女友達が「私ゲイかも」って言いだした。

畑るわ

女友達が「私ゲイかも」って言いだした。

俺の友達には、とてつもなく変な奴がいる。


名前は九条さつき。年齢は俺と同級生の26歳で、たしか都内でOLをやっている。

いや、今はOLという言い方は古いんだったか…。とにかく、正社員として立派に働いている、ごく普通の女性だ。


中身がひじょ~~~~~うに変わっているということを除いて。


「ねえ、私やっぱりゲイなんだと思う」


季節はもうすぐ冬が訪れる時期で、すっかり出てくるのが遅くなった太陽の光が、ほとんど客のいないカフェに差し込んでくる。

そのまぶしさに目を細めながら、手前に座る九条の、せわしない手の動きを追っていた。


「ちょっと木崎、話聞いてる?」

「聞いてるよ」

「目がほとんど開いてないよ」

「朝日のせいだろ。まぶしいんだよ、こっちの席」


九条は朝日を背にして座っているため、全くまぶしくないのだろう。その大きな瞳を、朝とは思えないほどしっかり開けて、俺をまっすぐ見つめている。


俺と九条は幼稚園生の時からの腐れ縁だ。

といってもその期間ずっと仲が良かったわけではなく、お手てをつないで登下校した小学生時代を経たのち、中学や高校ではそれぞれ同性の友人とほとんどの時間を過ごした。

同じ大学に合格していたと知ったのは、なんと大学に入学して2年後の、自動車教習所で出会ったときだった。


『さつ…九条?』


声をかけたのは俺からだった。

さつき、と下の名前で呼びそうになったのを直前でやめ、苗字で呼ぶと、高校生の時からほとんど変わらない姿をした腐れ縁が振り返った。大きな瞳は驚きからかまん丸になっていたが、整っている顔つきや線の細い体も昔そのままで、安っぽいグレーのパーカーから出ている腕はまるで枝のようだった。

もう大学3年生になるというのに、九条はおしゃれどころか化粧もほとんどしていないようだった。いや、大学生とは本来好きな恰好で学校に来ていいはずだが、少なくとも俺が同じ学部で見る女性たちと九条は全く違って見えた。


大学生の九条と仲良くなるのにそう時間はかからなかった。思春期を終えた俺たちは、良い意味で力の抜けた会話を楽しむことができた。

何より、しばらく話していなかったとはいえ、まだ歯も生えそろっていない頃から一緒だった友人だ。いくらでも思い出話に花を咲かせることができたし、互いの性格を何となく理解しているからか、妙に居心地が良かったのだ。

大学では学部のキャンパスが遠く、学内で会うことはほとんどなかったが、代わりに月に1回程度お茶をする仲になった。九条はかなりの朝型で、夜20時を過ぎると眠気に耐えられなくなってしまうらしく、俺たちが会うのはいつも早朝のカフェだった。

ほとんど客のいない店内で、声を抑えながら他愛ない話で盛り上がる時間が、俺は好きだった。


そんな九条から初めて込み入った相談をされたのが、大学卒業間近のとき。


『私、もしかしたらレズビアンかもしれない』


いつになくまっすぐな瞳で俺を見る九条は笑っていなかった。

九条は俺に嘘をついたことがない。22年間一度も。


『え、好きな子でもできたん?』


そんな真剣な九条に対する俺の回答といえば、これだ。最低だ。

でもその時は本当にそれしか思わなかったのだから仕方がない。恋愛対象が女性かもしれないと言われたら、好きな女の子でもできたのかな?と誰でも思うだろう。

少しの間ぽかんと間抜けな顔をしていた九条は、慌てて『ごめん、木崎は知らないかもしれないけど、普通の男女の恋愛以外にも性的マイノリティっていうのがあって…』と補足を始めた。

九条はそういうきらいがあった。相手の思考を表情や言葉から先読みして、頼んでもいない長話を慌てて始めるのだ。それは九条にとって人に嫌われないための世渡り術のひとつであったが、少なくとも俺は、普段の妙に落ち着いている九条らしくない、びくついたような態度が気に食わなかった。

長々とLGBT関連の話を終えたのち、九条はせわしなく動かしていた手をゆっくりとテーブルの上に置いた。九条はとてもジェスチャーが多い。そしてその代わり、人の話を聞くときは一切手を動かさない。


