第1章 第6話
「その耳触ってもいい?」
しばしの沈黙があって、
「……嫌だ」
「なんで」
「なんか顔が嫌だ……」
牧が身を守るように、体をよじる。
また一歩近づく。
「触らせてよ。ちょっとでいいから」
「く、来るな。誰が触らせるか」
「一瞬だけ」
「来ないでってば!」
「さきっちょだけ」
「怖い怖い怖い怖い怖い怖い!」
パーカーのフードをかぶってしまう。剥がそうと右手を伸ばすと、つかまれた。即座に左手を伸ばすが、それも防がれる。組み合ってそのまま力比べになる。
「いいじゃんか減るもんじゃないし」
「なんか人として大事な部分がすり減る気がするんだよ。あんたにだけは嫌」
「この部屋に入った瞬間からこうなるってわかってたでしょ? 私の性格知ってるよね。怯えたり不気味には思ったりしないけど、興味津津にはならないなんて約束は一切しなかったよね? 私の前にそんなものをちらつかせてタダで済むと思ってる? 本当は触られるの期待してたんじゃない?」
「まずド変態なその口調をやめろ!」
牧が体勢を崩しかける。チャンスとばかりに力を込める。あと数秒あれば強引に振りほどいて触れそうだという瞬間、わかった、と許しの声が響いた。
「わかったから、とりあえず離れて」
牧が椅子から立ち、なぜかベッドに移動する。腰かけて、準備をするように首を数回回した。そしてパーカーのフードを取る。白い猫耳が、変わらずそこに生えている。
「三秒だけなら、許す」
「え、三分もいいの?」
「三時間殴り続けるぞ」
そこからさらに交渉の時間をはさみ、なんとか一〇秒の貴重なお触りタイムを確保することに成功した。一〇秒! 人生で一番重要な一〇秒をまもなく迎える。
「勘違いしないで。これは純粋に猫耳を触りたいっていう私欲だけじゃなくて、あくまでも牧のための調査が本当の目的だから。牧のなかの何かがすり減るとしても、得られるもののほうが何倍も多いはずだから」
「私欲とそのよだれを隠してから言え」
「案外いじってたらぽろっと取れるかもしれないし」
「乳歯か」
まずはどの角度から触ろうかと、改めて見回す。やっぱり嫌だと断れる前に行動に移さないといけない。
「ほら触るならさっさと、あひ……」
言葉の途中で手を伸ばし、右耳に触れた。びくんと牧の体が一瞬だけ飛びあがる。反応を見る限り感覚はつながっている。髪の毛をかきわけて見ると、根元から生えているのがわかる。
「やっぱ触り過ぎ……」
「まだ一〇秒経ってない」
「いや、でもだって」
「動かないで」
「……んぅ」
うめき声を漏らし、それきり喋らなくなる。どのような感覚が襲っているのかは分からないが、我慢してもらう。すごい。ちゃんと猫耳だ。本物だ。そこにあるの人間の頭部なのに、触られたときの反応も猫そのものだ。指で耳の端をなでると、虫をはらいのけるように、さっと素早く動く。
「もう経った! 一〇秒経った!」
「うんわかった。じゃあ次は左耳ね」
「方耳ずつだと!?」
「そうだよ。そうに決まってるでしょ。むしろなんでそうじゃないと思ったの?」
そうではないけど言い切る。厳密に規則を定めていなかった牧が悪い。
抵抗される前にさっさと左耳に指を移動させる。ぐっと耐えるようにうつむき、牧は太ももの上で拳を握っていた。首を曲げて一度振りほどかれたが、かまわず触りつづけた。たぶん一〇秒以上経っていたが、宣告する余裕がないのか、牧は何も言ってこない。もっと、と身を乗り出すと、さすがに手で跳ねのけられた。
「もう終わりっ」
「ちゃんと生えていることがわかったよ」
「うるさいもう触らせない! ちょっと寝る! あんたは出てけ!」
「いやここ私の部屋だし私のベッド……」
「いいから出てけ!」
牧の顔が真っ赤になっていた。耳まで染まっている。そして全然目を合わせてこない。そんなに痛かったのだろうか。それともくすぐったかったのか、あるいは――。詳しく聞いてみたかったけど、それをした瞬間に殴られそうな気がしたので、大人しく部屋を出ることにした。
廊下に出ると同時に、やっぱり訊いてみたくなったので振り返った。
