第1章 第7話


 頭部への衝撃なしに目覚める心地よい朝だった。リビングに降りると母が帰宅した痕跡があり、ふすまごしの隣の部屋で寝てるのを起こさないよう、そっと朝食を済ませる。家を出る直前、スマートフォンをいじっていた父が盛大なくしゃみをして母を起こし、怒られていた。「おかしいなぁ、アレルギーか? でもそんなわけないし」と、父は突然の鼻炎とくしゃみに戸惑っていた。昨日まで猫耳をつけていた幼馴染がここにいたことは、もちろん話していない。


 通学中、四匹の猫とすれ違った。民家の塀伝いに歩く茶色のトラ猫に、道路を素早く横断する、すらりと細い三毛猫。ゴミ捨て場でカラスと喧嘩をしている黒猫と、誰かの飼い猫で赤い首輪をつけた散歩中のシャム猫。


 何度か寄り道して探してみたが、あの白猫はどこにもいなかった。


  ***


 教室の前でまきと出くわした。ちょうど向こうが先に教室に入ろうとしているところだった。おはようと声をかけようか、手を挙げようか迷って、結局どちらもしないでいると、向こうも顔をそらして何も言わずに入っていった。


 続いて教室に入ると、牧はさっさと席について微動だにしなくなる。男子と女子が一人ずつ、何か話題を持って彼女に話しかけていたが、いずれも間が持たず苦笑いで相手を帰していた。あまりにも昨日の同じ。部屋で起こっていたことすべてがわたしの妄想で、起嘘だったのではないかと心配になった。クラウドにアクセスすると、保存していた写真はちゃんとそこにあった。ベッドに腰掛け、顔を赤らめてうつむく牧。その頭に生えている猫耳。


 牧はやっぱり話しかけてこない。振り向いて目を合わせてこようとすらしない。

 帰り際に言っていたあの言葉。きれいさっぱり忘れる。宣言していた通り、本当にそうするつもりなのかもしれない。


「おはよう一歌いちか


 声をかけられて我に返る。

 顔を上げると、さくらちゃんが立っていた。おはよう、とあわてて思ったよりも大きな声で返してしまう。


「委員会の仕事、サボらずちゃんとやった?」

「うん。学校の敷地内に入り込んだ猫を探す仕事だった。意外と退屈しなかったよ」


 嘘は言っていない。けどこれ以上深堀りされるとごまかしはじめて、最後にはボロが出るような気がしたので、話題をそらす。


「そっちは部活どうだった?」

「別にいつも通り。今日は新入生の体験入部がある」

「桜ちゃんは先輩が似合いそう」


 笑顔で首をしめられかけた。なんで。褒めたのに。けれどおかげで委員会の仕事のことは、桜ちゃんの意識からは遠ざかってくれたようだ。


 チャイムが鳴り、二年生になって最初の授業が始まる。一時間目は国語だった。新しく配布された教科書はまだ一秒も開いていない。そのせいで始まったばかりの頃はページをめくるのに少し苦労する。なんとかきれいに使ってみようと思うけど、結局あきらめて折り曲げる。


「二年生最初の授業は小説『きりぎりす』の音読から」


 檀上に立つ国語教師が教科書を広げながら言う。


「ただ音読しても退屈だろうからちょっとしたゲームだ。読むやつは少しでも噛んだら、自分の恥ずかしかったエピソードを一つ披露する」


 何それ! と、抗議の声を上げながら、ノリの良い女子生徒が食いつく。まわりもざわつき始める。ちらりと牧を見ると、ボーっと黒板を眺めて、薄く口を開けていた。同じ方を向くが、黒板にはまだ何も書かれていない。わたしには見えない何かを凝視しているみたいだった。


「『きりぎりす』の作者である太宰治は作品内で人の恥について語ることが多い。それにちなんだちょっとしたペナルティだ。ほらこれで眠くなくなっただろ。始めるぞ。まずは窓際から」


 牧のさらに奥、窓際の席にいる桜ちゃんと目が合う。首を切るようなジェスチャーをこっそり見せて、「勘弁して」と訴えてきていた。笑って返す。


 窓際、一番前の席にいる男子生徒から始める。くすくすとした笑い声のなか、音読が始まる。


「『おわかれ致します。あなたは、嘘ばかりついていました。』」


 噛まずに二人目。


「『私にも、いけない所が、あるのかもしれません。』」


 三人目。


「『けれど、私は、私のどこが、いけないのか、わからないの。』」


 そして四人目が立ち上がった、そのときだった。

 同じタイミングで、もう一人が立ち上がる。

 見ると牧だった。


 お手洗いか何かに行くためにそうしたのかもしれないと、最初は思った。だけど一瞬後にはそんな予想がくつがえった。


 彼女はそのまま、椅子の上に立ち始めた。


「なんだ?」


 異変を察知した国語教師がようやく視線を向ける。続くように数人が彼女を見る。音読しようとしていた女子生徒も固まる。教室でただ一人、椅子の上に立つ存在に全員の視線が集まるより早く、牧はぴょんとその場で飛び上がった。うお、と隣にいた男子生徒のうめき声が響く。


 牧は机の上に移動する。その場で両手と両足をついて、座り始める。スカートがはだけて、角度によっては下着が見えるような格好になる。意外にも男子たちが目を伏せて、女子たちはそのまま凝視していた。


