第1章 第2話


 A組の教室に入ってすぐ、祭原牧さいはらまきを見つけた。にぎわう生徒たちのなかから彼女を見つけるのは、宮毛町みやげちょうで猫を見つけるくらい簡単な事だった。


 窓際から二列目、前から三番目の席。くねくねと曲がった天然パーマの黒髪。学校指定のブレザーの下に必ず着ている灰色のパーカー。不機嫌そうに眉をひそめ、肘をつき、拳は頬から離れない。


 そんな彼女に、誰も話しかけようとしていない。と思ったら、一年のときと同じクラスだったのか、女子生徒が牧に声をかけた。一言ふたこと交わしただけで、気まずそうに笑い、女子生徒が去っていく。


 女子生徒は別のグループに加わり、こわばった顔から緊張がほどけていった。中学校の頃、牧と同じクラスになったタイミングで、何度となく見たことのある光景だった。


 黒板の前に席順表が張られていて、確認する。パンを二つ抱えたさくらちゃんはとっとと先に確認して座ってしまった。一人取り残され、急いで確認する。五十音順に並んでいるらしく、私は牧と同じ列の、一番後ろの席だとわかった。


 席に向かう途中、彼女の顔を真正面から眺めてしまった。視線に気づいたのか、向こうも顔を上げてきて、必然的に視線が合った。足を止めなかったのが奇跡だ。


 どうする。

 何か話すか。

 もう一年以上、口をきいていない。


 牧は表情をほとんど変えない。眉がぴくりと、少し上がっただけだった。その様子だと、彼女もクラス表で私の名前を見つけていたのだろう。


 考えても、かけるべき言葉がさっぱり出てこない。せめて気まずくならないよう、このまま足を止めないようにするのが精いっぱいだった。


 さらに一歩近づいた瞬間、スイッチを踏んだみたいにチャイムが鳴った。それが視線を離すきっかけだった。

 さきに目をそらしたのは、牧のほうだった。


  ***


 祭原牧がよその町から転校してきたのは、小学校二年の終わりごろだった。そのときはほとんど話さず、お互いに別のグループでつるんでいたと思う。三年生になってクラス替えがあり、そこでまた同じクラスになった。


 最初に話したのは課外授業で、町に住んでいる猫を写生してみようという内容のものだった。学校の決めた範囲内でお気に入りの子を見つけて描き、優秀なものは町の役所に飾られるという。


 小学校の裏手にある小川の流れる通りがあって、そこのベンチでくつろいでいたトラ猫を私は描くことにした。トラ猫の昼寝を邪魔しないように、少し離れたところにあるベンチに座って描いてると、別の離れたベンチにもう一人、同じような姿勢で、同じトラ猫を描いている子がいた。それが牧だった。


 向こうも私に気づいて、トラ猫をはさんで目が合った。トラ猫を見ないといけないのに、なぜか不思議と視線を合わせつづけた。どちらが言い出したかは覚えていないけど、私たちは授業の終わりに、お互いに描いた絵を見せ合った。それが仲良くなったきっかけ。


 登校時も、昼休みも、放課後、休みの日も、何をするにも牧と一緒だった。クラスメイトの何人かと遊ぶときも、そのグループのなかには必ず牧がいた。


 牧といるときの自分は、ほかのクラスメイトの子と一緒にいるときの自分とは、何か明確に違った。どちらかといえば親といるときの自分に近い気持ちだった。親友という言葉がどうしてあの漢字なのかが、牧といれば答えがわかる。変な気を使う必要もなかったし、朝一番に見たいと思うのはいつも牧の顔だった。


 当時の牧は、いつも白いキャップをかぶって登校していた。授業中にもかぶっているときがあって、担任教師はいつもそれを注意していたが、牧がキャップを取ることはなかった。何か特段の事情があるのかもしれないと気づいたのか、担任はやがて注意をしなくなった。


 あとでこっそり牧に理由を聞くと、単純に「好きだから」という答えが返ってきた。牧と特に仲の良い私に目をつけて、担任が職員室に呼び出して、キャップのことを聞いてきたことがあった。嘘を考えるのが大変だった。


 中学校に上がる直前、牧の家でお泊まり会をした。一緒のベッドに寝て、彼女が手を握ってきた。


一歌いちかとは中学校も一緒だけど、高校も、それから大学も一緒にいる気がする。そうやってそばを離れない気がする」

「私もなんとなくそう思う」

「呪いみたいに」

「呪い? なんか嫌な響き」


 そっちが呪いの元凶だ、とお互いに押し付け合い、じゃれ合った。ひとしきり笑ったあと、牧が言った。


「じゃあ祝福」

「しゅくふく?」

「最近読んだ小説で覚えた言葉。祝福。呪いの反対の言葉だと思う」

「いいね。私たちはずっと、そばにいる祝福にかかっている」


 祝福が途切れたのは中学二年の終わりごろだった。親の都合で牧が引っ越すことになったのだ。私はその話(当時はまだ噂だった)を別のクラスメイトから聞いた。


 牧に問い詰めると本当で、引っ越し自体にもショックを受けたけど、何より私はその話を牧本人から一番に聞けなかったことがとても悔しくて、悲しかった。それで彼女を一方的に責めた。牧にも言い分があって、しばらく譲らない日々が続いた。会ってからここまで激しく喧嘩したのは初めてだった。それでも数日経って牧が謝ってきて、私も同じように謝った。