「ねえ今触ったのって痛かった? それとも気持ち良くていまそんな顔を――」
勢いよくドアを閉められた。
***
ソファで寝てると、額をボコッと何かで殴られて、勢いよく目が覚める。見上げると牧が立っていて、鈍器の正体は空になったオレンジジュースのパックだった。だからどうして皆、もれなく頭を殴る。
抗議しようと口を開きかけて、そこに彼女の大声がかき消してきた。
「乳歯だった!」
「は?」
「取れた。取れたの。ちょっと昼寝して起きたら、なくなってた」
「……な」
確かにない。
牧の頭から、きれいに猫耳が消えていた。そんなぁ! と叫びそうになったが、不謹慎だと思いこらえた。安心する笑みを浮かべる牧の前で、一緒に喜ぶフリをする。
時間は夜の七時になろうとしていた。部屋に戻り、一緒にベッドを探したが、落ちた猫耳はどこにもなかった。
「取れたんじゃなくて消えたのかな」牧がつぶやく。
「それか頭蓋骨のなかに埋もれていったのかも」
「怖いこと言うな」
睨みつつ、ちゃっかり確認するみたいに、軽く頭を叩き始めたのが面白かった。
突然襲ってきた都市伝説は、何もしないうちにあっさりと解決してしまったようだ。
「ああよかった。本当よかった。明日からどうしようかと思ってた……」
「ずっとキャップかぶったり、パーカーのフードしてるのも目立つしね」
「小学校の頃も先生と喧嘩してるからなぁ」
思い出し、同じタイミングで笑った。また昼間の見周りのときみたいに、お互いにやめて気まずくなるかと思ったが、問題が解決した安堵感からか、牧はそのまま笑い続けた。私もそうした。
「それにしても、ほんとに何だったんだろうね。助けたネコの耳が頭から生えてくるとか、聞いたことない呪い」
「知らない。でももう忘れる。町であの白ネコ見つけてももう近付かない」
「忘れちゃうの? こんな貴重な経験を。誰にも話さずに」
「話すわけないじゃん。信じるやつ誰もいないって。もうぜんぶ忘れる。きれいさっぱり忘れる」
「じゃあこの写真も消すの?」
「いつの間に撮ったお前ぇ!」
こっそり撮った猫耳バージョンの牧が保存されたスマートフォンを、奪おうとしてくる。もちろん抵抗する。なぜか脛だけを重点的に蹴られ、仕方なく本人の前で写真を消すところを見せた。クラウドに保存してあることは死んでも言わないようにしようと決めた。
「じゃあわたし、そろそろ帰るから」
牧がキャップをかぶって部屋を出ようとする。
「あ、待って」
「なに?」
「お母さんが夕飯用につくったカレーあるんだけど、食べてく? いつも量が多くて」
数秒、彼女が考えるそぶりを見せる。
牧の両親は転勤で県外にいる。この町に残ったのは彼女だけで、いまはマンションで一人暮らし中だ。下の階に祖父母が住んでいて、それで両親も一人暮らしを許したと聞いている。私の母が、牧のお母さんとまだ連絡を取っていたころに聞いた話だ。
牧は首を横に振った。
「いい。お祖母ちゃんが食事用意してるはずだから」
「ん、そっか」
「じゃあ帰る」
一緒に下に降りて玄関まで見送る。
思わぬ委員会の仕事から、そして都市伝説の襲撃も相まって、この一年半で最も多く牧と喋った一日だった。こんな日はもうこないかもしれない。日常の復旧工事は終わり、またいつものレールに戻って走り出していく。明日からはまた、素知らぬ顔で元の距離感に戻るのだろうか。それとも何か、変わっていることはあるのか。
「また明日」
玄関が開いて外に出るとき、牧の背中にそう投げた。
少し待っても、同じ言葉は帰ってこない。
だけど止まった彼女が振り返る。
深くかぶったキャップで顔は見えないが、口元だけは動くのがはっきりわかった。
「ありがとう、
玄関ドアがしまり、足音が遠ざかっていくのを聞く。もう一度開けて顔を見たい衝動にかられたが、たぶん気まずくなるのでやめた。
今日、初めて呼ばれた名前に、耳がくすぐったくなった。
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