『どう思った?』

『いや、好きな女の子できたんかと思った』


当時はブラックコーヒーがまだ苦手で、俺はほとんど飲み終えていたオレンジジュースの底をすすりながら答えた。

九条は瞬き一つせず、大きく唾をのみ込んで、声を発した。


『…できてない』

『できてないんかい!好きな子の話かと思うだろ普通』

『普通?』


重い空気に耐えられず、思わずへなへなとテーブルに頭をつけると、頭上から九条の声がふってきた。

顔を少し上げると、九条は興味津々といったふうに前のめりになって俺の頭のほとんど真上にいて、危うく頭とあごがぶつかるところだった。


『普通ってなに?』

『いやだから、恋愛の話かと思ってたから、好きな女の子でもできたのかと思ったんだよ』

『恋愛の話じゃない。恋愛対象の話』


”恋愛の話”のところで大きく手で空に丸を描き、それをかき消すようにばつ印をつける。そして”恋愛対象”のところで、九条は自身の左胸をそっと押さえた。


『その話で、誰かに傷つけられたり嫌な思いをしたりしたのか?』

『いや、してない。ただの報告』

『そっか、ならよかった』


俺の味気ない反応に拍子抜けしたのか、九条は少し戸惑っている様子だった。


『とりあえず九条がレズビアンかもってことは分かったから、具体的に何かつらいこととか好きな子できたとかあったら、教えろよ~』

『う、うん。分かった』


九条はそれだけ言って、ごくごくとホットコーヒーを飲みほした。ある程度ぬるくなっているだろうが、こいつは熱々のコーヒーもよくがぶ飲みする。変だ。

でも、伝えづらかったであろう話を終えた後の、少し緊張しつつもほっとしたような表情は、とても普通の人らしかったのを覚えている。


そして、今に至る。

しかし、いくら九条が変だとはいえ、いつも唐突すぎる。レズビアンの話をした時も前触れなしに話し始めるものだから、変に話がこじれるのだ。そもそも”恋愛対象”の話になったのは、あの時以降これが2度目だ。4年ぶりに話すのであれば、少しは前置きとかそういうものを挟むのが普通じゃないのか。いや、九条に普通を求めること自体、馬鹿らしいのかもしれない。

ゲイ、ってたしか男性の同性愛者ではなかったか。九条は学生時代セーラー服を着ていたような気がするし、現に目の前にいる人間は女性にしか見えない。

肩まで伸びた黒髪、相変わらず化粧はしていないが整った女性的な顔立ち、ほんのりと膨らんだ胸のあたり…


「今胸見た!セクハラ!」

「ごめん、九条って男だったっけなって思って」


バシバシとテーブルを叩くふりをする九条は、やはり女性にしか見えない。自分なりに解釈しようとしてみたが、『私ゲイかも』としか言われていない以上、いくら考えても俺の妄想でしかない。


「それで、何をどう思ってゲイだって結論に至ったわけ?」

「待って。ゲイだってはっきりしたわけじゃない。そうなのかもしれない、っていう仮定の話なの」


待って、と言うとき九条は必ず手のひらをこちらにはっきりと向ける。ジェスチャーが大きくて多いところは、ずっと変わっていない。


「分かった、分かった。九条がゲイ”かもしれない”って思ったきっかけは何なの?」

「うん、少し長くなるんだけど、ごめんね」


そう前置きして(こういう前置きはできる)、九条は少し声のトーンを落とし、話し始める。

学生時代、男性を好きになる経験がなかったこと。

男性に好意を寄せられても、その男性と付き合いたいと思うことはなかったこと。

それゆえに自分はレズビアンかもしれないと思い至ったこと。(そういえば、俺は九条がレズビアンかもしれないとは聞いたが、その理由までは聞いていなかったことにこの時気づいた)

しかし社会人になって出会った男性にあっさり恋をし、数年付き合ったこと。

そしてつい最近、付き合っていた男性から「ごめん、実は俺、ゲイなんだ」とカミングアウトされ、別れたこと。


久しぶりに長く話をしたようで、話し終わると九条は胸に手を置き、ふうと深いため息をついた。


「…っていうわけなの」

「うん、全然わからん」

「えー、すごく単純な話なのに…」


九条とは長い付き合いだが、こいつはよくしゃべるわりにあまり話すのが得意ではないのかもしれないと思った。いや、俺といるときはよくしゃべるが、思えば学生の頃の九条はいつだって優しい聞き役だった気もする。俺が知らないだけで、案外九条は自分の話をするのが苦手なのかもしれない。


