第1章 第3話
職員室前の壁にある座席票から、担任の名前を見つける。
職員室のドアをノックしようとした瞬間、その手が空振りして、目の前のドアが開いた。そこに祭原牧が立っていた。エンカウントが早すぎる。
想定外の事態に体が固まる。向こうも、昔からの半開きの気だるげな瞳が、わずかに大きく見開かれる。
「あ、えと」
「……邪魔。どいて」
わきに避けると、素早く早歩きで去って行った。いまのが一年半ぶりの会話だった。
何秒、あるいは何十秒そこに立っていただろう。我に返って「失礼します」と職員室に入り、小早川先生の座席を目指す。
先生はホットコーヒーを飲もうとしているところだった。シュガースティックをコーヒーに投入している。デスクの脇にはすでに使われたシュガースティックの包みが四本転がっていた。
「
「え、どうしてわかったんですか」
「やっぱお前もか。まったく信じられないな」
そのコーヒーほどじゃないと思う。
言葉を飲み込んで、代わりに尋ねる。
「お前もって?」
「
それで職員室にいたのか。
考えと行動が重なっていたらしい。
「そっちも同じ理由か?」
「ええ、まあ、はい……」
「なら祭原のときと返事も同じだ。答えはノーだ」
砂糖入りコーヒーを先生が一口すする。コーヒー入り砂糖と表現したほうが正しいかもしれない。先生が何かの病で倒れる前になんとか説得しなければいけない。
「お願いします。
「生徒間のいざこざなんて知ったこっちゃない。ぐーすか寝てたお前らが悪い。それにずっと顔突き合わせてやるような仕事でもないんだから、我慢しろ」
「そもそも美化委員って何するんですか?」
「校内および敷地内の美化活動。A組にやってもらうのは、放課後に学校の敷地内を見回って、入りこんだ猫を追い出す仕事だ」
猫、という単語にうつむきかけた顔が上がる。我ながらわかりやすい性格だ。
「それって猫と会って遊べるってことですか?」
「違う。追いだすって言ったろ」
「でも追いだすには見つけないといけないですよね? つまり会って遊んだあと穏便に向こうから立ち去ってもらう方法でもいいわけですよね」
「怖い怖い怖い、そして近い。ちょっと引くわ」
「そのコーヒーもけっこう怖いし引きます」
どさくさにまぎれて言ってしまった。
しかし先生は無視して続ける。
「そんなに猫が好きなら、適役じゃん。決定ね」
「あ、いやでも牧とは……」
「いいからやれ。ちなみに私は猫は嫌いだ。タバコ吸ってるとあいつら絶対に寄ってくるんだよ」
「嫌いなんですか、この町に住んでるのにもったいない」
「前はこういう町じゃなかったんだよ。最近はまたとくに変化が激しいし。右も左も、上下左右も猫、猫、猫」
先生の言うとおり、都心郊外のベッドタウンの一つに過ぎなかったはずの
去年、勢いづいて調子に乗った宮毛町は、世界で一番猫が住む町としてギネスブックに認定できないか真剣に検討していた。調べた結果、イタリアのシチリア島の南にあるマルタ共和国という小さな島国に、七〇万匹の猫が住んでいることがわかり、ギネスへの挑戦をひそかにあきらめたらしい。
町内の正確な猫の数は私も知らないけど、少なくとも七〇万匹より下なのは確かだ。先生の言葉を借りるなら、右も左も、上下左右にもあの子たちはいる。七〇万匹よりも少ない密度で。
「わかったらとっと行け。明日から早速やってもらうからな。放課後、もう一度こい」
以上解散、と言い終えて、猫を追い払うみたいに、しっしと手で払われる。諦めて立ち去ることにした。
職員室のドアを開ける直前、さっきの光景がよぎる。またはち合わせないか心配で、今度はそっとドアを開けた。
もちろん牧はそこにいない。
***
猫を好きになっていなかったら逆に何を好きになっていたのか、としばしば心配される私だけど、身につける装飾品や文房具、カバンは意外にも猫に染まっていない。猫のためのグッズを集めたりつくったりすることはあっても、自分が身につけるための猫グッズはあまり使わない。そこにハマらなかった理由は、どんなデフォルメされた可愛い猫も、写実的に描かれた猫も、生きている本物には叶わないと思ってしまうから。
私とは逆で、猫グッズを集めているのは、どちらかといえば牧のほうだった。
「んぐ」
額に衝撃が走って、起きると、母が部屋に入り込んでいた。枕元につくりかけのキャットトンネルの部品があり、それを落とされたのだとわかった。入口につける予定の、プラスチックの輪っかのパーツ。
