孵り支度

佐藤山猫

第1話

 遠からず、わたしは母の胎に帰る。


 だから今のうちに、支度をしておこうと思った。


雑賀さいか、久しぶりだな」

「おう、久しぶり」


 何年かぶりに会った友人は、すっかり腹が出て髪も薄くなっていた。平日の夜の居酒屋にも、鈴木のようにスーツ姿のものがちらほらといた。


「もうおっさんになっちまったよ」


 中年太りの体型を自虐して、鈴木はおしぼりで顔を拭いた。ビールもまだなのに、お通しとして供されたザーサイに箸を伸ばしている。


「食欲を抑えないともっと太るぞ」

「こんなの、食事にも入らねえよ」


 鈴木は鼻の穴を膨らませた。

 まもなく運ばれてきた中ジョッキをうち合わせる。乾杯、と互いに声を揃わせた。


「お前、いま何やってるんだっけ? コンサル勤めだったよな。理系だったのに研究職に進まず、大学でやってたのと全然違う分野に進んで」


 鈴木の言葉に、わたしは苦笑いをして首を振った。


「それは辞めたんだ。いまは土地を借りて、田舎で農家やってる」

「農家。お前が?」


 素っ頓狂な声をあげて、鈴木はわたしの服を目でなぞった。わたしは、トレーナーにチノパンという、かなりラフな格好をして来ていた。鈴木は何か納得したような表情を浮かべた。


「学生時代の経験を活かせているんじゃないか」

「そうだな」


 わたしは首肯した。


「いつかはやらなきゃって思っていたんだ」

「使命感か? 珍しいな」

「絶対必要になるって思っていたんだよ。いまは育てた野菜なり家畜なりを自分で食ってる。自給自足ってやつだな」

「悠々自適だな。儲かるのか?」

「サラリーマン時代に貯めた金を運用に回しててな。まあやっていけるくらいには稼げているよ」

「農家ってよりかは隠居だな。羨ましいこった」


 言葉とは裏腹に、鈴木の表情にはどこか冷笑するような感があった。フリージャーナリストで、世の中の酸いも甘いも見聞きしてきたからだろうか。鈴木は随分と皮肉っぽい顔をする。

 運ばれてきたジャンキーな料理が、わたしたちの会話を中断させる。ごゆっくりどうぞ、と伝票をしまう音を合図として、ゆるゆるとわたしたちは箸を手に取った。


「急に会いたいって言うから驚いたぞ」


 取り皿によそった唐揚げにレモンを絞りながら鈴木は言う。昔の鈴木なら、大皿で運ばれて来た時点で断りもなくレモンを絞っていたはずだ。些細な変化にわたしの頬は緩んだ。今日は少しアルコールの回りが早い。


「もうじき、母親のところに帰るんだよ」

「ああ、かえ支度じたくって訳か」


 飲み込みが良い。鈴木はうんうんと頷いた。

 男と女の性差はいくらでもあるが、最も特別なのは、女だけが胎から子を産むことができることだろう。孵る間際まで胎の中で育てた卵を産み、孵卵器へ入れて待つ。技術が確立される前は母がその身で包み体温で孵していたという。

 その頃はまだ、出産は不可逆だった。

 今はもう、出産は可逆的だ。


 母親が自分の子どもをその胎に戻すことができるようになった。産み直し。擬似的な兄弟の産生。自らの命と引き換えに新しい命を創る行為。

 何よりも人気を博したのは、胎に帰した子どもの年齢の分だけ自分の年齢を若返らせることができる点だった。不老不死の実現と美の再生は瞬く間に女性の支持を集め、倫理的な議論は遥か後方に置いていかれた。母親の胎に帰ることが親孝行とさえ言われた。


 個体死を迎える前に後世への備えをしておくことはかつて終活と呼ばれ、特に母親の胎に戻る前の準備のことは、孵り支度と名付けられた。社会に広く浸透した概念だ。


 わたしの母も当然、わたしが帰るのを求めた。それはもう、物心ついた頃から感じていたことだった。「あなたもいつか、わたしの中に帰るのよ」と直裁に語りかけられることすらあった。幼年期、反抗期と成長の過程で何度渉わっても母の考えは変わらず、わたしの考えが解されることもなかった。大学に進む頃にはすっかり諦めていた。