「私は男性を好きにならないんだって思ってたんだけど、その人とはすんなり恋愛できたの。良き同僚、良き友人として、それに愛情も加わった感じ。穏やかで心地よい時間を過ごせた。それはきっと、相手も同じだと思う。

でも彼はゲイだった。そのうえで私を好きになった。そして私も、男性を好きにならないと思っていたけど、ゲイの男性を好きになった。これって私がゲイってことじゃない?」

「ごめん、脳の処理が追いつかないから一旦整理させてくれ」


九条の言い分はおそらく、こうだ。

自分は男性が恋愛対象ではないと思っていたが、普通に男性と恋に落ちて幸せに過ごした。今までは無理だったのにどうして、と疑問に思っていたが、相手がゲイだと知って色々と納得がいった。

九条の愛した男性は、男性が好きだった。そして九条を愛した。

つまり九条のことを、女性として見ていなかったのではないか、ということだろう。「異性として見ていない」というのは一般的には”恋愛対象ではない”ことを指すが、今回は真逆の意味になるのでややこしい。


そして、九条もその男性を愛した。疑問だったのは、今まで男性を好いたこともなく、好意を寄せられても応えられなかったのに、なぜ彼なら愛することができたのか、ということだ。

何度も言うが、九条が愛した男性は同性愛者だ。彼が女性を見るとき、その視線には性的なものが含まれていないのだろう。九条も含めて。

九条は自分のことを女性だと認識していた。そうでなければ、『自分はレズビアンかもしれない』とは思わないはずだ。

しかしもし、その根底が揺らぐことがあれば、話は変わってくる。


九条の自認している性別が、男性だったら?


いや、自認という言葉は正しくない。九条は自分のことを女性だと認識していたはずだから、正確に言えば『無意識化で自分を男性だと認識していた』ということになる。

九条が自覚なく自分のことを男性だと感じていたのだと仮定すると、確かに色々なことに説明がつく。男性からの好意に応えられないのは、ほとんどの男性から”女性”として扱われていたからであり、その好意を受け止めることができなかった。また、『レズビアンかもしれない』と感じた点においても、意識の上で男性なのであれば、性的マジョリティだと言えるだろう。たとえ体が女性であっても。

いや、それはトランスジェンダーということになり、結局は性的マイノリティになるのかもしれないが、とにかく今は九条を男性として考えているのだから、その点は気にしないでおく。


そして、彼だ。ゲイだという、九条の元恋人。

彼は九条を愛した。九条も彼を愛した。きっと二人にとって、お互いはとても特別な存在だったに違いない。自分をゲイだと思っている男性が女性と付き合い、数年をともにすることはそうないだろうし、九条に至ってはおそらく初めての恋愛だったのではないだろうか。


「…なるほど」

「今日はものすんごい時間考えてたね。もうコーヒー冷めてるんじゃない?」


なるほど、という声が漏れたときには、確かに目の前にあった熱々のホットコーヒーから湯気が消えていた。九条は手元にあるハーブティーをお上品にすすっている。


「ハーブティーなんてキャラだったっけ?」

「体に良いんだよ。香りもいいし、ノンカフェインだし」


ノンカフェイン?ブラックコーヒーを朝からがぶがぶ飲んでいた、どの口が言っているのか。いや、今はそんなことはどうでも良い。


「九条は、自分が男だと思ってるのか?」

「そういう可能性もあるって話」

「自分が男だと思っていて、それを元恋人も察して、男同士として惹かれ合ったと?」

「うん」

「だから自分はゲイだ、と」

「うん」


九条は俺に嘘をついたことがない。これまで一度も。

透き通った瞳はまっすぐ俺を見ている。九条は本気だ。いつだって。

俺は何と声をかけるべきか分からずしばらく黙っていたが、九条が話し出す雰囲気も感じられないため、小さくため息をつき、嫌がられるであろう話題を口にした。


「…でも、別れたんだろ。しかもゲイだってカミングアウトされた後で」

「そうだよ。ゲイだって言われるまで私も自分は女だと思ってたから…というか、性別について考えたことがあんまりなかったから、びっくりしたけど受け入れた」

「じゃあその男は、九条がゲイかもしれないって知らないんだな」

「そうだね。その話はしてない。知ったらどうなるかな」

「…どうだろうな」


知ったところで無理だろう。男は『ゲイだから』と九条を振ったのだ。そこには、精神的な面だけでなく、身体上の性別の問題もあったはずだ。九条がどう感じていようと、身体が女性であることは…おそらく確かだ。