 国語教師がまた何か言う。牧は無視して背中を向けたまま、舌を出し、自分の手首をなめはじめる。教室に訪れた、無音のなかの異常。誰もしゃべることさえできない。笑ってごまかすことや、まわりの生徒と目を合わせて確認し合うことすらできない。牧のその姿を、ただ凝視し続けている。それはあまりにもひとと離れているから。


 いまの彼女は、まるで――。


「……猫」


 つぶやくと、牧が反応した。少なくともそんな風に見えた。手首を舐めるのをやめてこちらに顔を向けると、牧はそのまま机伝いに移動し始める。四足歩行で近づいてくる。


「お、おい。おい。何してる。それは一体なんだ? ええと、祭原さいはら!」


 国語教師はあたふたと手元の出席表を確認して名前を呼ぶが、牧は止まらない。沈黙が霧散して、教室が段々どよめき始める。クラスメイトたちの心のなかの声が簡単に拾えた。何が起きている。次は何が起こる? あれはいったい誰だっけ? ああそうだ、祭原牧っていうひとだ。もう忘れない。


 牧が私の机に飛び乗る。そこで止まり、はだけたスカートの中をこちらに見せながら、まっすぐ見下ろしてくる。いくら幼馴染とはいえ、この距離で股間と対面するのは初めてだった。そんな感想抱いている場合じゃない。なんだ、これは。


いや知っている。わたしはこれの正体に気づいている。


「ま、牧?」


 呼びかけると、牧が顔を近づけてきた。

 訳も分からず動けないでいると、そのまま、頬を舐められた。近くにいた女子生徒が興奮したような悲鳴を上げる。牧は教室のどよめきも、教師の注意も、悲鳴も、一切無視して、私の顔に頬をすりつけ続けている。牧の乗っている机がいまにも倒れそうに、がた、がた、と揺れ続けている。


 牧は口を開き、とうとう言葉を発した。


「ニャア」


 それはまぎれもなく猫の声だった。

 聞こえてきたのは確かに牧の声なのに、そこにいたのは確実に猫だった。人が真似してできる解像度の、猫の声ではなかった。


 予感が確信に変わる。勢いでそのまま立ち上がり、牧の手を引いた。牧は机から降りて、ぎこちなさそうな足取りのまま、二足歩行でついてくる。教室を出る瞬間、桜ちゃんと目が合った。クラスメイトが初めて見せる表情だった。


 廊下に出るとそのまま駆けだした。手をつないだ牧はちゃんとついてくる。たまに足がもつれて転びそうになったが、ぴょん、と高く飛んで体勢を立て直していた。


 階段を上がれるところまで上がり続けた。やがて屋上の前に踊り場についた。本当は外に出られたらよかったが、何年か前に煙草の吸殻が見つかって、それ以来使用禁止になり、いまは厳重に南京錠がかけられている。


 息を切らしながら踊り場の前で座り込むと、牧も横で座る。スカートをはだけさせて足を開くその座り方も、よく見れば猫そのものだ。牧の横顔を眺める。外見に変化はない。頭のうえにも猫耳は生えていない。


 だけどいる。

 彼女のなかに、確かにいる。

 人ではない存在。

 猫。


「ニィイ」


 さっきと声色を変えて、牧(のなかにいる何か)がまた顔をすりつけてくる。早く撫でろ、と言わんばかりだ。目が合うと、ゆっくりとまばたきをしてきた。信頼とリラックスのしぐさ。


 彼女の伸ばした手が、私の太ももに乗る。立てた指が肉にぐいと食い込み、鋭い重さを感じる。


「牧……やめ……」

「ニャ、あ」


 牧のと息が耳をくすぐった、その直後だった。

 鳴いている途中で声のトーンが落ちて、そのまましゃべらなくなる。

 顔を離して彼女を見つめると、茫然とした顔でこちらを向いていた。わたしが知っている幼馴染の顔だった。


「牧?」

「一歌、わたし……」


 戻った。

 戻ると同時に、牧が叫んだ。「ぬううわああああああああ!」と、ほとんど雄叫びに近くて、思わず耳をふさいだ。頬を染めたまま涙目になり、何かを口走っていたが、ひとつも言っていることが分からなかった。


「なんでわたしあんなこと違うわたし絶対しない違う違う違うわたしじゃないああもうだめだ皆わたしを見てたもうおしまいだ戻れない高校生活が破たんした」


 その様子から察すると、数秒まで自分がしていたことを、すべて覚えているようだった。厳密には牧がしていたことではなく、牧のなかにいたモノがしていたこと。彼女は体を奪われたまま、記憶だけを共有している。


「どうしよう一歌……。まだ終わってない。消えてない……」


 染めた頬はすっかり戻り、今度は血の気が引いたように白くなっている。ここまで我を失う彼女を、初めて見た。だけど無理もない。同じ立場なら、私はもっと叫んでいるかもしれない。


 私と、そして牧だけが知る真実。あの白猫を助けたときから、すべてが始まった。

 震える声で牧が告げてくる。


「わたしのなかに、あの猫がいる」



 そして。

 この出来事すら序章に過ぎないことを、私たちはすぐに知ることになる。

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