「どうしてみんな頭に物を落とす! 馬鹿になったらどうする!」
「日本史のテストで武将の名前を書く欄に『猫殿様』って書いたときから諦めてるのよ、お母さんは」
猫のシールも模様もプリントされていない無機質な目覚まし時計を見る。遅刻ギリギリの時間だった。普段はあまりこうならない。むしろ早めに家を出て周囲の猫と戯れるために散策している。今日はどうやらできそうにない。昨日は寝つくのに時間がかかってしまった。原因は一つだ。
お母さん、と部屋を去りかけた母を呼び止め、こう訊いた。
「牧のお母さんといまも連絡取ってる?」
「最近はあまり。どうして?」
「……牧と同じクラスになった」
「あら、そうなんだ。久し振りに聞いたわ、牧ちゃんの名前」
母が続ける。
「仲直りできた?」
「あのね、会った瞬間に和解とか、人間はそんなに単純な生き物じゃないんだよ」
「猫にでもなれれば良かったのにね」
「猫様を単純な生き物とか言うな!」
「あんた牧ちゃんとの関係どうこう以前に、クラスで孤立しないよう気をつけなね?」
面倒くさそうな顔とため息を残して、母が去っていく。数秒後に、ため息だけうつった。放課後が来てほしくないと思ったのは初めてかもしれない。
結局、寄り道する時間もなく数億年ぶりに無価値な登校を果たした。今日まではオリエンテーション期間で、教科書が配られたり、時間割りが発表されたり、席替えが行われたりする。
新しい席は廊下側の壁寄りの列で、またしても一番後ろだった。桜ちゃんはちゃっかり景色の良い窓側の席を確保していて、その間に挟みこまれるように、牧の席がある。何度か目をやったが、相変わらず周囲の人を寄せ付けない空気をまとっていた。そこにだけ退屈な絵が飾られているみたいに、誰も牧のほうを見ないし、話題も振らない。
昼になって早めの放課後を迎える。チャイムが鳴り終えるより前に桜ちゃんが近づいてきた。「今日は起きてるぞ」とファイティングポーズを見せると、苦笑された。
「一歌は今日からだっけ、委員会。結局やるんだ」
「やらないと内申を下げそうな先生だった」
「部活は何か入らないの?」
「いまさら二年から入るのもなー、って感じ。どうして?」
「部内に委員会の子が何人かいるけど、部活を理由にいつも委員会には参加してない。何か部活に入っておけば、出なくても済むかも」
「なるほど」
部活か。興味はなくても、何か適当に入っておけば――。
「うち来る気はない? 一歌、足速いじゃん。去年の体育祭でも目立ってたし」
「えー、でも走るの疲れるもん」
「まあ考えておきなよ。どうしても委員会が嫌なら、そういう方法もあるよ」
思わぬ金言を残して、桜ちゃんは去って行った。牧のほうをちらりと見ると、彼女はもう席にいなかった。すでに職員室に向かっているか、あるいはサボると決めて帰ったか。とりあえず、私も席を立つことにする。
職員室に向かいながら、部活動への入部のことを考える。入るならどこがいいだろう。いまから新しいコミュニティに参加するのは負担がかかる。やっぱり比較的馴染みやすそうな桜ちゃんのいる陸上部か。聞けば、校内のグラウンドよりも敷地外で走ることが多いらしい。猫と戯れる時間はありそうだ。
職員室前に到着すると、すでに小早川先生と牧がいた。牧がまた何か訴えていたらしく、小早川先生は首を横に振る仕草をしていた。
「奈爪も来たか、じゃあ説明始めるぞ」
先生は一度職員室内に戻り、それから近くのロッカーを開けて、長い網に箒とちりとり、それにゴミ袋を持ってきた。
「基本的には敷地内を見回って、入りこんでいる猫がいたら追い払う。こっそり餌づけしてる生徒もいるだろうから、そういうスポットを見つけたら撤去して」
「網は何に使うんですか?」牧が訊いた。
「木に登って出ていこうとしない猫をすくい取るため。機会は少ないだろうが。箒とちりとりとゴミ袋は、ついでに清掃活動」
先生が両方を差し出してくる。私が手を伸ばすより早く、牧が網を取った。明らかに仕事の少ない方を選んだのが分かる素早さだった。ずるいぞ、と抗議を視線で訴えるが、交渉する気もないように、とっとと歩きだしていく。
先生と目が合い、残った箒とちりとり、ゴミ袋が差し出された。
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