よく考えてみたら、俺は目の前の九条の、ささやかにふくらんでいる胸部の布の下を見たことがない。見たい云々ではなく、俺は実際に見たものを信じる主義だ。しかしこの場でめくって見せてくれと頼むわけにもいかないので、俺は、


「なあ、九条の体って女…」

「どう見たって女でしょうが」


九条にしては珍しく食い気味で俺のくだらない質問を遮った。いや、思考する上では全くくだらない質問ではないのだが。


「分かってるよ。もう関係は終わったんだから、話を蒸し返してもしょうがないし、彼には私が女に見えたんでしょう」

「まあ、女だと思ってなきゃ『ゲイだから』って理由で振らないよな」

「ねえ、木崎。私一応、結構悲しかったんだからね?傷口に塩を塗り込まれてる気分なんだけど」

「ああ、ごめん」


九条は怒らない。怒らないが、傷つく。彼女のよく動く腕は、今は胸元でぎゅっとかたく縮こまっている。

俺は九条のそういうところも、あまり好きではない。素直に怒ればいいのにと思う。


「…九条は、自分がゲイだって思ったほうが楽か?」

「ら、く…?考えたことなかったけど、たぶん楽ではない、かな?」

「そうか」


大きくため息をついた俺に、九条は何か言いたげに手を宙で動かしていたが、目の合わない俺にかける言葉が見つからなかったのか、やがてあきらめたように手をひざの上に戻した。不機嫌そうな俺に気を遣っているのだろうが、俺は不機嫌ではないし優しくもないので、その気遣いに対して気を遣うなんてことはできない。

少しの重苦しい沈黙ののち、俺は口を開いた。


「楽じゃなくて、『かもしれない』で止まってるんなら、あんまり考えない方がいいんじゃないか」

「…でも、ゲイかもしれないんだよ」

「だからどうした」

「私女なのに、ゲイかもしれないんだよ?おかしいじゃん…」

「別におかしくないだろ」


はっと九条の顔が上がる。俺を見つめ、瞳孔がきゅっと縮まった。猫みたいだ、と思った。


「九条がどんな人間でも、人なんてみんなどっか変なんだから、おかしくないだろ。いや、分かった。みんな変なのか。元恋人なんてかなり変じゃないか、自分がゲイって分かってて女と何年も一緒にいてさ」

「そ、そうかな…?」

「そうそう。一番変なのは、散々傷つけられたし、今めちゃくちゃ悩んでるくせに、自分に優しくしない九条だよ。お前本当に変」


九条は本当に変わっている。どうして自分をそこまで追い詰める必要があるのか。自分が何者かだなんて答えがない問いを繰り返して、いつも自分をいじめ抜く。ボロボロになっても、傷だらけになっても、やめない。