「お袋さん、昔から死ぬのが怖かったんだっけ」

「いつまでも若々しくありたいんだってさ」


 わたしは、母のアンチエイジングを謳う化粧品やサプリを買いあさっていた姿を思い出した。


「俺のところはまだ何も言ってきてないけど、そのうち来るのかな」


 目を落とした鈴木は、ふと、わたしの左手の指輪に目を留めた。


「お前、結婚していたのか」

「意外そうだな」

「あの頃のお前は、結婚なんぞしたくないと言っていたはずだ」

「そうだったかな」


 鈴木の記憶力に内心舌を巻いた。そうだ。結婚して家庭を持てば、もっと遅らせることができるのではないかと、そう期待したのだった。


「子どもは?」

「娘が二人いる。二人ともまだ小学生だ」

「かわいい盛りだな」

「ああ。目に入れても痛くないとは、昔の人はよく言ったもんだ。帰ってくるたびに寂しかったって甘えてくるんだ。もうデレデレだよな」

「ははは。俺のところは中学生の男だからな。反抗期真っ盛りで、話しかけても生返事ばっかだ」

「それでもかわいいだろう?」

「そりゃもちろんそうだけどよ」

「子どものためにも、長生きしなくちゃなって日増しに思うんだ」

「分かる分かる。進学とかでこの先物入りだし、何より少しでもいい暮らしを残してやりたいからな」


 意気投合してわたしたちは同時にビールを煽った。空になったジョッキを店員が目敏く見つけ、回収する。「おかわりはいかがですか」の問いかけにわたしはハイボールを、鈴木は中ジョッキを注文した。


「青臭いことを言うようだけど、俺が死んだ後、一体何が残せるのかなって」

「子どもにか? そりゃお前、農家なんだから土地は残せるだろうよ」

「子どもだけじゃないさ。もっとこう、広く、世の中に」


 わたしはハイボールを一気に煽った。肺腑の底から空気の塊がこみあがってくる。


「そういう物質的な話じゃなくてさ。功績とか記憶とか意思とか」

「おお。ほんとうに青臭いじゃないか」


 鈴木は拍手を打ってみせた。どうしてこれほど皮肉な男が、フリージャーナリストなんてので食い扶持を稼いで、更には家庭を築いているのか。わたしは真剣に疑問に感じた。


「何はどうあれもうすぐ死ぬからな」

「親に言われちゃぁな。歯向かうにも歯向かえねえよな」

「臍乃緒機関が黙っていないからな」

「正当な理由がある場合を除き、帰るまでの猶予期間は五年だ。あいつらが決めたことだ」

「それに睨まれてからもうすぐで五年経つんだ。……ああ、長生きしたかったなぁ」


 なるべく湿っぽくならないよう冗談めかしたつもりだった。

 しかし、鈴木はじろりとわたしを睨んで言った。


「なんだ。帰るのが嫌なのか」


 酒が入っていることを差し引いてもやけに力強い眼光だった。息が詰まる。一瞬で空気が張り詰めた。探り合うような視線がふたりの間に絡みつく。数秒の沈黙が何十倍にも感じられた。