 引っ越しは三年の七月と決まった。牧は会うたびに家出をするとか、一人暮らしをするとか、一緒に住むとか、そういう話を本気なのか冗談なのか分からないトーンでしきりにするようになった。どう答えていいかわからなくて、否定も肯定もせずに笑った。祭原家の家の事情に私は首をつっこめないし、変えられる資格も力もない。


 引っ越しが迫ってきて、最後にどこか、行き先も決めず遠くに遊びに行こうと牧が提案してきた。猫がする旅みたいで面白そうだと、普段なら思ったかもしれない。


 だけど最後という言葉に私はひるんでしまった。その旅が終わったらもうこうして牧とは会えなくなる。頻繁に同じ場所に通って、同じところで笑って、同じ時間に遊ぶこともできなくなる。そういうあらゆる事実が急に襲いかかってきて、動けなくなった。


 決めていた旅の当日、私は風邪を引いたと嘘をついて、待ち合わせ場所の公園にいかなかった。そこは市が運営している広い運動公園で、公園内にある小高い丘の上が待ち合わせ場所だった。


 牧はずっとそこで待ち続けていたという。

 私の風邪が嘘だとわかっていたから。

 それでも思いなおし、私が来てくれると信じていたから。

 結局、私はそこに行かなかった。祝福がそれで途切れた。


 翌日、教室で牧は口を聞いてくれなくなった。私は何度も謝って、理由も説明したけど、牧は許してくれなかった。それで私も意地になり、自分から謝ることはなくなった。


 その一ヶ月後、牧の引越しが取りやめになったことを知った。またしても牧の口からではなく、私はそれを母から聞いた。牧の母親から私の母親に伝えられた話だった。夜だったので電話をかけたがつながらず、仕方がないので翌日、通学路で牧を待ち伏せて挨拶をした。引越しは避けられて、これからも一緒にいられる。これで修復されると思った。


 牧は私を無視して通り過ぎた。彼女はもう自分を許す気はないのだと、そのとき悟った。たった一度、約束をすっぽかしただけなのに。いや、牧にとってあの旅はそれほど大事なものだったのかもしれない。だけどそれを確かめる機会はもうない。


 中学三年の後半は一度も話さず、私はほかのクラスメイトたちと過ごすようになった。牧は一人になっていた。高校の進学先が一緒になったと分かったときも、それがきっかけで話すことはなかった。高校生になり、クラスが初めて別れて、とうとう顔を見る日さえなくなった。牧がどう過ごしているかも知らないし、私は町の猫を愛でるのに忙しく、そんな日々が次第に楽しくなっていた。


 だからやっぱり、あれは呪いだったのだと思う。


  ***


 ごとん、と後頭部に重い衝撃が走って、そこで爆睡から目が覚めた。新しいクラスの新しい席の新しい机には、快眠効果があるのかもしれない。気づけば二年生最初のホームルームが終わり、教室はにぎわっている。


横を見ると桜ちゃんが立っていて、その手に国語辞書を持っていた。後頭部を直撃したものの正体にぞっとする。


「知ってる桜ちゃん? 辞書って言葉を調べるためのもので、人の頭に落とすためのものじゃないんだよ?」

「知ってる一歌? ホームルームは快眠のための時間じゃないんだよ?」

「なんでよりにもよってそんな重いものを落とすの……」

「言葉って重いんだよ」

「意味が分からないよ」


 四の五の言っているうち、辞書をまた落とされそうになる。今度は必死にあらがって、なんとか逃れる。

やり取りを終えて、伸びとあくびをひとつずつ。


「いや、昨日徹夜で猫グッズつくっててさ。お手製ねこじゃらし。でもおかげで可愛いのができたんだよね」

「ほんと、飼えないのによくやるよね、一歌の猫グッズDIYの趣味」


 私の家は父が猫アレルギーなので飼えない。この町の繁栄を喜べないひとがいるとすれば、それはたぶん父だ。だからつくったDIYグッズはすべて、町の野良猫たちに遊び相手になってもらうための道具になる。


 桜ちゃんがスポーツバックをかつぎ、立ち去ろうとする。


「それじゃあたし、このまま部活だから」

「陸上部は偉いね。始業式の日も休まない」

「あと、一歌が寝てる間に担任が勝手に委員会のメンバー決めてたから。ちゃんと確認しとくんだよ」

「え、うそ! 私なんかに入れられた? 保健委員? それか放送委員? もしかして体育祭実行委員? あれ嫌だよめんどくさそう」

「はっきり言ってやる。寝てたあんたが悪い」

「言葉って重い!」


 突っ伏す私を置いて、桜ちゃんがとっとと教室を出ていく。諦めて立ち上がり、黒板に書かれた割り当て表を順番に確認する。


 保健委員にも放送委員にも、それから体育祭実行委員にも私の名前はなかった。何人か知っている名前があって、一年生のときによく居眠りしていた生徒たちの名前だった。物言わぬ生徒を完全に標的にした割り当てだった。


 最後の方になり、「美化会員」の欄にとうとう自分の名前を見つける。美化委員。何をするのだろう。校内清掃とかそういうのだろうか。まったく想像できない。


 ふと、横に一つだけ並ぶ名前を見て、そんな活動内容の心配が一瞬で意識の片隅に吹き飛んでいった。


『祭原牧』


 彼女と、同じ委員会のメンバーになっていた。

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