安が、分かるわけない。わたしの気持ちが分かるのはブルース・バナーとかだけ」
「急にマーベル……」
幼馴染が超人ハルクになってしまうのは勘弁だけど、幸いまだ、彼女の肌は緑色にはなっていない。
「怖かったり、恥ずかしかったり、不安だったり、気持ちの全部は分からないかもしれないけど、理解はしてあげられると思う」
「じゃあ教えるけどわたしが一番恥ずかしかったのは、あんたに生えた耳をしこたま撫でられまくってたときだよ!」
立ち止まり、びしっと指で胸元を突き刺される。
「わ、わかった! ごめんもうしない。約束する、二度としない。あのときはつい我を忘れたって言うか、猫のことになるとちょっと自分のコントロールが難しくなるんだよ。ああいまわかった! 私も分かったよブルース・バナーの気持ちが」
じとっと、牧が睨んでくる。
「二度とわたしの体にいやらしく触らないと誓え」
「わかった。もう触らない。好奇心をちゃんと抑える」
「約束破ったら、針千本だから」
「うん。了解」
なんだかふわっとした罰だったので、場合によっては逃げられるような気がした。
「長さは五二ミリで横幅が一・六ミリ、通し穴の幅は五ミリの手縫い針だから」
だめそうだった。
ディティールが細かすぎて一気に現実味を帯びてきた。
話もちょうど良い距離幅で脱線してきたところで、そろそろ教室に戻す説得をしなければと思った。いい文句がないかと考えをめぐらせるために、何気なくあたりを見回す。そうやって牧の体に再度視線を戻したそのとき、まとまりかけた思考が霧散した。
「一歌……?」
急に硬直した私をいぶかしむように牧が声をかけてくる。
本人はまだ気づいていない。どうする。どうやって伝える。
「牧、落ちついて聞いてほしい」
「なに?」
「気づいても叫ばないって約束してほしい。約束破ったら、針千本だよ」
「だからなんのこと。早く言って」
私が問題の個所を指さす。
牧が自分の下半身に視線を落とす。
そして両足の間、スカートのなかから、するりと伸びる一本の白い尻尾の存在に、彼女がようやく気付く。
「うぎゃ――」
叫ぶ前に口元を押さえ、そのまま近くにあるトイレに連れ込んだ。幸い誰もいなかった。つきあたりの壁まで移動し、二人して問題の尻尾を見下ろす。牧はぱくぱくと口を開けて、一言も発せずにいる。床につかないすれすれの空間で、尻尾の先が揺れている。動くたびにスカートの布がこすれる音がかすかに鳴っていた。
牧が洗面台の前に移動する。腰をつきだし、スカートにしまっていたワイシャツをかきあげて、鏡で確認しはじめる。白い毛並みと、淡い桃色の毛先。やはりあの白猫のものだろう。さらされた腰元の肌をのぞくと、尾てい骨のあたりから問題の尻尾が生えているのがわかった。
前触れもなく再び起こった猫化に呆然としながら、牧がつぶやく。
「なんで、なんで、いつの間に……」
「気付かなかったの?」
「まったく」
「ちなみにそれって自分の意思で動かしてたり?」
「なわけないじゃん! ていうかそんな呑気な質問をいま――」
そのときだった。
はしゃいだ話し声とともに、トイレに入ってくる女子生徒たちの気配があった。
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