 緊張を破ったのは鈴木の方だった。鈴木はふっと強張っていた口元を緩めた。


「……まさかな。親孝行なことで大層結構じゃないかよ。嫌がるなんてとんでもないぜ」


 わたしは鈴木に合わせるように口の端をあげて見せた。ピエロのような顔付きになった。

 鈴木は声を潜め、なおも続けざまに言う。


「そんな危ない発言はやめてくれよな。俺は男で、お前と同じくらいの年齢で、子どもがいることまで被ってるからまだ分からなくもないけどよ」


 赤らめた顔でジョッキを静かに置く。急に悪くなった居心地を誤魔化すように、ハイボールを一気に煽った。アルコールが食堂を迸り、臓腑に浸透する。


「子どもが独り立ちしたのをきっかけに、年老いた母親を若返らせようとする五十路の男」

「美談だな」

「癌に冒された母親を救うため、若くして孵った高校生の少年」

「若返りは癌の特効薬だからな。他の病気とは違うところだ」

「孵ることを拒否し、全国から非難に晒されたやつもいた」

「覚えているよ。母親の代理人ってのが声明を出してたっけ」

「そうだ。世の中の風潮がどうなっているのか、お前もよく知ってるはずだ」


 鈴木の表情には侮蔑も敵意もなかった。対極とも言うべき感情──同情がそこには芽吹いていた。


「奥さんはどう言ってるんだ? お前が帰ることに関しては」

「少なくとも、当たり前のことという意識はあるみたいだ。驚くでも悲しむでもない。波風ひとつなかったな」


 妻に「お袋から『かえってこい』って言われた」と告げた夜のことを思い出す。「そう。どれくらい先になるの」と凪いだ様子で受け止めた妻は、晩酌のつまみに精のつく料理を出しながら「久しぶりにどうかな」とわたしを誘ってきた。

 胡乱な目をしていたと思う。「三人目が欲しいの」と妻はシナを作り、「できれば男の子がいいわ」と言った。

 なんと言って断ったのか、覚えていない。少なくとも、怒鳴ってはいないはずだ。


「俺に会ったこと、どうか俺がいなくなっても覚えていてほしいんだ」


 別れ際、わたしはそう言って鈴木に手を振った。














 友人の雑賀がかえって、もう一年になる。

 かえった者に墓はない。元々は生まれ変わりを想定した技術で、帰った者と産まれてくる者は同じ存在だからだ。

 そういう理屈で通っている。


 雑賀の実家は、私たちが学生時代暮らした街から山をふたつほど越えた町にあった。土地の間隔が広い様は、郊外と呼ぶには田舎こけていて、田舎というには緑が少なかった。


「鈴木と申します」


 応対に出てきた女性に、フリージャーナリスト、と肩書きの書いてある名刺を差し出す。大学の名前を出すと「兄がお世話になったようで」と言うので、雑賀の妹だと分かった。「農学部で一緒でした」と私は言葉短に言った。


「母のことですよね」


 雑賀の妹の顔には、隠しようのない疲労が浮かんでいた。


「そうです」

「当初は随分と取材に来られましたが、どうして今頃になって」

「まあ、ちょうど一年経ちますから」


 雑賀が死んでから、という言葉は腹の中に飲み込んだ。


「母はこちらです」


 玄関を上がってすぐの部屋を示される。雑賀の母親は、雑賀を胎に戻したことで急速に若返ったという。

 が、それも一年前の話だ。


「お母さん。お兄ちゃんの友達だった人よ」


 呼びかける娘の方が親にすら見えた。

 それは、見た目だけの所為ではない。


「あっあっあなたっがったはだぁぁれ?」


 雑賀の母は呆けていた。恍惚としていたと言ってもいい。

 声は震え、どもり気味で、カタカタと壊れた機械人形のように震えている。痩せ細り、落ち窪んだ眼窩と唇の端から滴る涎。病人特有の気配を濃厚に纏っていた。言葉もなかった。


「全身が癌の巣になっているんです」


 部屋を後にして、雑賀の妹は深々と溜息をついた。


「食事も喉を通らず。点滴をしようにも、すぐ抜けちゃう始末で」

「神経機能と認知機能の障害、と」

「医者に診せてもこんなのはじめてだと。普通、胎に帰らせたら病とは無縁になるのに」


 涙交じりに語る彼女に丁重に礼を言って、私は雑賀の実家を後にした。


 特急の席で私は実家から届いた葉書を取り出した。「そろそろ孵り支度を始めておけ」と記されている。私の母もまた、老いる自分に耐えられなかったらしい。


「長くてもあと五年か」


 窓の外を流れる景色は妙に灰がかっていた。

 雑賀の孵り支度は、まず農地を借りるところから始まったようだった。


 野菜を育てるにあたり、雑賀は過剰なまでの農薬を使用した。BHC、DDT。体内で分解されず蓄積する危険な農薬。この国では使用が禁じられているはずのものまであった。

 雑賀は鶏を飼っていた。飼料に用いていたのは家禽くずや肉骨粉。時に家畜に与え、時にサプリメントのように自分の食事にふりかけていた。確か雑賀の卒論のテーマはBSEだった。

 自分の身体を毒に浸して、雑賀はどんな結末を思い描いていたのだろうか。私は背もたれに深く身体を沈めた。




 


 

 

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