その上、その傷を隠してけろっとしている。

九条がどんな人間であろうと、正直どうでも良かった。レズビアンだろうとゲイだろうと九条が九条としてそこにいるだけで、変で面白くて、楽しい。


「どっか行くんだろ。仕事辞めて。」

「えっ」

「さすがに二回目だから分かるよ。九条がこういう話するときって、何かの切れ目なんだよな」


九条はいつも何かを恐れている。人を傷つけること、期待を裏切ること、嫌われること。

レズビアンかもしれないと打ち明けられたのも、卒業間近だった。俺に嫌われたり、言いふらされたりしても、大きな問題にならない時期。


「…そうだね、職場にいづらくなったし、仕事辞めて実家に戻ろうかなって思ってた」

「予想的中だな」

「うん。木崎ってすごいね、私のことすごく分かってる」

「九条って変だからな、逆に分かりやすい」


何を!と小さくこぶしを上げたのち、九条はこらえきれなくなったかのようにぷっと吹き出した。そしてケラケラと気持ちよく笑った。


「ああ、おかしい。ゲイって何、ほんとおかしい」

「いや、自分で言い出したんだろ…」

「変なことばっかり言ってるのに、木崎は私の話を聞いてもいつも平然としてるよね」


九条は前のめりになっていた姿勢をゆるめ、後ろのソファにもたれかかってリラックスした様子で俺に笑いかける。いつもの調子が戻ってきたようで少し安心した。


「別に平然と聞いてないよ。むしろ何言い出したかと思っていつもひやひやしてるよ」

「私の方がずっとひやひやしてる。こんな話、受け入れてもらえないんじゃないかって。でも木崎はいつも、普通に聞いてくれる」

「普通かー…。俺にとっては、九条は変なのが”普通”だから、何言われても九条の認識は変わらんな」


俺の言葉を聞いて、九条は少し目を丸くしたのち、「普通、」と小さくつぶやいた。


「私が、普通?」

「いや九条は変。変なのが普通」

「…けなしてる?」

「ごめんごめん、そうじゃなくて」


俺は恐れていた。九条がカミングアウトをするときはいつも人前から姿を消そうとしているときだから。九条がいなくなって、もう二度と話せなくなるんじゃないかと怖かったのだ。

同時に、九条が自分自身を認められずにいるのではないかという恐れもあった。九条は俺が出会ってきた人間のなかで誰よりも繊細だった。その繊細さゆえに、周囲からの視線に押しつぶされそうになる様子を、ただ見守ることしかできなかった。


「レズビアンだろうがゲイだろうが犯罪者だろうが一般人だろうが、俺にとっては九条は九条だから。何言われても変わらん。

…だから、いつでも姿を消せる状況じゃないと本音を言わないとか、今更水くさいこと、もうしないでくれよ」

「…木崎は、変な人だね」

「うわ、一番言われたくないやつに言われた」


軽口をたたいていると、ウェイターたちがささっとモーニングメニューを取り下げ、ランチメニューを置いて行く。

気づくともう太陽はかなり高い位置にあった。ずいぶん長い時間話し込んでいたらしい。


「結構話したな、そろそろ出るか?それとも、昼飯でも食う?」

「私はそろそろ行こうかな」


ほとんど中身のなさそうなトートバッグとアウターを手に持ち、九条が立ち上がる。そしてこちらに視線を向け、意地の悪い微笑みを浮かべた。


「ねえ、私が何言っても聞いてくれるんだよね?」

「…若干認識が違う気もするけど、聞こう」

「今からちょっと行くところがあるんだけど、ついて来てくれる?」


突然のお願いに少しだけ動揺したが、九条の誘いはいつだって急なので、何も焦ることはない。特にためらうこともなく、俺はうんうんとうなずいた。


「ありがとう!病院なんだけどね、木崎は少し居づらいかも。でも木崎は優しいから我慢してくれるよね」


妙な言い回しが少し引っかかったが、気にしないでおく。


「良いけど、どこか悪いのか?」

「ううん、少し気になってるだけで、超元気!」


さっきとは打って変わって、きらきらと輝くような笑顔を見せる九条に、俺は安堵しつつ会計を済ませる。九条は無駄に気を遣うところがあって、いつも席で九条のぶんのお金をもらい、俺が一緒に会計する。正直一番いらない気遣いだ。


「ハーブティーおひとつとブレンドコーヒーがおひとつで、980円になります」

(ああ、そうか。今日はブレンドコーヒー二つじゃないから会計が違って…ん?)


伝票に書かれた”ノンカフェイン ハーブティー”の文字を見て、さっと血の気がひいていく。

慌てて後ろを向くと、すでに退店してドアの外にいる九条が、こちらに気づいて笑顔で手を振って見せる。


「く、九条サン…?」


おつりの20円を受け取ってもなかなか動けずにいる俺を、ウェイターがいぶかしげに見ているのが分かる。

行かねば。どこに?何をしに…?


(…今更、何をびびることがあるか)


はあと大きなため息をつき、俺は明るい日差しのもと楽しそうにくるくると回る九条のもとへ向かう。

俺が出会った人のなかで一番変で、普通な友人。自分をすぐに軽んじる九条さつきのためなら、俺は多少の犠牲は構わないのだ。

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